滝谷(涸沢岳北壁)/昇天ルンゼ(1997.12.29〜1998.1.1)メンバー:有持、青木、原(ARIアルパインクラブ)



 最後の1ピッチ。壁の最上部は尾根からはりだした雪庇に阻まれている。向こう側は何も見えない。稜線なのか、それとも切れ落ちた垂壁なのか。後者であれば我々は一体どうやってこの壁を抜ければよいのだろう。後ろは滝谷。谷間に下りたところで、昨日積もった新雪の量を考えれば当然雪崩は襲いかかってくるだろう。つまり、後戻りは出来ない。

 その時、我々に残された唯一の選択肢は、向こう側がどうなっていようとも上に向かう事だった。その雪庇を突き破るしか、我々には方法がなかった。

     *   *   *   *

<雄滝の全景とその登攀ルート>

 年末の山行計画はこじれた。
 滝谷へ行くと行っていた3人のうち、2人が出発の10日前になって屏風岩に計画を変更したのだ。
 2人がなぜ滝谷を敬遠したかというと、雪崩を恐れたからであった。
 それは、新穂高から延々と滝谷を詰めて4尾根に取り付く計画だった。滝谷を詰めている最中に万が一大雪が降ったら、沢筋には確実に雪崩が起きる。このルートで成功するためには、正確な状況判断と滝谷を一気に詰める強靭な体力を有している他に、「運」に恵まれることが必要だった。つまり、不確定要素が多いルートであるということだ。2人はそんな不確定な部分を嫌って、このルートを敬遠したのだった。
 3人のうち、そんな不確定な要素を考えても一人滝谷にこだわった有持さんは、当初自分の技術と浅い経験ではとても滝谷は無理だとあきらめていた僕に誘いをかけてきた。前穂/北尾根を目指すべく、パートナーとなる青木さんと話を進めていた僕は、当然、迷った。

 滝谷・・・。いけるのだろうか。確かに4尾根に取り付いてしまえば岩自体の難易度は低い。だけれども、一旦北穂にあがってから滝谷に降りるのでなく、新穂高から谷を詰め上がるとなれば雪崩の危険を考えなくてはいけない。天候を見極め、4尾根の取り付きまで標高差1500mを下から一気に詰めなくてはならない。滝谷の下部には滝が2つ。さらに沢の上部は急雪壁のはずであり、ひとたび雪に降られたら4尾根にとりつく前に谷に閉じこめられる可能性は大いにある。自分の冬季登攀の経験は、過去に一回赤岳主稜に登っただけだ。アイゼンにもろくに慣れていない。最悪十五時間以上歩き続けなければならなくなったとき、僕の足は前に進むのだろうか・・・。

 「体力次第だよ。岩はいくらでも俺がフォローするから」
 と、有持さんは言った。
 「まあ、お前が行かなくても俺一人で行くけどね」
 とも、彼は言った。

 有持さんは僕の山の師匠だ。ザイルの結び方からギアの使い方まで、僕は全て彼から教わった。彼につれられるままに山に向かい、岩の登り方を覚え、氷瀑の登り方を覚え、アメリカンエイドのルート開拓まで経験した。まだ僕はリードもままならないし、エキスバートである彼のパートナーというには未熟すぎるけれど、少なくとも彼は素人同然の僕を必要としてくれるのだった。それは僕にとっても嬉しいことであった。
 ただ、彼とのレベルの差は歴然としていた。万が一の時に僕が足手まといになる可能性は大いにあった。山では自分の命は自分で守らなければならない。果たして僕は滝谷で自分の命を守るだけの能力があるのだろうか?
  
 「どうしますか?」
 仕事帰りの公衆電話から青木さんと相談する。11月から勤め始めたお役所の仕事は、毎日23:00以降まで残業が続く激務で、時間はすでに23:30になっている。哀れ勤め人の身では、装備の確認もこうした計画段階での打ち合わせも、仕事バリにあわただしい電話で済ませなくてはならない。
 「うーん・・・」
 青木さんも悩んでいるようだった。
 「まあ、俺達だけで北尾根に行くのも結構危険な話かも知れないよ」
 たしかにそうだった。僕は頭に「ズブの」という言葉がつくくらい雪壁については素人だし、青木さんも緊急時のレスキュー方法などには明るくない。天候にも恵まれ体調も抜群だったならなんとかなるだろうが、万が一の時にはお手上げ、となる可能性は十分だった。有持さんと組んだパーティで滝谷へ行くのも、青木さんと二人で北尾根に行くのも危険度は変わらないかもしれない。
 「滝谷、行きますかねえ・・・」
 テレホンカードの度数はもう8つ減っていた。
 「滝谷にするか。」
 「まあ、これは結構チャンスかも知れませんよね。」
 これを逃したら冬の滝谷に行くチャンスはいつ来るか分からない。そうだ、これはチャンスなのだ。

