俳句への至言



               俳諧といふは別のことなし、上手に嘘をつくことなり

                                                          松尾芭蕉〈俳諧十論〉


 この言葉の意味は特別難しくはない。俳諧というのは上手に嘘をつけばよいのだというのである。それ以外に特別な注意事項な

どはないというのだ。

それにしても「嘘をつく」というのはいささか穏やかならぬ表現だから、具体例をもとにしてこの言葉の意味を掘り下げてみよう。

芭蕉の言葉だから、芭蕉の句を例にとる。

 芭蕉は元禄七年の夏に〈清滝や波に塵なき夏の月〉という句を作った。清滝は、嵐山の麓を流れる桂川の上流で、水の美しい

ところである。その水の清らかさを「波に塵なき」と表現したのだ。その年の冬、陰暦十月十二日に芭蕉亡くなるのだが、死ぬ三日

前になって、芭蕉はこの句を〈清滝や波に散り込む青松葉〉に変えるといった。その一応の理由は、九月二十七日に園女のとこ

ろで作った〈白菊の目にたててみる塵もなし〉とまぎらわしいからということだが、「波に塵なき」と〈白菊の目にたててみる塵もなし

〉とでは、状況も違うし、それほど似ているわけではないから、もっと深い創作上の理由があってのことだろう。

 芭蕉の最後の句というと、〈旅に病んで夢は枯野を駈け廻る〉が有名だが、これは十月八日に作られており、その翌日に〈清滝や

波に塵なき夏の月〉を〈清滝や波に散り込む青松葉〉に変えると言ったのだ。オリジナルの作品は〈旅に病んで夢は枯野を駈け廻

る〉が最後の句になるが、芭蕉が最後まで案じ続けていたのは「清滝」の句である。

 芭蕉はここで、清滝の水の清らかさを読者に実感させようとして「青松葉」を散り込ませている。「波に塵なき」は事実であったとし

ても説明的だ。俳諧では説明で読者に事柄を伝えてはいけない。青松葉は清々しい印象を人に与える。その清々しさを、清滝の

水と重ね合わせると、その清らかさが実感として読者に伝わってくる。芭蕉の意図はここにあった。

 つまり、この点が「上手に嘘をつく」ということだ。芭蕉は清滝の水を見て、塵一つない水の清らかさに感動した。しかし、「波に塵

なき」というだけでは、水の清らかさを読者に実感してもらうことが出来ない。そこで、波に青松葉が散り込んでいる という嘘をつ

いたのだ。

 この「上手に嘘をつく」ということは、すべての芸術にしばしば共通して試みられることである。

ー出典=「俳句に生かす至言・大輪靖宏」(富士見書房)