芭蕉の足跡(紀行文)
笈の小文

芸術論・紀行文論・旅行論などを交え、貞享四年十月江戸を発足、三河に杜国を訪ねて伊賀に越年し、翌春伊勢で杜国と落ち合い、吉野・紀伊などを巡遊、書家須磨・明石に至るまでの旅について綴ったもの。
冒頭の芸術論の部分と「幻住庵記」草稿文末との類似や、全編にわたる杜国への親密な配慮から推し、元禄三・四年、幻住庵・落柿舎滞在中、元禄三年三月に没した杜国への鎮魂の思いを込めて執筆したものと思われる。底本は、大津の門人乙州が編んだ宝永六年、平野屋佐兵衛版『笈の小文』によった。
爰に百の骨と九つの穴を供えた外形の中に造花の分身としての心を蔵した一個の人間がいる。そのものを仮に名付けて「風羅坊」という。いかにも読んで字の通り、薄衣が風に破れやすいように、心身共に虚弱で役立たずの人間であることをいうのであろうか。彼、風羅坊は、俳諧の道に執心耽溺することが久しい。今ではとうとう一生涯の生計の道とするようになった。これまでの半生を振り返ってみると、あるときは俳諧にも飽きて放り出そうと思い、あるときは積極的に俳壇に乗り出し他人に勝とうと得意になり、そのいずれの道をとるべきかという相対界における妄年が胸中で争って、このために身を落ち着けることができなかった。
この仮の世におけるしばらくの営みとして官途について立身しようとしたけれども、俳諧に対する愛着のために妨げられ、しばらくは参禅して自らの愚を悟ろうと思ったけれども、俳諧に対する執心のため挫折し、ついに無能無芸のまま、ただこの俳諧一筋の道につなぎ止められて今日に至っている。しかし、西行の和歌におけるも、宗祇の連歌におけるも、利休の茶におけるも、雪舟の絵におけるも、それぞれの道の根本を貫く精神は一つである。(願わくばかの俳諧も、たとえ芸術としての位置は低く、仕方なしにつながってきた道であるとしても、これらの先人達の根本精神に連なるものでありたいと思う)。
しかも、風雅の世界に身を置くものは、宇宙の根源的実在である造花の創造作用に随い、造化の働きによって生じる四季の不断の運行・変化を友としている。そうすれば、全て目に映るところは、花(美)でないことはない。心に映る形象が花(美)でないならば、未開の野蛮人と同様である。心に思うところが花でないならば、鳥獣と同類である。野蛮人や鳥獣の境涯から脱して造化の至大の働きに随い、造化に帰一せよというのが、中世芸道を貫く一なる根本精神である。
十月の初め、空は時雨が降ったり止んだりの定まらない様子で、わが身は風に吹き散らされる木の葉のように、前途がどうなるかわからない気持ちがして、
旅人と我が名よばれん初しぐれ
・貞享四年(1687)冬、『笈の小文』の旅出立に際し、餞別会で披露した句。
早く「旅人」という名で自分の名を呼ばれたい、折りからの初時雨の下で、の意。「旅人」は日常生活を離脱し、「風狂」の世界に遊ぶ人をさす。芭蕉にとって「旅人」と呼ばれることは、生涯を生き抜くのが「旅」であって、生活者の困窮を自ら体験する手段として「命がけの旅」を己に課すことを決意し、また孤独な放浪者として憫笑されることではなく、業平・能因・西行・宗祇ら、旅に生涯を送った私人たちの系譜につながる資格を公認されることを意味した。「呼ばれん」の「ん」には、そう呼ばれたいという願望も込められている。また、「時雨」は降るかと思えばすぐ晴れる定めなさから、古来無常観の象徴として詠まれてきたが、芭蕉たちはむしろ、古人が降られた時雨に自分も降られることに「風狂」の喜びを発見した。「初時雨」はその年はじめて降る時雨の意。浮き立つ気分が籠められている。初時雨(冬)
時は秋吉野をこめし旅のつと
時ぞ冬芳野をこめし旅のつと
時は冬吉野をこめん旅の土産(つと)
・今はまだ冬だが、春にはちょうど花の吉野山に行き着くだろう。その吉野での風雅をたくさんつめて帰ってくることだろう。旅の土産として。そもそも紀行文というものは、紀貫之・鴨長明・阿仏尼が、文章の妙を発揮して旅情を述べ尽くして以来、その他の紀行文はみな姿・形が似通っていて、先人のかすを模倣するのみで新味を出すことができない。まして、私のような知恵浅く才能の乏しいものの筆が及ぶはずもない。
「その日は雨が降り、昼から晴れて、そこに松があり、あそこに何とかいう川が流れていた」などということは、誰でも書くように思われるけれど、そんなことはいくら書いても仕方がない、黄山谷や卒塔婆が詠んだような珍しく新しいものでなければ、紀行文など書いてはならない。けれども、心に残った所々の風景や山中の宿・田舎の茶屋で味わった苦しい旅愁も、一方では話の種になり、風雅の助けにもなるかとしいて思い決め、忘れられない所々を、前後もかまわずかき集めたのは、やはり酔っ払いの出任せと同じく、寝ている人のうわごとをする類と見なして、どうか読まれる人々よ、あなたもまたいい加減に聞き流した上で、私の真意を汲み取ってほしい。
