芭蕉の足跡(紀行文)



                        おくの細道
                                    

 この紀行文については「はじめ」の部分の口語訳のみ、尾形仂氏(三省堂)と高校教科書(日栄社)を掲載します。
 『おくの細道』は、曾良を随行、元禄二年の春から秋にかけて敢行した奥羽・北陸への旅の記である。句文混融の形態をとり、“不易流行“の思想を根底に、古人との対話や、さまざまな人間模様を織り交ぜながら、苦難の旅路を踏破して、“かるみ“の世界へ突き抜けてゆく過程をつづり、文学史上最高の古典の一つに数えられる。執筆は元禄六年前後。野(やば)本・曾良本はその推敲の苦心の跡を物語る。
底本は、芭蕉が素竜に清書を委嘱、最後の旅に携行して郷里の兄に贈った西村本によった。

 月日は百代(はくたい)の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風に誘われて、漂白の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に雲の古巣をはえあひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神の物につきて心を狂わせ、道祖神の招きにあひて、とるもの手につかず。ももひきのやぶれをつづり、笠の緒をつけかへて、三里に灸すうるより、松島の月まづ心にかかりて、住める方は人にゆずり、杉風が別(べつしょ)に移るに、

草の戸も住み替はる世ぞ雛の家

表八句を庵の柱に掛け置く。

尾形仂・訳
発端

 月日は永遠に止まることのない旅を続ける旅客であり、この人生を刻む、来ては去り、去っては来る年もまた同じく旅人である。船頭となって舟の上に一生を浮かべ、馬子として馬の轡を取りながら年老いてゆく者は、日々の生活がいわば旅であって、無所住の旅を自分の常住の住み所としている。風雅の道の先人たちも李白・杜甫・西行・宗祇など、多く旅の途中に死んでいる人がある。私も、いつの頃からか、あのちぎれ雲を吹き漂わせる風の動きに誘われて、あてどない旅にさすらい出たい気持ちがしきりに動いて止まず、遠い陸地の果ての海のほとりをさまよい歩き、去年の秋、隅田川のほとりの元のあばら屋に帰ってきて、蜘蛛の古巣を払い久方ぶりにひとまず腰を落ち着けはしたものの、次第に年も暮れ、春も立ち返った初春の霞の立ちこめる空に向かうと、今度は白川の関を越えてはるかな陸奥の旅に出ようと、得体の知れぬ詩の神が花や鳥などの景物にとりついて自分の心をもの狂おしく駆り立て、道祖神が旅へと招いているような気がして、そわそわと何も手につかず、股引の破れを繕い、道中笠の緒を新しくすげ替え、三里に灸をすえるなど、旅の支度にかかるうちに、早くももう松島の月が心に浮かんで、今まで住んでいた芭蕉庵は人に譲り、杉風の下屋敷移るに際して、

草の戸も住替わる世や雛の家

草の戸も住替はる代ぞ雛の家
   
と詠み、これを発句とする表八句を別れの記念として旧庵の柱に掛けておく。
・元禄二年(1689)、『おくの細道』の旅への出立に際し、芭蕉庵を人に譲り、門人杉風の別宅に移る際に詠んだ句。
この草庵にも主人が住替わる時節がやってきたことだ。おりからの弥生の節句に、自分の出た後は、新しい主を迎え、雛人形を飾る華やかな家に変わっていく。
芭蕉の後に引っ越してきた人は妻や娘などを持つ世俗の人であったらしい。雛(春)

高校教科書の編者・訳

 月日は永遠に旅を続けてゆく旅人《のようなもの》であり、毎年去っては来たり、来たっては去ってゆく「年」もなた旅人の《ようなもの》である。《人間の一生も旅のようなもので》舟の上で一生を送る船頭や、馬の轡をとって老年を迎える馬方などは、毎日毎日が旅であって、いわば旅そのものを自分の住み家としているのである。《風雅を愛した》古人の中にも、旅中で死んだ人は数多くある。私もいつの年からであったか、ちぎれ雲が風に誘われて漂ってゆくのを見ては旅心をそそられて、《あの雲のように》所定めずさまよい歩きたい気持ちが押えられなくなり、海辺などを、あちこちさすらい歩き、去年の秋に隅田川のほとりのあばら屋に戻り、くもの古巣をはらって住んでいるうちに、やがてその年も暮れたのであるが、春になって、空にかすみが立ちこめるのを見るにつけても、今度は白河の関を越え《て奥州の旅をし》たいものだと、そぞろ神(何となく人の心をそそのかす神)にとりつかれたように狂おしくなり、また道祖神《旅路の神》に招かれているような気持ちになって、とるものも手につかない。そこで股引の破れを繕い、笠のひもをつけかえ、膝の下にお灸をすえて《旅の支度にかかったのであるが、それ》からというものは、まず第一に、《あの有名な》松島の月が《どんなに美しかろうかと》気にかかり、これまで住んでいた芭蕉庵は人にゆずって、杉風の別宅に移った。そのときに、

草の戸も住替はる世ぞ雛の家 
と詠んで、それを発句とする面八句《を懐紙にしるし》、庵の柱にかけておいた。 
・このわびしい草庵も、《私のような世捨人の住まいから、世俗の人のすまいに》住代わる時節となったことだ。《今はひな祭りの頃とて》さぞ雛人形なども飾って賑やかな家にすることであろう。雛(春)
【解説】

 
全体の序というべきもの。先ず、過去から未来へと流れてとどまることのない「時」を旅人と観じ、その流れに浮かぶ「人生」もまた旅にほかならぬと観じている。「人生即旅、旅即人生」とするこのような心境から、芭蕉は旅にすべてを賭け、旅に生き、旅に死することを、自己の運命として達観し、旅を通して人生を知り芸術を深めようとする。




旅立ち

 三月もいよいよ押し詰まった二十七日、明け方の空はおぼろに霞み、折りから月は有明となって形も細く光も薄れてはいるものの、遠く富士の姿もかすかに見えて、近くには上野・谷中の森も望まれるにつけ、あの花の梢もまたいつの日にか眺めることができようと、心細い。親しい人々は残らず前の晩から集まり、出立の際には、友に深川から同船して送ってくれる。千住というところで舟を揚がると、いよいよこれで前途三千里とも言うべき遠い辺土の旅に発足するのだという感慨が胸一杯になって、涙に曇る眼に幻のように映る千住の街の別れ路に立ちつつ、夢幻のごとくはかないこの現世におけるかりそめの別れと知りながらも、思わず惜別の涙が落ちるのだった。


