芭蕉の足跡
旅ー歌枕を訪ねて
元禄文学は、綱吉初世の弾圧の季節の中で、政治への展望と批判を喪失させられた代償として、一途に人間への真実へと深まるところに成立したことになる。芭蕉の生きた時代が、庶民の生活にとって暗い影に覆われた時代だったことを見落としてはならない。こうして天和年間の深川の草庵生活の中で、
櫓の声波を打って腸氷る世や涙
芭蕉野分して盥に雨を聞く代かな
氷苦くえん鼠(もぐら)が咽(のど)をうるほせり
など。
自己の貧困の生活を「荘子」や杜詩など漢詩文の中のものとしてとらえ直すことによって詩化した、漢詩文調による“侘び“の俳諧が成立する。それは貞門・談林の言語遊戯を乗り越える、新しい人生詩としての蕉風俳諧の誕生だった。
その成果が『みなしぐり』に結集されると、
貞享元年(1684)〜翌年四月にかけて;『野ざらし紀行』
貞享四年八月の;『かしまの記』
貞享四年十月から翌年四月にかけて;『笈の小文』
その帰途八月の;『更科紀行』
元禄二年(1685)三月〜九月にかけて;『おくの細道』
に至る一連の旅。
芭蕉は“旅の詩人“と呼ばれ、生涯を旅の中に明け暮れたように思われがちだが、紀行文を残した旅は、この五回に限られてい
る。なぜ芭蕉は、四十一才から四十六才の間に集中的に旅を重ね、紀行文を書き残したのか。
この期間に行われた芭蕉の旅は、一つには庶民の生活外にある己を自覚し、「命がけの苦行の実体験による感覚の開発を意図
していた」。また一つはこの旅により地方俳壇の開拓という、俳諧師としての実利的意味を伴っていた。事実、これらの旅を通して
、尾張をはじめ伊勢・美濃・近江・京都・出羽・加賀の地に焦門の誕生を見た。
だがそれよりも芭蕉が俳風の一大転換期の自覚の中で、漢詩文調の観念性を脱却し、歌枕(古人が名歌を詠んだ名所)を巡礼す
ることによって、日本の風土に刻みつけられた詩心の伝統を探り、そこに新風開発のための源泉を汲もうとしたことの意味のほう
が大きい。芭蕉の詩のゆるぎなさは、そうした旅の実践を通し詩歌の伝統を自己の内面に骨肉化していた点にある。
『野ざらし紀行』、『笈の小文』、『おくの細道』、などの紀行文は、苦難の旅路の果てに、能因・西行らの古人や現存の人々との魂
の出会いを重ね、新風を切り開いてゆく過程を、紀行の形に託し、象徴的に綴ったものにほかならなかった。
芭蕉・・・乞食の自覚
芭蕉は旅にあっても、草庵の生活においても、常に自らを乞食と呼んでいた。
深川の草庵にいった翌天和元年に草した「乞食の翁」句文の中には、「自らから乞食の翁と呼ぶ」の文言が見える。
それは一つには、生産・流通にかかわる社会的に有用な何の職業にも携わることなく、専ら門人達の喜捨によって生きている自分
自身のありようを、自嘲的に呼んだものであろう。
つまり、芭蕉にとって“侘び“の極みとしての乞食とは、現世的な一切の欲望を捨て去った、人間としての最も純粋なあり方としてと
らえられていたのである。〜現在の結社の主宰、選者の姿勢は如何であろうか〜
参考文献:尾形仂・著「芭蕉ハンドブック」