 僕と青木さんは有持さんと組んで滝谷へ向かうことにした。

<雄滝を登る原>

 12月28日の夜に新穂高に入り、車の中で仮眠程度の睡眠をとる。
 12月29日、新穂高を午前4時に出発。
 滝谷へ向かう蒲田川沿いの道は、途中まで林道が続いていて路面の状態も良く歩きやすい。寝不足の身体をさますには丁度良い道だ。
 林道が終わりやがて緩やかな傾斜の登山道になるころには、身体はすっかり暖まって調子もあがっている。急峻かつ過酷な谷を詰めるための準備は整った、といったところだ。
 滝谷と蒲田川の出会いは川原が小広くなっていて、脇に避難小屋が立っている。滝谷は入り口からその名にふさわしく切り立った高い岸壁に両岸を仕切られており、しかしその川幅は、上部でさまざまな支流を従え、まるで迷路のように入り組んでいるとは思えないほど狭いものだった。
 丁度出会いから谷の奥を眺めると、滝谷のシンボルとも言うべきドームがくっきりと顔を覗かせている。急峻な尾根の最上部にあるドームは、冬独特の張りつめた、そして動じることのない碧空をバックに従え、厳しくも美しい光景だった。

 予定としては今日中に沢を抜けて4尾根に取り付き、ビバークポイントであり岩登りの起点となるスノーコルを目指す。
 滝谷に入ると、すでに別のパーティーのラッセルの後がついていた。これはもうけた、と、踏み固められた歩きやすい道を闊歩してゆく。導入部分は傾斜もほとんどない平坦な道だった。雪の量も辺りを見渡す限りそんなに多くはない。しかもここ数日新雪は降っておらず、つまり今の状態が続けば雪崩の心配はなさそうだった。
 しばらく行くとすぐに最初の難関である雄滝の基部にたどり着く。雄滝は水量もおちておらず落差もあり、なかなかの迫力だった。
 さて、これをどうやってクリアするかな、と、滝の周辺を見渡す。過去の記録には右岸を巻けると書いてある。だから右岸をあっさり巻けるのだろうと思ってルートを探すが、どうも様子がおかしい。右岸は完璧な氷壁となっていて、とてもじゃないけど普通には巻けないのだ。
 「さ、ハーネスつけて。ギアの用意をしよう」
 有持さんはそう言うと淡々とザックをおろしてギアをつけはじめた。
 どうするもこうするもない。目の前が氷の壁なら、その氷の壁を登るしかなかろう。初っぱなからアイスクライミングである。
 しかし、まさかこんな氷瀑があるとは思わなかったからきちんとしたピッケルもバイルも持っていない。当然スクリューもない。唯一、青木さんがクエコンを持ち合わせていただけだった。
 アイスクライミングは二度目だ。でも、こんな荷物を背負って、効きもしないバイルを使ってのアイスクライミングは初めてだった。アイゼンだってミックス用の物で、アイス用のアイゼンに比べたら利きは悪い。でも、こいつを越えないと先には進めない。
 「じゃ、原、ビレーして」と、有持さんが言った。
 僕はATCを取り出し、環付きのカラビナにつけ、ザイルを通してビレーの準備をした。 「okです」と、返事をする。
 「じゃあ行くよ」といって、有持さんは淡々と登り始めた。
 有持さんの持っているバイルもあまり性能の良いバイルではない。おまけにアイスハーケン一つ持っていないのだから、氷瀑を登っている最中にはランニングがとれない。つまりトップは万が一落ちたらグランドフォールするしかない。氷壁の途中でぶら下がるのではなく、地面にたたきつけられるのだ。
 しかし彼はそんなことまるで気にしていないようだった。淡々と高度を稼ぎ、あっと言う間に1ピッチ登ってしまった。
 「おーい、いいぞ」
 と、有持さんから声がかかった。
 セカンドは自分。気合いを入れてバイルを打ちつけ、アイゼンの前爪を氷に突き刺す。初めはなかなか感覚がつかめず、氷に打ち込んだバイルに体重をかけるのが恐かったが、だんだんとなれてきた。やれば出来るではないか。
 しかし、やはり未熟な自分にはこの貧弱なギアが何とも恨めしい。右手に持っているのは60センチの重たい(ほぼ縦走用の)ピッケルで、左手に持っているのはヨーロッパでは子供用で売られているおもちゃ同然のバイル(ちなみに貧乏な僕はこれを「安い」という理由だけで購入した。値段8000円)。どちらもアイスクライミングには向かない。特に左手に持っているおもちゃバイルは、徹底的に効かない。何度氷に打ちつけてもすぐにはずれ、恐くて体重をかけられないのだ。無理な体勢で早く足を上に上げたいときに、左手に持っているバイルが上手く氷にささらないと本当にきつい。ふくらはぎはパンパンに張ってくるし、右手はしびれてくる。もう落ちても良いかな、とまで思ってしまう。そうなるとますます上手くバイルは決まらない。「このやろー、入れ!」と思わず悲鳴に似た奇声を発する。そんな声を発しても状況は変化しないのだが・・。
 そんな風に「やー」とか「うー」とか奇声を発しながら雄滝をクリアした。滝の頂上に立ってみると、遠く蒲田川との出会い付近で通りかかった縦走パーティーが立ち止まってこちらを見ていた。「ああ、ああ。あんなとこ登ってるよ。たいへんだねえ」なんて言っているのだろうか。でもとにかくギャラリーがいると、登っている最中は必死の形相だったにも関わらず、「へん、どんなもんだ。俺はこの滝を登ったんだぜ」と口笛でも吹きながら言ってやりたくなる。基本的に僕は自意識過剰であるようだ。

