ミュージカル『モーツァルト!』関連解説


■ナンネール・モーツァルト(モーツァルトの姉)
 マリア・アンナ・ヴァルブルガ・イグナーツィア・モーツァルト 
  Maria Anna Walburga Ignatia Mozart 
  愛称ナンネルNannerl  1751.7/30 - 1829.10/29


 ヴォルフガングと5歳違いのお姉さん。一般には「ナンネール」ではなく、「ナンネル」と表記されることが多いです。

 この方もヴォルフガングと同じく神童ではあったのですけど、弟の人並外れた才能の影で、不遇な人生をおくっています。
 可哀相なんだけど、怨み辛みを愚痴るでなく、その生涯を終えたナンネールは立派な女性だと思います。



 幼少の頃は、かなりのピアノの名手で、弟ヴォルフガングと一緒に父レオポルドに連れられて各地で見事な演奏を披露しています。11歳の時には、女帝マリア・テレジアに招かれ、宮中の礼装を贈られています。
 しかし、周囲の目は神童ヴォルフガングに注がれ、一家がヴォルフガングのためにすべてを犠牲にする中、ナンネールは自分がピアニストとして世に出ることを断念しました。
 その後、ヴォルフガングはウィーンへ移住。家族との間に溝が出来ます。

 そしてナンネールは1784年8月に結婚。33歳の時です。
 この結婚式にヴォルフガングは、ウィーンのパイシェッロのオペラ初演の立会いの為、出席しませんでした。

 ナンネールはザルツブルグの宮廷陸軍参事官ディッポルト(当時54歳)からの求婚を断り、ザンクトギルゲンの地方貴族ゾンネンベルク(当時48歳)と結婚。
 夫ゾンネンベルクはナンネールとは15歳年上で、2人の先妻と死別し、5人の子持ちでした。
 ちなみにその子供は、女の子が一人(13才)、男の子が四人(10才、7才、5才、2才)。ナンネールはこの義理の娘にクラヴィーア(ピアノ)を教えたりしています。
 しかしながら、この結婚は幸福ではありませんでした。

 一人広い借家に住む老いた父レオポルドに、ナンネールは結婚後も親身に世話をしています。
 自分の生んだ第一子にレオポルト・アロイス・パンタレオンと名付け、レオポルトに預けます。そして、ナンネールの子を父が育てていることを、ナンネールもレオポルドも、ヴォルフガングには知らせませんでした。

 自分の子を父に預けるとはどんな気持ちでしょうね。夫に先妻の子がたくさんいるとはいえ、初めての子供なのに…。いろんな事情があったのでしょう。

 晩年、父思いであったナンネールは父と同じお墓に埋葬されることを望みましたが、コンスタンツェが夫ニッセンをそこに埋葬し、さらに実家のウェーバー家もそこに埋葬するよう手配したため、怒ったナンネールは遺言状を取り消し、別の場所に墓地を確保します。
(ザルツブルグでそのお墓を見てきましたが、あれはナンネールでなくても怒るでしょう。レオポルドの墓碑よりも立派なウェーバー家の墓石をこれ見よがしに建ててあるんだもの)

 ナンネールは50歳で未亡人となり、晩年はピアノ教師として暮らしました。亡くなる9年前に失明、78歳でその生涯を終えました。



 ヴォルフガングが亡くなった後、その子供時代の証言として、ナンネールの回想録に以下のような記述があります。

「私たちが行いましたいくつもの旅は彼をさまざまな国へと導いてまいりましたので、私たちがある土地から別の土地へと馬車を駆っている間に、彼自身のために一つの王国を考えましたが、その王国を彼はうしろの王国(Ricken)と名づけました。一体なぜそんな名前だったのか、私にはもう分かりません。この王国、そしてその住民には、彼らが善良で陽気な、子供たちに為すことができるものすべてが与えられたのです。彼はこの王国の国王でした。」
(1800年1月22日、回想記)


 ナンネールにとって、弟ヴォルフガングが王子様だったんでしょうか。
 本人にとってその人生が不遇であっても、満ち足りたものであったことを祈ります。



■ヴァルトシュテッテン男爵夫人
  マルタ・エリーザベト・フォン・ヴァルトシュテッテン 1744.1/5 - 1811.2/11
  Marta Elisabeth Baronin von Waldstätten
  旧姓 フォン・シェーファー von Schäfer