行く春や鳥啼き魚の目は涙
・元禄二年(1689)、千住での見送りの人々に対する留別吟。春が刻々と過ぎ去ろうとしている。それを惜しんで鳥は啼き、魚は涙を目に潤ませている、の意。
鳥・魚は眼前の風物であるとともに、芭蕉と漂白の悲しみを分かち合う存在でもある。「魚の目は涙」は謡曲『合浦』の、泣く時目から珠を出す人魚から想を得たものか。一句は惜春の情に惜別の情を重ねたもの。観念的には所詮この世は仮の宿りに過ぎないと観じても、そこでの仮の別れに涙を禁じ得ない弱い人間としての心情が示されている。行く春(春)
この句を旅の記の筆始めとして、行脚の第一歩を踏み出しはしたものの、後ろ髪を引かれる思いに、道はいっこうはかどらない。人々は道なかに立ち並んで、自分たちの後ろ姿の見える限りはと、見送ってくれるのであろう。




草加

 今年ーたしかに元禄二年にあたろうかー、奥羽地方への長途の行脚にただふっと発足して、遠く長安を隔たる呉の地の旅泊にも似た遥かな他国の空のもとで、幾多の旅の辛苦に頭髪も白くなる悔恨をば、またさらに重ねることではあるが、耳にのみ聞いて、いまだこの目で見たこともない名所を見て、もし幸いに生きて帰れたなら、詩人としてこれに勝る喜びはないと、当てにもならぬ期待を将来に託しつつ、その日はやっとのことで草加という宿にたどり着いたことだった。痩せた肩に掛かっている荷物が、先ず真っ先に苦労になる。ただ身一つでと思って支度をしたのではあるが、紙子一枚は夜の寒さを防ぐ用意に、また雨具・墨・筆といった類や、あるいはどうしても辞退しかねる餞別などを人がくれたのは、やはりうち捨てておく訳にもいかないで、こうして道中の荷厄介となっているのは、何ともいたしかたない次第である。




日光
 晦日、日光山の麓に泊まる。その宿の主人が言ったことには、「私の名を仏五左右衛門という。万事に正直を建前としているところから、世間の人が通うに申しているのに任せ、今宵一夜のお泊まりもどうか安心してお休みください」と言う。さて、いったいどんな仏様がこの濁り汚れた現世に仮の姿を現して、私どものような僧形の乞食巡礼同然のものをお助けくださるのであろうかと、主人のすることによくよく気をつけてみると、何のことはない、ただ無知無分別で、正直一方なだけの男である。しかし、かの『論語』にいわゆる剛毅木訥仁に近しといった類で、その生得の清らかな資質こそは、いかにも尊重すべきである。
 四月一日、お山に参詣する。その昔、このお山を「二荒山」と書いたのを、空海大師が爰に寺院を創設された際、「日光」とお改めになった。それは、千年の未来を予見されてのことであったろうか、今やこの日光東照宮のご威光は一天下に輝き渡って、恵みの波は国土の隅々にまで満ちあふれ、全ての人民が安住の身を寄せる国土はいかにも穏やかである。さらに言葉を加えることはあまりにも畏れ多くて、これ以上は筆を差し控える次第だ。

あなたふと木の下暗も日の光

あらたふと青葉若葉の日の光
・元禄二年(1689)、日光山東照宮に参詣した折の作。
ああ尊いことよ。青葉若葉に映発する日の光は、正にこの霊域における神霊の荘厳そのものだ。の意。
「青葉若葉」は常緑樹の濃い青葉と、落葉樹のみずみずしい新緑が濃淡を織りなすさま。「日の光」には地名の「日光」を利かせると友に、日光山の神霊に対する賛仰の気持ちがこめられている。若葉(夏)




黒髪山
 黒髪山は、春霞がかかっているが、雪がまだ白く残っている。


剃り捨てて黒髪山に衣更   曽良
・曽良は、河合氏であって、名を惣五郎といった。私の庵(江戸深川の芭蕉庵)の近くに住んで、私の家事・炊事の手伝いをしてくれていた。このたび、松島や象潟の景色を、一緒に見物することを喜び、また一方、私の旅中の苦労をいたわり慰めようとして、(同行することになったのであるが)その旅立つ日の明け方、髪を剃り、黒染めの衣に姿を変え、名も惣五を改めて(法名らしく)宗悟とした。こういうわけで、この黒髪山の句を作ったのである。
 二十丁あまり山を登っていくと、滝がある。滝は、岩の洞穴の頂上から飛ぶように流れ落ちること百尺、多くの岩で取り巻かれた青々とした滝壺に落ち込んでいる。その岩の洞穴に身を縮めて入り、滝の裏側から眺めるので、この滝を「裏見の滝」と言い伝えている。


しばらくは滝にこもるや夏(げ)の初め
・しばらくこの滝の岩窟にこもって心を澄ましていると、なんだか夏籠り(僧の夏の修行)の初めのような気持ちがして(心がひきしまる)ことよ。夏・滝(夏)




那須野
 那須の黒羽というところに知人がいるので、これより(本街道へ迂回ぜずに)那須野越えにかかって、まっすぐな近道を行こうとする。遙か向こうに見える一村を目当てに行くうちに、雨が降り出し、日も暮れてしまった。そこで農夫の家に一夜の宿を借りて、夜が明けるとまた一面の野原の中を歩き続ける。と、原の中に放し飼いの馬がいる。付近の草を刈っている百姓男に馬を貸してくれと頼み込むと、田舎者とはいえ、さすがに人情を解さないわけではない。「どうしたものか。(仕事の途中、自分が案内してゆくわけにはいかぬし、)といってこの野は道がむやみやたらに分かれていて、土地に初めての旅のお人が道を間違えるのも心配ですから、ままよ、それではこの馬に乗っていって、泊まったところで馬をお返しください」と言って、馬を貸してくれた。
子供が二人、馬の跡をついて走ってくる。一人はかわいらしい小娘で、聞いてみると、名を「かさね」という。余り聞き慣れない名が、いかにも優雅に思われたので、


かさねとは八重撫子の名なるべし   曽良
・(かわいらしい子供をよく撫子に譬えるが、その名も「かさね」とは、(撫子も花弁を八重に重ねた八重撫子の名であろう)  
 ほどなく人家のある村里に着いたので、駄賃を鞍壺に結びつけて、馬を返した。)




