ミュージカル『モーツァルト!』関連解説


■コロレド大司教(ザルツブルグの領主)
   ヒエロニムス・フォン・コロレード伯爵 1732 - 1812
   Hieronymus Graf von Colloredo
 洗礼名は、
   ヒエロニムス・ヨーゼフ・フランツ・デ・パウラ・コロレード
   Hieronymus Joseph Franz de Paula Colloredo


 一般には「コロレド」ではなく、「コロレード」と表記されることが多いです。

 父と兄はオーストリア副宰相で、伯父はドイツ騎士団のオーストリア管区長という、著名な貴族の出身の人です。当時の貴族らしい、【厳格で思慮深く、贅沢を好まない知識人】だったそうです。
 長男が後継ぎで、次男三男が聖職者に、ってのは貴族でよくあるパターンですね。
 ちなみに伯爵夫人の妹もいます。

 ハプスブルク家の後押しによりザルツブルグ大司教に就任した模様。1872年3月、モーツァルトが16歳、コロレド40歳の時です。



  ザルツブルグ大司教領は7世紀に始まり、ナポレオンの侵攻によって19世紀初頭に終わっています。
 大司教領の最後の支配者はこのコロレドのようです。

 コロレドにとって、音楽は教会の道具の一つであり、モーツァルトは召使の一人でした。 しかし、一応モーツァルトの才能を認め、無給から有給のコンサートマスターに命じます。 そして、『教会での典礼音楽を短く簡明にせよ』と、モーツァルトに作曲を要請します。

 それについてモーツァルトはマルティーニ神父へ不満の手紙を送ってます(以下参照)。

 私どもの教会音楽は、イタリアに行なわれているのとは大変趣を異にしていまして、たとえ大ミサで大司教自らが執行されるときにおいてさえ、キリエ、グローリア、クレド、教会ソナタ、オッフェルトリウムまたはモテト、サンクトゥス、アニュス・ディのすべてを合わせて、最も長いときにさえ、四十五分をこえてはならぬとされております。さりながら、この種の音楽は、たとえかくの如き短いミサの場合でも、(トランペットやティンパニをふくめて!)あらゆる楽器を使用せねばなりませぬ故、特別の研鑚を要するもので御座います。

1776年9月7日、ザルツブルグ

 ザルツブルグでは、自由な作曲が出来ない、自分の才能を活かせないと感じたモーツァルト父子は、大司教に何度も解職を求めます。
 幾度目かの請願書を受け取った大司教は、「至高なる摂理の命によって、この書面の趣と福音書にならい」(大仰ですね:笑)、離職を許可しました。
 しかし、結局父レオポルトは退職を思いとどまります。
(この辺は、現実との折り合わせと考えられますね。年の功か?)

 レオポルトには旅行許可がおりなかった為、モーツァルトと母アンナ・マリアが、パリ・マンハイムへ就職の旅に出ました。
 しかし、就職の希望は叶えられず、母アンナ・マリアはパリで死亡、モーツァルトはレオポルトの勧めで、ザルツブルグの大司教のもとへ復職します。

 レオポルトの周到な根回しもあって、モーツァルトはザルツブルク宮廷オルガン奏者の後任として再び雇われました。
 この時の給与ですが、前任者と同じ給与という資料と、モーツァルト退職時の三倍という資料あり。
 『前任者と同じ給与で退職時の三倍』ということなのかもしれないです。

 モーツァルトはしばらくおとなしく仕事を続けますが、満足出来ず、ミュンヘンからあったオペラの作曲依頼をきっかけに、許可を貰ってザルツブルグを出ます。
 そこで、女帝マリア・テレジアの葬儀のためウィーンに来ていた大司教は、オペラ作曲のため許可を出した約束の滞在期間を過ぎても、ザルツブルグに戻ろうとしないモーツァルトをウィーンへと呼び出します。

 ウィーンのコロレドの元でモーツァルトは演奏会を開きます。
 しかし大司教主催の演奏会では、雇われ人であるモーツァルトには何の収入も得られません。
 また滞在先の宿も、けして待遇の悪いものではないものでしたが、モーツァルトにとっては不満のひとつでした。
 コロレドにしてみれば、ウィーンで演奏会を開き、立派な召使を持つ事を披露するのは、当然の事ですが、モーツァルトにとっては自尊心を傷つけられることだったようです。

 ここで『いつ出発するか』という日にちの問題でモーツァルトとコロレドは決裂します。
 客観的に見ると、結構しょーもない問題に見受けられますが、いさかいのモトとはそうしたもの。当人達にとっては、それがきっかけで、今まで溜まっていた不満が爆発した形になったようです。

 ――そのうちにとうとうぼくも頭にきたので、「猊下にはわたくしがお気に入らないのですか」というと、――「なにっ! わしをおどす気か、この気狂いめ! 出てうせろ、よいか、貴様のようなごろつきとはもう縁きりじゃ!」それでぼくもとうとう言いました、「ぼくの方こそあなたとは縁きりです!」――「出てゆけ!」――僕も出しなに「結構です。明日、文書で提出します」。――最上のお父さん、どうお考えでしょう、むしろもっと早くいうべきで、遅すぎた位じゃないでしょうか――

1781年5月9日 ウィーン

 モーツァルト本人が父に当てた手紙ですので、多少割り引いて読むとしても、相当頭にきてたとはいえ、聖職者なのに“気狂い”とか“ごろつき”とか言っちゃう?(笑)。
 この辺の聖職者らしからぬ発言が、『モーツァルト!』のコロレド大司教の発端なのでは…。

 ちなみにコロレドが言ったのは「fex」という低能、白痴という意味のオーストリアの方言だそうです。方言が出るくらい興奮していたんでしょうねぇ。

 ここで、モーツァルトの人生から、コロレド大司教は姿を消します。



 コロレド大司教は、このミュージカル中もっとも史実と違う人ですね。映画でも少し登場していますが、 その姿は肖像画にとてもよく似ています。
 ほとんどのモーツァルト関連文献は以下のように書いてあります。

「新任のヒロエニムス大司教は、厳格、不寛容で、文化的なことには理解のない領主であった」

 ミュージカル中ではモーツァルトの音楽についてその魅力に逡巡していますが、実際は文化的なことに興味はなかったようです。

 大司教はモーツァルトの才能を理解するには及びませんでしたが、彼なりに厚意を示し、モーツァルトを宮廷に仕える音楽家として、出来る範囲内での待遇をしていたようです。しかし、モーツァルトの、自分の才能に対する自負心は、それだけでは満足出来ませんでした。 もちろん、大司教はモーツァルトの再就職の妨害はシテイマセン。

 モーツァルトと決別した後の大司教の動向は、資料がなくて分かりません。
 いろいろ調べた結果、ナポレオンの侵攻でザルツブルグを追い出されたことだけは、分かりました。 つまり、ちょうどザルツブルグが歴史的な注目を浴びる時期に支配者だった人ようです。

 そんなわけで、大司教猊下については、ミュージカル独自のキャラだと思って楽しむのが吉だと思います。



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