音楽史


T 古代前期


 東洋西洋問わず、原始時代古代は、歌謡(声楽)が中心であるが、日本でもこの現象には変わりがない。 
 この時代は、遺跡などの発掘物から、当時の音楽、楽器などがうかがいする事が出来る。おそらく、気候、風土、生活習慣の違いなどから、西洋と東洋の歌謡の違いはあったであろうが、それがどのような音楽であったかは知る由もない。



 日本における、大和、飛鳥、奈良時代の古代前期、大和朝廷による国家統一が完了し、朝鮮半島の進出、中国との交渉が行われ、その結果大陸文化が伝来する事となった。

 仏教の興隆によって、建築、絵画、彫刻、工芸などが発展し、国際的な文化が栄えた。

 大陸文化の輸入により、中国、朝鮮及び諸外国から外来音楽が渡来し、古代の伝統音楽に加えてその種類は多彩になり、最初、外来音楽と伝統音楽の二つは平行線の状態で併存していた。

 この頃ヨーロッパでは、ローマ法王グレゴリウスT世によって『グレゴリウス聖歌』が制定され、カトリック典礼音楽が発達した。これはいろいろな面で日本の声明に匹敵する。



 さて、日本古来の伝統音楽に加えて、大陸から輸入された伝来音楽を宮廷音楽として存続させる為には、これらを司る今日の官庁のようなものが必要であった。雅楽寮である。

 西洋を見るにこの時代、日本の雅楽寮に相当する期間は見られない。
 西洋においては、宮廷より教会の方が絶対的な権力を持ち、そこで教会音楽が発達したものと考えられる。 故に専門の音楽機関に保護される必要性はなかったのである。
 もっとも静養の宮廷音楽はすでに古代ローマ時代にその記録がある。

 西洋では、教会音楽がその性質上、神秘性、崇高さ、超越性を求めているのに対し、宮廷音楽は人間的で親しみやすいものであった。

 一方、日本の宮廷音楽である雅楽は、寺社、神社の儀式にも出仕していたようである。



U 古代後期

 古代後期(平安時代)、日本は外国からの入貢が途絶え、遣唐使の廃止を契機として、外国とも交渉がなくなったので、前期に伝来した大陸文化を消化し、日本人の趣味、感覚に合った文化が形成された。
 この時代に、天台宗、真言宗が開かれ、天台宗から浄土宗が起こり、仏教は美術、工芸に大きな影響を与えた。

 この他、建築、彫刻、絵画、書道、衣装などの発展も著しく、これらの文化は次第に庶民の中に浸透していった。

 日本では楽制改革によって、宮廷音楽の整理統合が行われ、前期に伝来した外来音楽が次第に消化され、また古来の伝統音楽も外来音楽の影響を受けて改変される。 それらによって、外来音楽の要素を導入した新しい声楽曲も生まれた(催馬楽、朗詠、雅楽に準ずる歌曲等)。

 更に、中国から新たにもたらされた仏教に基づく声明の発生、及び日本式声明の成立、そしてこれらの影響を受けた民衆音楽の発生などが見られた。

 この頃の西洋では、教会音楽が発達し、多声音楽が発生した。その結果、典礼音楽が多声部で作曲されるようになった。
 一方、世俗音楽の興隆がみられ、十一、二世紀頃から、フランスのトルバドゥール、トルヴェール、ドイツのミンネゼンガーなどが登場してくる。



 この時代、音楽が非常に発展するという点では西洋も日本も共通である。

 この時代に宗教音楽が発展するわけだが、中国から伝えられた声明は、いずれも梵語、漢語により讃歌であった。
 これらの伝来された声明に対して、日本語による声明が作られ始め、各宗派によって、天台声明、真言声明などが大成された。

 声明は無伴奏、単旋律の独唱、または斉唱曲であり、男声によって歌われる。
 声明の記譜法はネウマ譜であり、他にもグレゴリオ聖歌と類似点がみられる。

 一方、貴族の一般教養として、文学と並んで音楽が重要視され、その音楽尊重の傾向は、音楽を立身出世の手段として功利的な目的として行われるようになった。
 その結果、音楽の各専門家がその家芸を重んずるあまり、秘伝として容易に教えなくなり、ここに流派意識、秘伝の慣習が生まれた。