黒羽
 黒羽の領主の館の留守居役である浄法寺何某という人の家を訪問した。予想しなかった主人の喜びようはたいしたもので、昼も夜も話し続け、また、その弟の翠桃などという人が、朝に夕に、まめまめしくたずねてくれ、自分の家にも連れて行き、その親類にも招待され、何日かを過ごしているうちに、ある日黒羽の町外れまで散歩して、昔犬追物の行われた跡をちょっと見物し、(歌枕で名高い)那須の篠原を踏み分けて玉藻の前の古い塚をたずねた。
 そこから八幡宮に参拝した。「那須与一が扇の的を射たとき、『とりわけわが郷国の氏神であられる八幡さま』と祈りを込めたのも、この神社であります」 と聞いたので、ありがたさが、ひしひしと身にしみて感じられる。日が暮れたので、翠桃の家に帰った。
近くに、修験道の寺で光明寺というのがある。そこに招待されて、行者堂を拝み、


夏山に足駄を拝む首途かな
・はるかな陸奥の山々に向かって旅立つにあたり、(昔峰々を踏破して修行した役の行者の健脚にあやかりたいものだと)、その足駄を拝むことであるよ。夏山(夏)




雲岩寺
 この下野国(栃木県)の雲岩寺のおくに、仏頂和尚が山ごもりされた跡がある。「たてよこが五尺にも足らぬそまつな庵を作って住んでいるのも、雨を凌ぐためだ。雨さえなければと、松の墨で、岩に書きつけました」と、いつだったか仏頂和尚がおっしゃった。その跡を見ようと思って、雲岩寺に出かけようとすると、人々は喜び勇んで同行してくれた。若い人が多くて道中賑やかで、知らぬ間に寺のある山の麓に着いた。山は奥深い様子で、谷沿いの道がはるかにつづき、松や杉が青黒く茂り、苔の雫がしたたり落ちて、陰暦四月の空は今でもまだ寒い。
 さて、あの山ごもりをなさった跡はどのへんだろうと、後方の山に登ってみると、石の上に小さな庵があり、岩穴に寄せかけて建ててあった。


きつつきも庵は破らず夏木立
・(どこかできつつきが木をつつく音がするが)あのきつつきさえもこの(尊い)庵だけはつつき破らないと見えて、夏木立(の中に、庵が昔のままに残っていることよ)。と一句を作り、庵の柱に掛け残した。夏木立(夏)・きつつき(秋)




殺生石

 黒羽から、那須の殺生石を見に行った。領主の留守居役から馬で送ってもらった。その馬の手綱を取る男から、「短冊をいただきたい」といわれた。馬子にしては風流なことを望むものだなあと、感心して、次の句を与えた。


野を横に馬引き向けよほととぎす
・そら、道の横手の方でほととぎすが鳴いたよ。馬子よ、馬をそっちに引き向けてくれ(もう一度よく聞いてみようではないか)。
殺生石は、那須の湯本温泉が湧き出る山かげにある。石のまわりから吹き出す毒気は、今もってなくなっていず、蜂や蝶の類が、砂の色が見えないほどに、重なり合って死んでいる。




清水流るるの柳
 また、(西行法師が)「清水流るる柳かげ」と歌に詠んだその有名な柳は、芦野の里にあって、今も田の畔に残っている。ここの領主の戸部何某が、「この柳を見せたいものです。」などと、以前からときどき言ってよこされたのを、その時はその辺にあるのだろうかと思っていたが、今日こそ、この柳のかげに立ち寄ることになったのである。


田一枚植ゑて立ち去る柳かな
・西行法師が立ち寄った柳が懐かしくて、しばしその木陰で感慨にふけっていると、(いつの間にか百姓が)一枚の田を植え終わったので、(私も、ふと我にかえって)柳のもとを立ち去ろうとすることよ。田植え(夏)・柳(春)




白河の関
 なんとなく不安な心せかれる日数が積もってゆくうちに、今、白河の関にさしかかって、やっと旅の中に浸りきる落ち着いた気分になった。その昔、平兼盛がこの関を越えた感銘を何とかして都に知らせたいと伝手を求める歌を詠み残した気持ちも、いかにも道理と頷かれる。兼盛同様、穢土に残してきた人々に告げてやりたいさまざまな感銘の湧き起こる中でも、この白河の関というのは奥羽三関の一つに数えられていて、多くの歌人雅客が吟懐を詠み残したところだ。その古歌や故事のあれこれが第一に想起されて、あの能因の詠んだ秋風の音を耳にとどめ、また頼政の詠(なが)めた紅葉の景を思い浮かべつつ、今眼前の青葉の梢を仰げば、またいちだんと感銘が深い。あの古歌に詠まれたのと同じ卯の花が一面に真っ白く咲いているところへ、さらに茨の花が白く咲き加わって、まるで古歌にある雪景色の中を越えてでも行くような気がする。昔、竹田太夫国行がこの関を越える際、彼の能因の古歌に敬意を表して、冠を正し衣装をあらためて通ったことなど、清輔朝臣の書いたものにも書きとどめておかれたとか。


卯の花をかざしに関の晴れ着かな   曽良
・(古人はこの関を、特に衣冠をあらためて通ったと伝えられているが、改めるべき衣装も持たない雲水行脚の自分たちは、折から辺りに咲き乱れる卯の花をかざしに、それをもってこの地に多くの名歌を詠み残した人に敬意を表すべき関の晴れ着として越えてゆこう。)




須賀川
 そんな風にして白河の関を越えて行くうちに、阿武隈川を渡った。左には会津の磐梯山が高くそびえ、右の方には岩城・相馬・三春の地方常陸・下野の国との境をなして山々が連なっている。影沼というところを通ったが、今日は空が曇っていて、ものの影が映らなかった。須賀川という宿場に、等窮という人を訪ねていって、そこで四、五日引き留められた。等窮は先ず第一に「白河の関の感想は如何でしたか」と聞いた。私は「長い道中で身も心も疲れていたし、また一つには、景色の良さに心を奪われ、昔のことを思い出して感慨無量でしたので、十分に句を錬ることができませんでした。」ただ一句だけ、


風流の初めやおくの田植うた 
・奥州に入ったところで、珍しい田植え歌を聞いたが、これが今度の旅の最初の風流でしたよ。一句も作らずにこの関を越えるのがやはり(心残りなので詠んだのです)。田植え(夏)




軒の栗
 この須賀川の宿場の近くに、大きな栗の木かげをたよりにして、俗世界を避けて暮らしている僧がある。西行が「橡ひろふ」とよんだ深山の境地もこんなであったろうかと、閑寂に思われたので、紙切れに書きつけた。
 栗という字は、西の木と書いて、西方の極楽浄土に縁のある木だといって行基菩薩が、一生の間、杖にも柱にもこの木をお使いになったとかいうことであるよ。