寒き田や馬上にすくむ影法師
冬の田の馬上にすくむ影法師
冬の日や馬上に氷る影法師
・貞享四年(1687)十一月、伊良湖崎に蟄居中の杜国を訪ねる途中、天津縄手(今の豊橋市)で詠んだ句。
冬の薄い日の光の中を、頼りない影法師のような人影が馬上に身を凍らせながらしがみついてゆく、の意。田の面に映るわが姿を詠んだのを、推敲して、冬の日差しに浮かぶ自身の姿の幻影にあらためたもの。冬の日・氷る(冬)
伊良湖崎は「万葉集」には伊勢の名所に選び入れられている。骨山という所は鷹を捕るところである。南の果てで、鷹が最初に渡ってくるところといっている。その時、一羽の鷹を見つけて、
鷹一つ見付けてうれし伊良湖崎
・貞享四年十一月十二日、芭蕉・杜国・越人の三人で伊良湖崎に遊んだ折の作。
鷹を一羽、見付けることができてうれしい。鷹がはじめて渡るという伊良湖崎で、の意。
『冬の日』の連衆の中でもことに私人的資質にすぐれた文芸上の貴種としての杜国を鷹に比し、仲間と離れた鷹を見付けた喜びに託して、空米売買の罪に問われ蟄居中の杜国に再会できた喜びを詠んだもの。
父母のしきりに恋し雉の声
・ここ高野山で雉の鳴き声を聞くと、あの行基の歌ではないが、父や母のことがしきりに恋しく思われる。
行く春に和歌の浦にて追ひつき足り
・刻々と過ぎゆく春に、この和歌浦でようやく追いついたことだ。
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かかとは傷つき破れて西行同様になるにつけ、西行が天龍の渡しで遭遇した苦難を思い、馬を雇うときは、馬を堀へ緒とされて激怒した「徒然草」の証空上人の逸話が心に浮かぶ。山野・海浜の美しい景色に対してはこれを作り出した造物主の働きを悟り、一切の執着を捨て煩悩を脱した仏道者の足跡を慕い、またあるときは風雅の道の先人の詩心の真実を探り知ろうとする。なおまた、住居を離れて、器物・調度を貯える欲望もない。ゆっくり歩くことで駕籠に乗るのに換え、襲い食事は腹が減って肉よりも美味である。その日どこで泊まらなければならないという制約もないし、朝、一出発しなければならないという束縛もない。ただ一日の願いは二つだけ。今宵良い宿に泊めてもらいたい、草鞋の足にあったのを手に入れたい、ということだけは僅かな気がかりである。
時々刻々と変わりゆく風物に気持ちを変え、日々に詩情を新鮮にする。もし少しでも風雅の趣を解する人に出会ったならば、その喜びは限りなく大きい。日頃は古めかしい、頑固だと嫌ってつきあわないような人でも、片田舎の旅の道ずれに語り合い、みすぼらしい葎の生い茂った家の中で見つけ出したときなどは、瓦や石ころの中で玉を拾い、泥の中で金を手に入れたような気がして、このことを紀行文などにも書き留め、俳席で人にも語ろうと思うのは、またこれも旅の効用の一つであるよ。
一つ脱いで後ろに負ひぬ衣替
・衣替えの日を迎えたが、呂中のことゆえ世間並みに綿入れを脱いで袷に着替えることもできない。重ね着の一枚を脱いで、背中の荷物にしまい込むだけである。
「源氏物語」にも「またとないほどしみじみとした趣があるのは、このようなところの秋であるよ」とか言う須磨の浦の本質的情感は、秋を主とするのであろう。昔を偲んで悲しさ、寂しさはいいようもなく、もし今が秋であったなら、多少なりと心情の一端を句に詠むことができたろうにと思うのは、私自身の心の工夫が足りないのを自覚していないようなものである。淡路島が極間近に見えて、須磨と明石の海は右左に別れている。杜甫が詩に詠んだ「呉楚東南」の眺望もこのようなところだったろうか。教養豊かな人が見たならば、きっと和漢の古典の中のさまさま景勝にも思い合わせ見立てることだろう。また後ろのほうに山を隔てて、田井の畑という所は、有原行平の愛した松風・村雨姉妹の故郷と伝えている。尾根続き丹波街道へ通じる道がある。鉢伏のぞき・逆落としなどという恐ろしい地名ばかり残っていて、鐘懸松から見下ろすと、一ノ谷の内裏屋敷が眼下に見える。その源平一ノ谷合戦当時の騒乱が、まざまざと心に浮かび記憶の中に集まって、二位の尼君が皇子を抱き上げ、女院がお召し物の裾に足を取られ、船屋形に転がりながらお入りになるご様子、内持・局・女嬬・雑仕たちが、さまざまな御道具類をもてあまし、琵琶や琴などを敷物や寝具にくるんで船中に投げ入れ、天皇のお食事は海にこぼれて魚のえさになり、櫛箱は乱れ落ちて漁師たちも捨てて顧みない藻屑同然となって、専念の悲しみは今もこ浦に留まり、白波の打ち寄せる音にまでも憂愁の響きが感ぜられることよ。
参考文献:尾形仂・著「芭蕉ハンドブック」