 西洋においてこのような事がなかったのは、音楽が宗教に付随するのものとして主に存在していた事から、立身出世の手段として用いられることはあっても、極端な排他意識は生まれなかったものと思われる。



V 中世前期

 この時期は武士階級の台頭が起こり、中央進出が始まった。
 まず、平氏が政権を取り、そして源氏が鎌倉幕府を開いた。 鎌倉幕府の滅亡後、まもなく南北朝の対立抗争時代に入り、武士の勢力は増大し守護大名が成長した。
 鎌倉時代は仏教の発展が著しく、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗などが起こり、宋から伝えられた禅宗は、臨済宗、曹洞宗を生んだ。

 このような仏教の発展は、文化に大きな影響を及ぼし、仏教的色彩の強い美術、工芸が生まれた。



 この時代、貴族の勢力減退と共に、雅楽はその頂点を過ぎて固定化し、声明も創作の時期が終わって伝承の段階に入った。

 寺社を中央に行われた芸能の中で、田楽、猿楽などが次第に成長し、一方で平曲(平家琵琶)が勃興したが、これらは日本人が作り上げたものであって民族性が強い。
 この期の音楽は階級的色彩が薄く、あらゆる身分、階層に受け入れられた。

 この期の西洋は、ルネッサンス音楽の準備期であり、ポリフォニーは新しい段階に発展し、世俗音楽が多くの教会に影響を与え、定量記譜法が発達した。



 雅楽は固定化してしまったが、依然宮廷の儀式音楽としては衰えていなかった。
 しかし、政権を握った武士等が雅楽に対する理解画あるうちは良かったが、北条氏が政権を取るに及び、理解者が少なくなり以後は次第に衰える。
 平曲は「平家物語」の琵琶の伴奏で語る音楽である。 平曲は教習の上で、平物、秘曲、秘事の三段階があり、伝承制度が厳しかった。



W 中世後期

 室町幕府は南北朝の合一を行なったが、幕府の力は次第に守護大名に及ばなくなり、幕府は有名無実となった。
 守護大名の勢力争いや、下克上による新興大名の出現により、戦乱が百年余り続いた。一方、庶民の社会的、経済的地位も向上した。

 文芸では、新しい庶民的な内容の御伽草子、連歌、能楽、狂言などが生まれ、さら幸若、風流、念仏踊りのような民衆芸能が盛んになった。
 他、美術や工芸、水墨画、能面や武器の装飾、茶道、華道などが発展した。



 この期の日本音楽は、外来音楽の支えを脱した日本独自の民族性豊かな音楽が生まれた時期である。

 これのもっとも典型的なものが、能楽であり、武士に支えられた平曲、宗教音楽の一種である普化尺八、庶民の間にも波及していった一節切の音楽、室町小歌、浄瑠璃などの特色ある音楽が発展したが、更に重要な事は三味線の伝来である。
 一般にこの期の音楽は鎌倉時代同様、あらゆる階層に受け入れられる性格を持っていたが、やがてこれらは特定の階層の音楽として固定化されていくのである。

 西洋はルネッサンスの時代で、特に十五世紀後半に活躍したフランドル楽派は、対位法の技法を発展させ、表情豊かな音楽を想像した。



 平曲は多くな発展を遂げ、多くの平曲家が現れた。その理由として芸術的価値が高く「平家物語」の文学的価値も高かった事が挙げられる。平曲の発展により平曲家の地位が向上し、収入も増した為、盲人の高利貸しが発生する。

 室町時代の初頭、観阿弥、世阿弥親子によって、猿楽を母体として、能が大成される。
 能楽は総合芸術であり、美術、演劇・舞踊、音楽の要素が含まれる。
                    
サンシェン
 三味線は、中国の元の時代に「三弦」という楽器があり、これが琉球へ伝来し、これが更に本土へ伝来して三味線となった。
 中国の三弦は琉球の蛇皮線同様、蛇の皮が張ってあったが、本土では犬または猫の皮を張る。
 三味線の奏法やその名称は日本独特で、その音楽も同様であり、近世に入って広く庶民の間に用いられるようになる。



X 近世初頭

 安土桃山時代、封建制度の基礎が築かれ、武士の絶対支配が行われ始めた。そして仏教が持っていた権威を打ち崩し、その弾圧を行なった。
 一方西洋文化が伝来し、キリスト教が国内に広まった。