世の人の見つけぬ花や軒の栗
・この庵の軒端近くに、栗の木が花を咲かせているが、あまりにも地味で、世間の人目につかない花であるよ―(この庵の僧も、人目を避けて隠れ住んでいるが、誠に奥ゆかしいことであるよ)。栗(秋)




しのぶもぢ摺(ずり)の石
 あくる日は、しのぶもぢ摺りの石をさがして、忍の里に行った。遠くの山かげにある小さな村里に、その石は半分ほど土に埋まっていた。村里の子供が教えてくれるには、「昔は、この山の上にあったのですが、往来する人々が、畑の麦の葉を取り荒らしては、この石にすりつけて試したりしますのを、(お百姓が)いやがって、この谷へ突き落としたので、石の表面が下向きになって横たわっているのです。」という。


早苗とる手もとや昔しのぶ摺 
・その付近で苗取りをしている娘たちの手つきを見ると、昔しのぶ摺をしたときの手つきも、こんな風ではなかったろうかと、昔が偲ばれて懐かしく思われることよ。早苗(夏)




佐藤庄司が旧跡 
 月の輪の渡しを渡って、瀬の上という宿場に出た。佐藤庄司の旧跡は、左手の方に一里半ほどいった山際にある。それは飯塚の里の鯖野というところだと聞いて、人に尋ね尋ねして行くうちに、丸山という山に尋ねあたった。ここが、昔佐藤庄司の屋敷のあったところである。その山の麓に表門の跡がある、と人が教えてくれるのに従って見に行き、昔を偲んで涙を流し、また近くの古寺には佐藤一族の石碑が残っている。その中でも、(継信・忠信兄弟の)二人の妻のかたみが、何よりもまずあわれ深く感じた。女の身でありながら、よくもけなげな評判を世に伝えたものだなあ、と感涙に袂をぬらした。寺に入って茶を所望すると、そこに、義経の太刀や弁慶の笈を保存して、寺の宝物としている。


笈も太刀も五月にかざれ紙幟
・端午の節句も間近な頃で、そこここに紙幟が立てられているが、この弁慶の笈や義経の太刀も、あの紙幟と一緒に飾ってほしいものだ。これは五月一日のことであった。五月(夏)・紙幟(夏)
  



笠島

 
鐙摺や白石の城下町を通り、笠島郡に入ったので、「近衛中将藤原実方の墓はどの辺であろうか。」とひとにたずねると、「ここから遥か右手に見える山の麓の村里を箕輪・笠島といい、道祖神の社や実方のかたみの薄が今でも残っています。」と教えてくれた。この頃の五月雨のために、道は非常に悪く、体が疲れていましたので、よそながら遠くながめるだけで素通りしていましたが、箕輪や笠島という名も五月雨の季節にふさわしいなと、おもしろく思って次の句を詠んだ。


笠島はいづこ五月のぬかり道
・かさじまはどのへんであろうか。尋ねていってみたいがこの五月雨のどろんこ道では行ってみることもできないよ。五月(夏)
その夜は岩沼に泊まった。




武隈の松
 名高い武隈の松には、全く目の覚めるような気持ちがした。根本は地面から二股に分かれて、昔のままの姿を失わないでいることがわかる。この松を見るにつけてもまず能因法師のことを思い出した。その昔、陸奥守としてこの地に下ってきた人が、この木を切って名取川の橋杭になさったことがあったからであろうか、能因法師は、「松はこのたび来てみると跡形もなくなっている。」という歌を詠んでいる。代々、あるいは切ったり、あるいは植えついだりなどしたときいているのに、今はまた、千年もの形が整って、まことにすばらしい松の様子でありました。


桜より松は二木を三月越し
・遅桜の頃から待ち焦がれていた二木の松を、今三月越しに見ることができましたよ。桜(春)




宮城野
 名取川を渡って仙台に入った。ちょうど五月の節句のあやめを軒にさす日である。宿屋を探し求めて四、五日滞在した。この土地に絵描きの加右衛門という人がいた。多少風流心のある人だと聞いて知り合いになった。この加右衛門が「古歌などに詠まれた名所で、その場所がはっきりわからなくなったところを、私は数年来しらべておきましたから・・・。」といって、ある日案内してくれた。宮城野の萩は茂りあっていて、秋の様子がどんなに素晴らしいだろうと想像された。つつじが丘に来るとちょうどアセビの花が咲いている時節であった。日の光も射しこまないほど茂った松林に入ったが、そこは「木の下」というところだそうである。昔もこんなに露がふかかったからこそ、古歌にも「お供の方よ。ご主人にお笠をおかぶり下さい。と申し上げよ」とよんでいるのだ。薬師堂・天神のお社などを参拝して、その日は暮れてしまった。加右衛門はその上、松島・塩釜のそこここを絵に描いて贈り物としてくれた。なおまた、紺色に染めた緒をつけた草鞋二足を、餞別としてくれた。やっぱり彼はちょっとやそっとの風流人ではないのであって、こんな奥ゆかしい贈り物をするに至って、ついにその正体を現したのである。


あやめ草足に結ばん草鞋の緒
・あなたは紺染めの緒のわらじを贈って下さったが、折しもきょうは端午の節句ですから、この草鞋の緒をあやめ草と思って足に結んで旅立つことにいたしましょう。あやめ草(夏)
  



松島
 
 そもそも、多くの先人たちの文藻に言い古されていることであるが、松島は日本一の絶景であって、先ずは中国の洞庭・西湖に比べても遜色がない。その地勢は、東南の方角より海を入れては入り海を形作り、湾内三里、かの浙江を思わせる満々たる潮をたたえている。島という島のある限りをここに集め、そのうち、高くそびえるものは天をさす尊大の形を示し、低く横たわるものは波の上に匍匐膝行する恭敬の状を呈している。あるいは二重に重なり、三重に積み重なって、左に分かれているかと思えば、またあるものは右に連なっている。小さい島を背負ったような形のものもあれば、抱いているような姿のものもあり、杜甫の詩にあるように、あたかも子や孫を愛擁しているかの如くである。松の緑も色濃く、枝葉は潮風に吹き曲げられて、その曲がりくねった枝振りは、自然のうちに人工を持って曲げ整えたかのようである。その景色の美しさは、見る人をして恍惚とさせ、かの蘇東坡の詩にいう、美女がいやが上にも美しく顔を化粧したかの如き趣がある。これは、遠い神代の昔、大山祇の神がなした仕業であろうか。かかる造物主の霊妙な仕事をば、一体何人が彩管を揮い、詩文をおどらせて表し尽くすことができるだろうか。 
 かの歌枕に知られた雄島が磯は、地続きに海に突き出た島である。ここには、雲居禅師の別室の跡や座禅石がある。また、松の木陰に世の煩いを避け隠棲している人の姿もごくまれに見えて、落ち穂・松笠などを炊ぐ煙のうっすらと煙っている粗末な庵を、いかにも閑静に住みなしている様子で、どういう素性の人ともわからぬながら、何よりも先に心引かれて立ち寄るうちに、いつしか月が上がって海上に映り、昼の眺めとはまたすっかり変わった景観を呈している。海辺に戻って宿をとると、海に面して窓を開き、二階造りになっていて、こうして眺望をほしいままに、いわば大自然の風光のただ中に身を置いて旅寝するのは、まるで仙境に身を置くかと思われるほどすばらしい気分のされることであった。


