ミュージカル『モーツァルト!』関連解説


 ザルツブルグ大司教と決別し、ウィーンで生活するヴォルフガング。

 マンハイムで知り合ったウェーバー家に下宿し、レオポルト・パパが嫌っていたにも関わらず、そのウェーバー家の三女コンスタンツェと結婚した為、ますますレオポルドとの溝が深まります。

 ウィーンでヴォルフガングは、ピアノ教師や作曲した曲を披露する予約演奏会などをして収入を得、最初は多くの予約者がありましたが、晩年には予約者はヴァン・スヴィーデン男爵一人のみとなります。
 最初は歓迎して迎えられたヴォルフガングの音楽ですが、様々な妨害や、ヴォルフガングの音楽が、聴衆にではなく、自分自身に向けて作られるようになり、人々から『モーツァルトの音楽は難しい』という先入観を持たれるようになります。
(作曲方向が変わったのは、フリーメーソンの入会がきっかけと言われています)



 プラハではヴォルフガングの音楽が大人気で、招かれてプラハを何度か訪れています。
 「フィガロの結婚」が大人気で、また「ドン・ジョバンニ」はウィーンでは不評でしたが、プラハでは大好評でした。

 ちなみにチェコ(プラハ)では現在でも、「我が国の作曲家」として、モーツァルト、スメタナ、ドヴォルザーク、と列挙するくらい、モーツァルトの音楽を愛しています。
 『アマデウス』のロケもプラハで行われてるし、そのうちプラハでも『モーツァルト!』を上演するんじゃないかと心密かに思う私…。


 プラハ旅行から戻ってくる辺りから、どんどんヴォルフガングの生活は苦しくなります。
 度重なる演奏旅行や貴族との付き合いなど、以前と変わらず出費は重なるのに、予約演奏会には人が集まらず、収入は激減。
 でもヴォルフガングは売れていた時と同じ活動を続けるので、生活は困窮していくばかりです。この辺は本当に世間知らずのお坊ちゃまですね。



 そんな生活の中、父レオポルトが病床にある時、ヴォルフガングは『死は人間にとって最善の友である』というレオポルト宛に意味深な手紙を送っています。
(余談ながら、この時期にベートーヴェンに会ったりしている)
 まもなくレオポルト死去。しかし、ヴォルフガングは父の死の床にも駆けつけず、埋葬にも立ち会いませんでした。

 レオポルトの死をナンネールは直接伝えることをしませんでした。
 ヴォフルガングが家を出て、コンスタンツェと結婚したことは、父のみならずナンネールとの間にも深い溝が出来ていました。

 その後もヴォルフガングの生活は苦しくなるばかりで、フリーメーソンの仲間に何度も借金をしています。
 1788年にフランス革命が起こり、国家にこだわらず自由な活動をしようとするヴォルフガングは、革命を危惧する貴族から白眼視されつつありました。



 ヴォフルガングの困窮生活は続き、コンスタンツェはバーデンへ保養、生活はますます苦しくなる一方で、体調はすぐれません。
 しかし、ヴォフルガングは作曲を続けます。

 そんな中、レクイエムの作曲を依頼するものが現れ、ヴォルフガングはシカネーダーから依頼された「魔笛」と並行して作曲をします。

 レクイエムの詳細については、以前エッセイを書いているのでそちらをどうぞ。
  アマデウス、そしてサリエリ


 レクイエムの作曲半ばで、1791年12月5日深夜、ヴォルフガングは亡くなります。享年36歳。
 正式な死因所見は【急性粟粒疹熱】。
 しかし謎多し。依然として暗殺説も根強いです。

 葬儀を取り持ったのは、ヴァン・スヴィーデン男爵。
 ヴォルフガングの遺体は共同墓地に葬られた為、その場所は定かではありません。



 ヴォルフガングって音楽おばかというか、とにかく、音楽に関することにはとっても熱心だったようです。子供の頃からピアノに熱中しだすと離れようとしなかったり、オペラの作曲をするために、台本を100以上読んだり。すごく勉強熱心。

 アンナマリア・ママが亡くなって、レオポルド・パパに知らせるときも、その手紙は今取り組んでいるオペラのことでびっしり。
 そして、そういうヴォルフガングの気性をレオポルド・パパはよく理解し、そしてそれを上手く伸ばすよう、その教育に腐心しました。しかし世間知を学ぶことがなく、それがヴォルフガングの人生の過ちだったのかも。
 でも、比較して、例えばベートーヴェンが世間知に長けていたかっていうと、疑問だけど…。
 いろいろな作曲家がいますけど、ヴォルフガングが貧しく短命な作曲家だったのは否めないです。

 あと、文中には取り上げられませんでしたが、ヴォルフガングが親しかった(?)いとこのベーズレとのやり取りが、『ベーズレ書簡』として有名です。

 Oui, par ma foi, ich scheiss dir auf d'nasen(そう、神かけて、君の鼻の上に糞をする)So, rinds dir auf d'koi.(そうすれば、君の鼻の下に流れる)

 ↑こんな感じのお手紙。
 当時、ヴォルフガング21歳。充分オトナな年齢なんだけど。
 こういう幼児性があったからこそ、精神のバランスが取れてたって説もあるので、やはりヴォルフガングの人為というのは謎です。



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