 ヴァルトシュテッテン男爵夫人は、ほとんどのモーツァルトの交友人名リストに名前のない人物です。モーツァルトのパトロンの中ではあまり有名な人ではありません。
 どちらかというと、モーツァルトに関わった貴族で有名なのは、葬儀費用も出したスヴィーテン男爵で、映画「アマデウス」でも登場しています。


 ヴァルトシュテッテン男爵夫人は、優れたクラヴィーア弾きとして知られていたようです(クラヴィーアというのはピアノの初期鍵盤楽器です)。
 1762年8月にフーゴ・ヨーゼフ・ドミニク(Hugo Joseph Dominik)と結婚。子供を三人授かり、その後離婚しましたが、離婚後もヴァルトシュテッテンの姓はそのままだったようです。
 モーツァルトの弟子であったアウエルンハンマー嬢が父を亡くした後、ヴァルトシュテッテン宅に寄宿していたこともあることなどから、音楽家の擁護などに努めていたのではないかと思われます。
 モーツァルトと親交を持ったのは離婚後のようです。当時の女性にしてはかなりリベラルな人物であったようです。

 1781年10月31日に、モーツァルトは男爵夫人のレオポルドシュタットの家で、聖名祝日(聖ヴォルフガングの日)を祝っています。

 そして、ヴォルフガングが父レオポルト宛に書いたコンスタンツェとの結婚式の様子にヴァルトシュテッテン男爵夫人の名前が出てきます。

 ――フォン・ヴァルトシュテッテン男爵夫人が仕度してくださった晩餐が、婚礼のご馳走になりましたが――実際は男爵というより、むしろ公爵級のものでした――

1782年8月7日 ウィーン


 レオポルトはヴァルトシュテッテン男爵夫人に幾度か手紙を出し、男爵夫人はヴォルフガングに部屋を提供しています。
 男爵夫人はウィーンにおけるヴォルフガングの保護者であったようです。


 下の画像はヴァルトシュテッテン男爵夫人の直筆の手紙です。
ヴァルトシュテッテン男爵夫人直筆手紙(サイン部分)
男爵夫人直筆手紙(サイン部分)
ヴァルトシュテッテン男爵夫人直筆手紙(全体(手紙のフッター部分))
男爵夫人直筆手紙(後付(フッター)部分)
 画像をクリックすると別ウィンドウで拡大写真が見られます(画像提供:ひょろさん)


赤いコート
画像をクリックすると
別ウィンドウで拡大写真が
見られます。
(画像提供:ひょろさん)

 また、1782年9月に男爵夫人に赤いコートについて訊ねる手紙をモーツァルトが出しています。
 そして、このコートのお礼に「ピアノと管弦楽のためのロンド」K382(イ長調)を献呈しています。

 画像のコートは、ウィーンのモーツァルトハウスにある赤いコートのレプリカです
 ミュージカルの一幕の衣装そのままですね。

 コートの一件などからも推察出来るように、かなりモーツァルトとその家族とも懇意であったようです。コンスタンツェも、モーツァルトが忙しかったり、ケンカをした時(笑)に、何度か男爵夫人宅に泊まりに来たこともあったようです。


 しかしながらモーツァルトの晩年、モーツァルトの予約演奏会に一人しか予約が入らなかった時、予約リストにヴァルトシュテッテン男爵夫人の名前はありません(この最後の1人が前述のスヴィーテン男爵)。

 ヴァルトシュテッテン男爵夫人は1783年にクロスターノイブルグ(ウィーン郊外)に引越し、その後経済的に苦しくなり、家も売却せざるを得ない状況にあったようです。
 おそらく、その時期はフランス革命前後ですので、当時の貴族の生活は不安定だったのではないかと推測します。

 現在、ヴァルトシュテッテン男爵夫人の末裔の方が、ウィーンのホーフブルグ宮にお住まいだそうです(上述の直筆手紙の画像は、末裔の方が所持されているものです)。
 ちなみにシェーンブルン宮にはモーツァルト!の作曲をしたシルヴェスター・リーヴァイさんがお住まいになってます。

 他の作品ですと、ピーター・シェーファーの戯曲版のアマデウスで、いくつかの場の舞台設定が「ヴァルトシュテーテン男爵夫人の書斎」という名前になってます(でも男爵夫人本人は出て来ません)。

 日本のモーツァルト関連の書籍ではあまり出てこない男爵夫人ですが、現地(オーストリア)では有名な方なのかも…と思います。



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02.05/26UP
05.01/10一部補筆・改定
06.05/06一部補筆・改定