松島や鶴に身を借れほととぎす   曽良
・(すばらしい松島の眺め。折から時鳥が一声鳴過ぎた。時鳥よ、この松島の絶景に対してはお前の姿のままではふさわしくない。声はそのままに、望むらくは鶴の羽衣に身を借りて鳴き過ぎよ。)   

 私はというと、待望の絶景に対しては、もはや句を詠むどころではなく、句作を断念して、さて眠ろうとしても感激のあまり眠ることができない。芭蕉庵を後にするとき、旧友素堂が松島の詩を作ってくれ、また原安適は松ヶ浦島の和歌を贈って下された。眠られぬままに頭陀袋をひもとき、それらの詩歌を取り出して、今宵の心を慰める友とする。袋の中にはまた杉風や濁子が贈ってくれた発句もあった。




平泉 
 藤原三代の栄華もわずか一睡の間の夢と過ぎ、今は廃墟と化した平泉の館の大門の後は一里も手前にあって、秀衡の居館の跡は出野となって、彼の築かせたという金鶏山のみが昔の姿をとどめている。何よりも先ず義経の遺跡高館に上ると、突如として北上川が眼下の視界に飛びこんでくるが、これは遠く北方の南部領より流れてくる大河である。衣川はかの義勇の子秀衡(たけひら)の居館和泉が城を巡って、この高館の下で大河に合流している。泰衡らの旧跡は、ここからは衣が跡を隔てた彼方にあって、北の南部口を固く守り、蝦夷の侵入を防ぐ形に見える。さても、義経が義勇の子を選りすぐってこの高館の城に立てこもり、数々の功名もただ一時の夢と消えて、跡は茫茫たる草原となってしまっている。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と杜甫の詩を口ずさみつつ、笠をしいて腰を下ろし、時の移るまで懐旧の涙にくれたことだった。


夏草や兵どもが夢の跡  
・元禄二年(1689)平泉に高館の廃址を訪れての吟。成立は元禄四年頃か。一面に生い茂る夏草。ここは昔、義経以下の勇士たちが選考を夢見て戦った戦場の跡なのだ。
「夢」を上下に掛詞的に用い、眼前に生い茂る夏草という具象物と、史劇の世界のイメージとを重層的に表出したもの。生えては枯れ、枯れては生える夏草は、自然の流転の相の恒久性を象徴し、はかなく消えた「兵どもが夢」は、その跡を回顧する人の胸に永劫の夢を呼び覚ます。それぞれに流転と恒久を含んだ自然と人生の対置の中から、一句は、流転の相それ自体を常駐と観ずる芭蕉の“不易流行“の思想と、永遠なるものへの思いを訴えかけている。夏草(夏)


卯の花に兼房見ゆる白毛(しらが)かな   曽良
・(折から白く咲き乱れた卯の花を見ていると、そこに、義経悲劇の最後を飾った兼房の姿が彷彿と浮かんでくる。あの、真白に振り乱した彼の白髪が。)  

 かねがねその壮麗さを聞いて驚嘆していた中尊寺の二堂を開帳する。経堂は清衡・基衡・秀衡の三将の像をとどめ、光堂は右三代の人々の棺を納め、弥陀三尊の仏像を安置してある。かつての内陣を絢爛と荘厳した七宝も散り失せて、珠玉を鏤めた扉は多年の風にさらされて損壊し、金色の巻き杜は積年の霜雪のために腐朽して、もう少しのところで崩れ廃れ、虚しい廃墟の草原となるはずの所を、堂の四面を新たに囲み、屋根を覆って、風雨を防いである。こうして、はかない現世におけるかりそめの間ながら、なお、千古の記念とはなっている次第だ。

五月雨や年々降りて五百たび
五月雨や年々降るも光堂

五月雨の降り残してや光堂
・元禄二年(1689)中尊寺金色堂を訪れての吟。五月雨もここばかりは降り残したのだろうか。雨の光堂が金色の光を放って輝いている。
参詣時の天候は晴れだったが、一句は雨中の構図の中で、何百年もの霜雪をしのいで栄華の歴史を眼前に偲ばせている光堂に対する感動を詠んだもの。本文執筆の際の詠作で、流転の相における永劫なるものへの思いを込めた句。五月雨(夏)




尿前の関  
 北の方南部地方への街道をはるかに眺めやりつつ、道をとって返し、岩出の里に泊まった。さらに小黒崎・美豆の小島などの歌枕を過ぎ、鳴子の湯から尿前の関にさしかかって、いよいよ出羽の国へ越えようとする。この道は旅人もめったの通らないところなので、関守に怪しまれて、やっとのことで関所を越えた。大きな山を登ってゆくうち、日もはや暮れたので、国境を守る番人の案を目当てに訪ね寄り、一夜の宿を頼んだ。ところが、三日も風雨が吹き荒れて、つまらぬ山中に逗留する仕儀となる。


蚤虱馬の糞する枕もと
・元禄(1689)、尿前の関で封人(関所の番人)ノイエに宿を借りた折の句。蚤・虱、おまけに暗がりの中で馬の放尿の音までが、眠られぬ枕もとに近々と響いてくることだ。
馬小屋を母屋の内に設けた山中陋屋の実情を詠んだ句で、「尿」の文字に尿前の関が利かせてある。蚤・虱と畳みかけ「馬の糞する枕もと」と続けた三段切れのリズムには、地名に興じ、自分の置かれた状況の侘びしさに興ずる気分が息づき、俳諧的笑いの色が濃い。蚤虱(夏)