 また、出雲大社の歩き巫女といわれる阿国が始めた(歌舞伎)踊りは各階層の人々の人気を呼んだ。
 この期は、権威の象徴として城郭が建築され、庶民の生活を題材にした風俗画も現れた。また、茶道、筑紫箏が大成される。



 この時代、平曲はすてにその最盛期を過ぎ、能面が固定化される一方、地歌、浄瑠璃、長唄などはすべてこの期に準備がなされた。
 そして、キリスト教の伝来と共にキリスト教音楽が日本に伝来されたが、キリスト教弾圧によって日本に根をおろさないまま消滅する。

 この時期、西洋ではルネッサンス音楽の最盛期であり、パレストリーナなどが現れ、対位法の技法が発達し、器楽(リュート、オルガンなど)が重要になってきた。また、宗教改革の結果、プロテスタント教会音楽である、コラールが誕生した。



Y 近世

 徳川幕府によって強固な封建制度が打ち立てられ、鎖国によって海外への目が閉ざされる。
 一方、戦乱がおさまり長期に渡って平和が続いたので、町人階級が次第に力を持ち始め、文化はあらゆる階層に広く行き渡り、独自の国民文化が形成された。
 儒教が仏教に変わって国民の間に根をおろし始め、朱子学・神道、国史・国学の研究が起こる。

 文芸では俳諧、浮世草子、浄瑠璃、歌舞伎などが発達し、美術工芸では、浮世絵、文人画、写生画などが普及した。



 一般に、この期に生まれた音楽は近世音楽と呼ばれ、鎖国によって日本の国民性が強く現れた音楽である。
 また、階級制度が強固なものになるに伴い、音楽上にもこれが著しく現れる。雅楽は貴族の、能楽は武士の、三味線・箏は庶民の音楽であった。

 さらに音楽家にも階級観念、特権意識が滲透し、家元制度と相俟って、演奏者の序列、芸の秘伝などが厳格に守られた。
 加えて芸術家相互の排他的観念が強く、これが多くの流派を生んだ。



 この頃の西洋は、バロック、古典派及び前期ロマン派の時代である。

 バロック時代には世俗音楽・器楽の優位、オペラ・オラトリオ・カンタータの発展、ホモフォニー様式・調性の確立などがみられ、組曲・合奏協奏曲・フーガなどの新しい形式が発展した。これらはバッハ、ヘンデルによって大成される。

 十八世紀の後半に入ると古典派の時代であり、ハイドン、モーツァルトが現れ、ベートーヴェンによって古典派は大成される。
 これに続くのがロマン派であり、ウェーバー、シューベルト、シューマン、メンデルスゾーン、ベルリオーズなどによってロマン派音楽が開花した。



 この時代、専門的に音楽を学ぶには、師匠の弟子となって稽古をしなければならず、弟子は入門した日から、稽古の他に師匠の個人的な用件まで行わなければならなかった。したがって音楽そのものを厳格に学習することは、むしろ二の次にされ、師匠や兄弟子に対する忠誠が第一とされた。

 伝授は暗譜を基本とされ、師匠から伝授されるものは、師匠が伝えている楽曲の正確なる暗譜のみであった。この時代の風潮では、作曲法、音楽理論、演奏論など生まれるはずがなく、革新的創作を行うための教育は皆無であった。
 この時代の音楽教育は一つの流派の型にはめこむ教育であった。

 西洋では前述にもみられるように、ひとりひとりの才能ある作曲家達によって、バロック、古典、ロマン派と次々に新しい音楽が生まれている。また、音楽批評の分野の発達などもみられる。
 日本は鎖国の状態にあったため、非常に特殊な家元制度が確立され芸が極められたが、排他的であった。



Z 近代前期

 明治維新によって長期にわたる鎖国状態は解かれ、西洋の近代文化が入り文明開化の時代となった。
 要するに明治時代派は江戸時代の封建制度を、形の上ではうち破った時代である。



 この時代は外来音楽である洋楽と、在来音楽である伝統音楽とが併存していた時代であり、洋楽の伝統音楽への影響は、少なからず決定的なものはなかった。
 伝統音楽は次第に洋楽に押されてきたが、洋楽が国民に消化されるには至らず、その教習に努力していた時代である。

