俳句の真相
最近、図書館でふと手にした
書物。普段わたしが感じてる
ことが、的確に記述されてあ
る。
心 眼 「写生」から『実相観入』へ
俳句の喜びの第一は、発見の喜びだろう。その発見は、目で見つけることに限らず、心に感じたことも(五感+心)、みな含まれる。例を挙げよう。
ぜんまいののの字ばかりの寂光土 川端茅舎
ゼンマイの形は「の」の字に似ている。これは「の」という字があつまって、仏道悟入の静寂な世界を示している、という句意で、作者の発見による歓喜の情が素直に伝わる。
青蛙おのれもペンキ塗りたてか 芥川龍之介
これは青蛙の濡れてテラテラ光っている色が、緑色ペンキの塗り立てのようだ、という句意。童心に帰ったような素朴な魅力も加わっている。
このように俳句は、異常事を発見した驚きという極端なものよりも、日常に見聞する平凡なことがらを、詩人の眼で眺めて見いだした喜びが中心になっている。こんな見方があったのか・・・こんな表現が出来るのか・・・と思うような発見である。
このように異常事ではない日常の中に生まれる発見とは、それを眺めた人間の眼の力や頭脳の働きが作り出すものであろう。それで、“発見“というよりも“創造“と呼ぶ方が適当かもしれない。
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ところで句を作るときに、よく“写生“ということがいわれ、初心者の大部分や一部の俳人において、句作りの方法としてだけではなく、鑑賞の場合にも、それをおいてはほかにない手法と思っている向きがある。しかし、ただ写生だけで俳句が生まれるかというと、大いに疑問があろう。
川底に蝌蚪の大国ありにけり 村上鬼城
という句がある。「川」という流れているものよりは“水底に・・・“とした方が良さそうだが、あえて「川底」としたのは「カワゾコ・・・・・カトノタイコク・・・」というカ行音の効果を考えての上だろうか。
つぎに「蝌蚪の大国」の表現だが、これも写生からは生まれてこない。オタマジャクシが国家をもつはずはなく、もし写生に徹するならば“川底に蝌蚪の大群“となるだろう。したがって、この表現は客観写生によるものではあり得ず、まさしく“主観表現“そのものではないか。また、「・・・・・ありにけり」という表現には、もはや現実には存在しないオトギバナシとか伝説のような感じがあり、これも眼前にあるものを見たまま述べる“写生“ではない。
俳句の中に写生を取り入れたのは正岡子規であるが、それが後に虚子により主観も加えた“客観写生“として「ホトトギス」の指導方針となった。
“写生“を信奉する結社の作品でも、すぐれたものは眼前の対象の忠実な再現をはるかに乗り越えて、見る者と見られる物の両方の思いを表現した句も数多く産まれている。
写生は大切にしなければいけない。個人の外にある客体の世界を注視せよ、という写生の立場は、絶対に欠くことのできない俳句の根本原理であろう。
しかし、写生だけでは内心の思いや感覚が表現できないので、“実感“を込めることになるがただ“実感“は自分自身の感じであって、それを第三者にわからせるには、感じている自分を客観視しなければならない。主観性を生かした客観性、つまり主観と客観の交流を常に保っていなければならない。
自然を詠うことの多い俳句は、吟行が重要であるが、吟行以前から自然の事物を熟知していることが肝要である。自然を離れ、もっぱら人間探求とか感情を詠うような社会的ないし主情的な傾向の作家でさえ、どういう場合にどういう感情が起こるかという、人間心理の客観性に通暁していなければならない。
写生を含めた外界表現だけでなく、社会の思想や人間の感情を追求する内面表出の場合でも、俳句が深みを得るのは、主観と客観の総合が前提となっている場合だろう。
このように、俳句の根本原理を“写生“とするだけでは、「詩文学」としての俳句の形式的要求を満たすことができないばかりか、外界と下界、または客観と主観を越えた実相の深みを表現することはできない。このような深みを表現する原理に命名するとすれば“客観写生“=“主観と客観との写生“、また“写生“=“実相観入の表現“あるいは“言語表現による真相看破と定着“とでも呼び直すべきではなかろうか。
ー出典=俳句創作鑑賞ハンドブック(學燈社)
「俳句の作法」・鷹羽狩行(俳人協会会長)
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