立石寺
 山形藩の領内に立石寺という山寺がある。慈覚大師のお開きになった寺で格別清らかで閑寂の地だ。一度行ってみるがよいと人々が勧めるので、尾花沢から予定とは逆方向に引き返し、立石寺に向かったが、その間七里ばかりだった。着いたときには、日もまだ暮れていない。そこで麓の宿坊に宿をとっておいて、参上の僧堂に登る。岩には巨岩を重ねて山としたような地形で、松や柏も年数を経、土や石も時代がついて苔が滑らかに覆い、頑丈に建てられた多くの支院はみな扉を閉め切って、物音一つ聞こえない。絶壁の縁を巡り、岩の上を這ったりして、仏殿を拝めば、四辺の美しい景色はただひっそりと静まりかえって、ただ自分の心の澄みきってゆくだけが感ぜられた。

山寺や石にしみつく蝉の声

閑かさや岩にしみいる蝉の声   
・元禄二年(1689)五月二十七日、山形領の立石寺(山寺)に詣でた折の吟。何という閑かさだろう。ふと気がつけば蝉の声のするのが、あたかも岩にしみ透っていくかのように感じられる。
山寺は、全山凝灰岩より成り、芭蕉はそこに、中国天台山国清寺の閑寂境を詠じた「寒山詩」の世界を二重映しに思い浮かべた。「山寺・石・岩・蝉・閑」といった取り合わせもそこから来ており、蝉の声があることで、辺りの閑寂さが一層深く感じられるという把握も、漢詩の型にもとづいている。そうした先行の詩情との交響の上に、「しみ入る」の措辞を加えたところにこの句の新しさがあり、それによって作者の心は蝉の声と一つに融け合い、重巌の奥深く浸透して宗教的ともいうべき一大閑寂境に到達しているということができるだろう。蝉(夏)




最上川
 最上川は、みちのくから流れ出ていて、その上流は山形領である。そこには碁点・隼などという恐ろしい難所がある。川は板敷山の北を流れて、最後は酒田の海に注いでいる。その両岸は、山がおおいかぶさる木々の茂っている中を舟を下すのである。舟に稲を積んだのを「稲舟」というのであるらしい。白糸の滝は青葉の間間から流れ落ちており、仙人堂は川岸のすぐそばに立っている。水は満々とみなぎって流れは速く、舟を下すのがあぶないほどである。


五月雨をあつめて早し最上川
・たださえ流れの速い最上川が、折から降り続く五月雨を集めて、すさまじい勢いで流れていることよ。五月雨(夏)




月山・湯殿山
 六月八日、月山に登った。木綿しめを身体に掛け、宝冠で頭を包み、強力というものに案内されて、雲や霧の山の大気の中を、氷や雪を踏んで登ること八里、いよいよ日や月の通路である雲間に入るのではないかとあやしまれるほどで、息も止まり、身も凍えそうになって頂上に着くと、日は沈んで月があらわれた。頂上の山小屋で笠を敷き、子竹を枕にして、横になって夜の明けるのを待った。やがて朝日が昇って雲が消えたので、湯殿山へと下った。
途中の谷のそばに鍛冶小屋というのがあった。むかし、この出羽国の刀鍛冶が、清浄神聖な水を選んで、ここで心身を清めて刀を作り、ついにはその刀に「月山」と銘を打って、世に名刀としてもてはやされた。中国では名刀はあの竜泉の水で鍛えられるということである。昔のことが慕わしく思い出される。まことに、一道にすぐれた者になるには、その道に対する熱心が一通りでないことがよく思い知らされた。
岩に腰を掛けてしばらく休んでいるうちに、三尺ばかりの桜の木で、つぼみが半分ほど開いているのが目についた。降り積もる雪の下に埋もれていても、春を忘れずに花を開く遅桜の花の心は、誠にいじらしい。すべて、この湯殿山のくわしいことは、修行者の規則として、人に語ることを禁じている。それでこれ以上は筆を置いて書かないことにする。
南谷の宿坊に帰ると、会覚阿闍梨(あじゃり)の依頼によって、出羽三山を巡礼したときの句を短冊に書いた。


涼しさやほの三日月の羽黒山
・ああ涼しいことだ、折しも三日月の姿が、黒々とした羽K山の上にほのかに見えて、いかにも霊山らしいすがすがしい感じがする。涼しさ(夏)


雲の峰いくつ崩れて月の山
・立ち上っていた入道雲が次から次へと崩れていって、いつの間にか照らし出された月山。雲の峰(夏)


語られぬ湯殿にぬらす袂かな
・他言することを許されない秘密の霊場湯殿山に参拝して、ただもうありがた涙に袂をぬらすことよ。無季




酒田
 羽黒山をたって、鶴ヶ岡の城下町に来て、長山重行という武士の家に迎えられて、そこで俳諧一巻を作った。図司左吉もいっしょにこの町まで送ってきた。川舟に乗って酒田の港に下った。酒田では淵庵不玉という医者の家に泊まった。


あつみ山吹浦かけて夕涼み
・南ははるかに温海山のあたりから、北は遠く吹浦へかけて日本海の眺めを一望に、夕涼みをすることよ。夕涼み(夏)


暑き日を海に入れたり最上川
・暑い一日も終わって、あの赤々と輝いていた夏の太陽を最上川は海に流し込んでくれた。実に快い夕暮れの涼味であることよ。
暑き日(夏)




象潟
 これまで山水海陸の美景のある限りをことごとく見てきて、今や象潟に対して詩心を凝らす次第となった。酒田の港から東北の方へ、山を越え、磯を伝い、砂浜を踏んで、その間十里、日もようやく傾きかける頃、ついてみると潮風が砂を吹き上げ、雨は朦朧とうち煙って、鳥海の山も隠れてしまっている。古詩に詠ずるように、暗闇の中を手探りするようにしてすかし見る眼前の雨中の夜景も「雨もまた奇なり」の詩句の通り、こんなにも素晴らしいとすれば、さらに雨の晴れた後の「晴れて偏に好し」という景色はどんなにかめざましかろうと期待されて、古歌にいう「あまの苫屋」、わずかに膝を入れるばかりの小さな漁師の小さなあばら屋に宿って、雨の上がるのを待つ。
その翌朝、天気はからりと晴れ上がって、朝日が華やかにさし出る頃、象潟に舟を浮かべた。真っ先に能因島に舟を漕ぎ寄せて、能因法師が三年間隠棲した遺跡を訪ね、向こう岸に舟を上がると、「花の上漕ぐ海士の釣船」とお詠みになった桜の老木が、いまもそのままに西行法師の記念を残している。水辺に御陵があり、神功皇后のお墓という。また、そこの寺を干満珠寺といっている。だが、ここに皇后が行幸されたことは、まだ聞いたことがない。どういう事由によるのだろうか。この寺の表座敷に座って簾を巻き上げて眺めると、象潟の風景はことごとく一望のうちに見渡され、南には鳥海山が天を支えるかのように高く聳え立ち、その影が映って水上に横たわっている。西はむやむやの関が道をさえぎってその先は見えず、東には堤を築いて秋田に通う道がはるかに続いており、海を北に控えて外海の波が潟にうち入る所を汐越と呼んでいる。入り江の縦横は一里ばかり、そのおもざしは松島に似通っていて、しかしまた違ったところがある。いわば松島は笑っているような明るさがあり、象潟は憂いに沈んでいるような感じだ。さらにいえば、寂しさの上に悲しみの感を加えて、その地のたたずまいは、傷心の美女の面影に似ている。