 この時期、西洋では後期ロマン派及び印象派、表現派などが出現する時代である。
 後期ロマン派音楽は、ワーグナーの楽劇、ブラームスの古典主義の復活、スメタナ、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、グリーグなどにみられる国民音楽によって代表される。

 二十世紀に入ると、ドヴュッシーによる印象派の音楽が起こり、反ロマン派が台頭した。シェーンベルクやストラヴィンスキー(中期)の表現主義も、新しい行き方を示す音楽として注目された。



 明治期には入ると学校教育が体系づけられ、音楽が学校教育の一教科として取り入れられたので、ようやく組織的・体系的な音楽教育が日本で行われる基礎が出来上がった。

 1879年には文部省の所属機関として音楽取調掛が設置され、音楽の調査、研究が行われた。
 その目的とするところは、東洋・西洋の両音楽を折衷して、日本にふさわしい音楽を作曲し、それを音楽教育に取り入れ、これの実地に当たる教育者の育成であった。
 また1900年に滝廉太郎の「花」などが作曲されたが、これは音楽史上画期的なことである。 そして、1909年には山田耕筰による自作の歌劇が上演された。

 明治政府は江戸時代に存在した数々の特権を廃止したが、その為邦楽演奏者などは生活に窮するようになった。しかしそれまで一部の人間にしか接することのできなかった音楽が、広く一般にも解放されるようになったのである。



[ 近代後期

 明治時代に日本の近代化はほぼ達成されたが、急速なものであったので、種々の歪みが生じた。

 日本は海外進出を図って第一次世界大戦に参戦したが、政党政治の衰退に乗じて軍部が台頭、軍国主義に傾き、第二次世界大戦に突入し、敗北した。
 大正時代は欧米文化の消化が行われ、ヨーロッパの合理的精神が芽生えたが、昭和時代に入り軍国主義の傾向が強まるにつれて、国家主義が強くなった。
 思想・教育・宗教・芸術への統制が厳しくなり、大衆音楽・流行歌は栄えたが、文化の質は低下する一方であった。



 この時代、日本人が洋楽を理解し消化し始めた時期であり、洋楽の模擬の段階から徐々に抜け出し、伝統音楽に洋楽を摂取した作品が生まれ始めた。
 しかし、伝統音楽を忘却しかけた状態になり、国民音楽の創造には至らなかった。

 西洋では「新音楽」の時代から「新古典主義」の時代の入る。「新音楽」は第一次世界大戦の時代思潮から生まれた急進的なもので、いわば一種の試みである。またシェーンブルグは無調主義から出発して、十二音の作曲技法を達成した。
 一方、第二次世界大戦の勃発と共にヨーロッパの音楽家がアメリカに亡命し、シェーンブルクやバルトークの作品には、戦時下におけるヒューマニズムの現れをみることが出来る。



 大正時代は宮城道雄が活躍し、彼によって伝統音楽は新しい段階を迎えた。その行き方は、洋楽の中から伝統音楽に融合できる部分を取り入れ、伝統音楽を再生しようというものであった。これを新日本音楽という。
 そして、滝廉太郎の後を受けて芸術歌曲の発展に力を尽くしたのが山田耕筰と藤井清水である。

 昭和時代、戦争が激しくなるにつれて専門的にしろ趣味にしろ、音楽を学ぶことそのものが贅沢であると言われるようになった。
 第二次世界大戦中、政府の政策として、外国文化を見下げ、自国の文化を盲目的に尊ぶ風潮があったが、その中でおいてさえ、音楽教育の教材はほとんど洋楽であり、伝統音楽が鑑賞教材にもほとんど使われなかった。



\ 現代


 第二次世界大戦の結果、日本は無条件降伏し国内は混乱・虚脱状態におかれた。
 戦争中の自国の文化に対する盲目的崇拝の反動もあって、伝統文化全体を蔑視する風潮があり、伝統音楽はほとんどかえりみられなくなった。

 洋楽は徐々に復興し、戦争中かろうじて存続していた日本交響楽団(後のNHK交響楽団)が定期演奏会を催し、リサイタルも行われ始めた。

 国内が落ち着きを取り戻すにつれ、伝統音楽への再認識の声が高まってきて、1950年、文化財保護法が公布され、無形文化財がこれに含められた。義務教育の教科書にも、伝統音楽が教材に含まれるようになった
 また、次第に邦楽・洋楽という観念を打ち破る作品が生まれてくるようになった。