象潟の雨や西施がねぶの花  

象潟や雨に西施がねぶの花 
・元禄二年(1689)六月十七日、雨後の象潟に舟逍遙した折の作。象潟の夕暮れ。うちけぶる雨の中のねぶの花の風情が、かの美人西施が憂いに眼を閉ざした姿を彷彿させている、の意。
「西施」は中国春秋時代の美女。病む胸に手を当て眉をひそめた容姿で知られ、西湖の風光の美を西施にたぐえるのが、漢詩の伝統的型になっている。その型に従いながら、嘱目のねぶの花に西施の面影の具象化を見いだし、それを歌枕象潟の女性的で暗鬱な美の象徴ととらえたところに、俳諧としての新しい創造がある。中七・下五は「西施がねぶり」と「ねぶの花」を掛詞にした句法で、憂いに目を伏せた西施の面影に、暮色の中で葉を閉ざしたねぶの姿を重ねたもの。ねぶの花(夏)


汐越や鶴脛ぬれて海涼し

・(外海の波が入り江に打ち寄せる汐越の浅瀬。あさりする鶴の細長い脛、文字通りの鶴脛がしぶきに濡れ、海は見るからに涼しげである。)
「鶴脛」は人が衣の裾を高くからげ細脛を現す姿をいう。それを文字通りの鶴の脛に用いた即興のおかしみ。前句を雨奇、この句を晴好に配した。海涼し(夏)




北陸道
 酒田では別れがつらくてつい幾日も滞在してしまったが、いよいよ北陸道の空を遠くに望んで出立することにした。それにつけても前途遙かな旅路を思うと、胸が痛むようで、ここから加賀の首都金沢まで百三十里もあるということである。
さて鼠の関を越えると、いよいよ越後の国で、何か改まった気持ちで歩みを進めて、やがて越中の国の市振の関に着いた。この間九日、暑さや雨に苦しめられて心を悩まし、持病が起きたので、途中のことは書かないでしまった。越後路の句、


文月や六日も常の世には似ず
・もう七月だ。今日はその六日で普段の夜とは違って何となく華やかな気分がすることだ。文月(夏)


荒海や佐渡に横たふ天の河
・日本海の荒海の彼方には、悲しい歴史を秘めた佐渡島が黒く浮かんでおり、その孤島へかけて、美しい天の川が横たわっている。天の河(秋)




市振
 今日は、親知らず・子知らず・犬戻り・駒返しなどという北国一の難所を越えて疲れたので、枕を引き寄せて寝たところが、襖一重を隔てた、表の方の部屋で、若い女の声、それもどうやら二人ばかりと思われるのが、年取った男の声も交じって話し合っているのを聞いていると、それは越後の国新潟という所の遊女であった。伊勢参宮をするというわけで、この関まで男が送ってきて、明日はその男に持たせて返す故郷への手紙を書いて、何くれととりとめもない言伝などしてやっているのであるらしい。白波の打ち寄せる浜辺の町に身を投げ捨て、漁師の子のような所定めぬ情けない境涯にまでこの世を落ちぶれ果てて、夜ごとに変わるはかない契り、こんな罪深い毎日毎日を送る前世の因縁はどんなに悪かったのだろう、などと語り合っているのを、うとうとと聞きながら寝入ってしまったが、翌朝旅立つに際し、彼女らは自分たちに向かって、「先の道筋もわからない道中の心細さ、あまりにも悲しゅうございますので、見え隠れになりとお供をして参りとうございます。方位をお召しの御身の上のお情けに、なにとぞ私どもにも御仏の大慈大悲のお恵みをお分かちくだされ、仏縁を結ばせてくださいませ」と、涙を流して頼むのだった。かわいそうなこととは思ったが、「私たちは途中所々で滞在する先も多い。ただ同じ方向に旅する人々の行くのに従ってお行きなされ、大神宮さまのお守りによって、きっと無事に着くことができるであろう」と言い捨てて出ながらも、さすがに複雑な感慨が、しばらくは胸の内に動き止まなかったことだった。


一つ家に遊女も寝たり萩と月
・元禄二年(1689)、市振の関での吟。本文執筆に際して作られた。一軒家の宿に、華やかにも罪深い遊女も泊まり合わせて寝ている。折しも庭には萩がなまかしく咲きこぼれ、それを澄んだ月の光が照らしている。
萩と月との取り合わせが、遊女と、その遊女が僧と見誤り済度の願いを寄せた自分たちとの偶然の巡り会いを思わせるかのようだ、というのである。和歌で「萩」の縁語である「鹿」を「月」に替え、人生の巡り会いの不思議さを嘆じたもの。萩・月(秋)




金沢
 卯の花山・くりからが谷を越えて、金沢に着いたのは陰暦七月十五日のことであった。ちょうどここに、大阪からよく通ってくる商人の何処という人が来合わせていた。金沢の俳人の一笑という人は、俳諧の道に熱心だという評判が、いつとはなく広がって、世間でその名を知られていましたのに、去年の冬、若死にしてしまったとのことで、その兄が追善供養を催したので、次の追悼句を詠んだ。


塚も動けわが泣く声は秋の風 
・墓前を吹き過ぎる寂しい秋風の音は、そなたの死を悲しんで泣く私の声だ。心あらば墓も動き出でよ。秋の風(秋)


あかあかと日はつれなくも秋の風 
・もう秋だというのに夕日は赤々と照りつけている。しかし、さすがに秋を思わせる風が吹いてくることよ。秋の風(秋)


しをらしき名や小松吹く萩すすき
・小松とはかれんな土地の名であるよ。小松を吹く秋風が、そのあたりの萩やすすきをなびかせているよ。萩・すすき(秋)




太田(ただ)神社
 この小松にある太田神社に参拝した。ここには斉藤実盛のかたみである甲や錦の直垂(ひたたれ)の切れがある。かつて実盛が源氏に属していたとき、源義朝公から頂戴なさったものだとか。いかにも、普通の武士の身につけるようなものではない。


むざんやな甲の下のきりぎりす
・実盛の形見の甲の下では、今、こおろぎが悲しげに鳴いている。その声を聞くにつけ、老武士の痛ましい最期が思われてならない。きりぎりす=こおろぎ(秋)




那谷寺
 山中温泉に行く道すがら、白根が嶽を後ろに見て歩いた。左の山際に観音堂がある。その境内には面白い石がさまざまあって、そこに老松を植え並べ、茅葺きの小さなお堂が岩の上に寄せかけて造ってあって、実に景色のすぐれた土地である。


石山の石より白し秋の風
・この那谷寺の石は、あの近江の石山寺の石よりももっと白く枯れた感じであるが、折から吹きわたる秋風はそれ以上に白く寂しい感じがするよ。秋の風(秋)




山中温泉
 山中温泉に入浴した。この温泉の効き目はあの有名な有馬温泉に次ぐということだ。


山中や菊は手折らぬ湯の匂ひ
・山中温泉の湯の香をかぐと命も延びるような気がする。もう、あの長寿延命の菊の花も手折るにおよばない。


曽良と別る
 曽良は腹の病気になって、伊勢の国の長島という所に親類があるので、一足先に行くことになったが、そのとき、


行き行きてたふれ伏すとも萩の原   曽良
・病人の一人旅のことですから、歩きに歩いた末に、たとえ倒れて死ぬようなことがあるにしても、萩の咲く野原で死にたいものです。萩の原(秋)


今朝よりは書付消さん笠の露
・いよいよ今日からはひとり旅になるのだから、笠に書いてある「同行二人」という書付を、笠の露で消してしまおう。笠の露(秋)

 


種の浜
 八月十六日、空が晴れたので、西行上人の古歌に知られるますおの小貝を拾おうと、種の浜に舟を走らせる。浜までは海上七里ある。天屋某という者が旅籠や小竹筒などをこまごまと気を遣って用意させ、召使いを大勢舟に乗せて出かけたが、舟は追い風を受けてたちまちのうちに吹き着いた。浜はみすぼらしい漁師の小家があるだけで、傍らにさびれた法華寺がある。その寺で茶を飲み、酒をあたためなどして雅興をを尽くしていると、折から、古来文人墨客の愛惜してきた秋の夕暮れの寂しさの趣には、何ともいえないものがあった。


寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋 
・(この夕暮れの寂しさ。『源氏物語』以来、寂しさの極致とされてきた須磨の秋と比べても、この浜の夕暮れの寂しさは、なお立ち勝っている。)


波の間や小貝にまじる萩の塵
・(さざ波の寄せる浜辺の、波の絶え間。よく見ると、砂浜の上には西行が詠んだますおの小貝がいっぱいに散らばっていて、その小貝の間には、可憐な萩の花屑も散り交じっていることよ。)
その日の遊興の概略を等栽に書かせて、この寺に記念に残した。




大垣
 露通もこの敦賀の港まで出迎えて、美濃の国へと同行する。馬の背に助けられて大垣の庄に入ると、曽良も伊勢から来合わせ、越人も馬を飛ばせてやってきて、一同が如行の家に入り集まった。前川子・荊口父子をはじめ、そのほか親しい人々が夜昼訪ねて来て、まるであの世から生き返った者にでも会うかのように、無事を喜んだり、疲れをいたわったりしてくれる。そうこうするうちに、長旅のつらい思いもまだ抜けきらないのに、すでに九月六日ともなったので、伊勢の遷宮を拝もうと、また舟に乗って、


蛤のふたみに別れ行く秋ぞ
・元禄二年(1689)九月六日、伊勢参宮に出立する際、見送りの大垣連衆に示した留別の吟。『おくの細道』の結びの句でもある。蛤が蓋と身に分かれるように、懐かしい人々と別れ、二見が浦へ旅立って行く。秋ももう過ぎ去ろうとして惜別の情をいちだんとかきたてている。の意。
「二見」に伊勢の歌枕「二見」の地名と「蓋と身」の両意を掛け、西行「今ぞ知る二見の浦の蛤を具合わせとて覆ふなりけり」の歌を下敷きに「蛤の」を枕詞的に用いたもの。「別れ行く」「行く秋ぞ」と言い掛けた結びが、人生は無限に続く旅なのだという、この紀行を閉じるにふさわしい無量の余韻を響かせている。行く秋(秋)


 からびたるも、艶なるも、たくましきも、はかなげなるも、奥の細道見もてゆくに、おぼえず立ちて手たたき、伏してむらぎもを刻む。一般はみのを着る着る、かかる旅せまほしと思ひ立ち、一度は座して、まのあたり奇景をあまんず。かくて百般の情に鮫人が玉を翰(ふみ=文章)に示したり。旅なるかな、器なるかな。ただ嘆かわしきは、かうやうの人のいとかよわげにて、眉の霜の置きそふぞ。
                                                                                                                        元禄七年  素竜書


教科書・訳
 枯淡な趣きも、優美な趣きも、強いところも、弱々しいところも、《みな備わっていて》、『奥の細道』を読んでゆくと、おもわず立ちあがって《なるほどと》手をたたいたり、あるいはうつむいて心に深く感銘を受けたりする。あるときは自分も蓑を着てこのような旅をしてみたいと思い立ち、またある時はすわったままで眼前に《浮かぶ》絶景を《思って》満足するのである。このように種々様々な趣を、人魚の涙の玉のような美しい文章に示している。《こんな名文ができたのは》、旅をしたればこそであり、《また作者の》優れた才能があればこそである。ただ嘆かわしいことは、このようなすぐれた人がたいそう弱々しげで、眉の白毛がいっそうふえたことである。元禄七年   素竜しるす

【解説】
 これは、『奥の細道』を清書した素竜の跋文(あとがき)である。素竜はまず、この紀行の多種多様な味わいについて述べ、次ぎにこの紀行が、旅と芭蕉の才能との所産であることを述べ、最後に芭蕉の健康を案じて結んでいる。単文ではあるが、『奥の細道』の最初の評論というべきものであり、また、よく錬られた味の深い文章である。