 雄滝を登り切り、谷に向かってスパっと切れ落ちた右岸を古いフィックスロープをたよりにトラバースする。やがて我々のトレースが水流と同じ高さになると、ひとまず緊張がほどける。ここでザイルをはずし、久しぶりのまともな二足歩行を再開する。
 導入部から続いていた先行パーティーのトレースはこの辺で切れていた。きっと予想外の雄滝のアイスクライミングで面を食らって、敗退を決したのだろうと思う。

<滑滝を行く有持、青木>
 しかし、快適な二足歩行もつかの間だった。どうやら滝谷は我々をそう簡単に4尾根に近づけてくれないようだ。
 なんと、さらに2つの氷瀑が我々を待ちかまえていたのだ。共にそんなに高さもなく傾斜も緩いのだが、氷がしっかりしておらず(素人の僕にとってみれば)いやらしい。おまけに持っている物がおもちゃバイルであれば「またか・・・」というのが本音だった。それに2つのうちの滑滝と呼ばれる滝は記録にも明記してあるのだが(しかし記録には、雪に完全に埋まるので楽にクリアできると書いてある!)、もう一つの氷瀑は記録にはない。たぶん今年はそれまで雪があまり降っていなかったから、いつもなら雪に埋まるところが、むき出しの氷になってしまっているのだろう。滑滝の手前にはとてもきれいなスノーブリッジが残っていて、その下を意気揚々と進んでいたのに、突如現れた雪に埋まっていない滑滝の姿には少々唖然としてしまった。
 氷瀑を越えるのは普通に歩くよりは体力も時間も数倍消耗する。われわれが目指すべきスノーコルはまだずっと上で、体力と時間を最小限に切り詰めたいところだ。
 
 氷の壁の基部に立って改めて壁全体を見上げると、滑滝は傾斜も緩く雄滝に比べれば高さもなかった。これなら雄滝よりは簡単にクリアできる。でも、僕は次の瞬間思わず眉間にしわを寄せてしまった。
 有持さんがザイルを結ばずにに氷瀑を登り初めているではないか!僕はやにわに下を向き、自分のハーネスを確認する。
 ない。当たり前だけど、ザイル、結んでない。考えたくない事を考えるときには、野生的な本能で思考速度が落ちる。ええと、これで落ちたらどうなるんだ?うーん・・・。
 当然グランドフォールをする。下まで落ちるのだ。そしたらどうなる?この高さだし下は雪だから相当打ち所が悪くない限り死にはしないだろう。でも、すごく痛そうだ。 
 「適当に登ってきて良いぞ!」と、 有持さんから声がかかる。
 軽く言ってくれるよな。そりゃエキスパートの彼にしてみりゃこんな氷瀑など確保なしでも行けるんだろうけど、僕にとってはまさしく氷の壁以外の何物でもない。自分が落ちる光景を思い浮かべると、思わず足がすくんでしまう。
 有持さんが壁を半分くらい登ったところで青木さんが登りだした。フリーが得意な彼独特の静かなムーブでバイルを氷に打ちつけて登っていく。その打ち方は僕のそれとは正反対だった。手がしっかり決まらないと恐いという無意識からか、僕は「これでもか!」とバイルを振り回す。ぐっさり氷に刺さないと不安なのだ。 そんな僕のバイルの振り回し方を見て、有持さんはひとこと・・・、
 「原、氷は親の敵(かたき)じゃないんだからさあ・・・」と言った。
 青木さんはフリークライミングがうまいから登るときには確実に足に立ち込んで体重を掛け手の力はあまり使わない。バイルも打つと言うよりは引っかける感覚で登っている。この程度の傾斜なら、手はあくまでも足を動かすきっかけ程度で良いのだ。きっと僕とは比べ物にならないくらい少ない力で登っているのだろうなと思った。
 気合い一発、恐怖心を振り切って氷にバイルを打ちつけ登り始めた。とにかく上手くやること。確保がなかろうがなんだろうが、僕はこの氷壁をうまく登ればいいのだ。やるべき事は一つなのだ。

 二つの氷瀑を越えると谷の傾斜も一層急になってきた。先行パーティーのトレースはもうないから真っ白い雪面に足跡を付けていく。つもっているのは古い雪なのでだいぶ固まっており、ずぶずぶと足が埋まることはないが、一歩一歩足を踏み出すとくるぶしくらい、時には膝くらいまで埋まる。浅いとはいえ足が雪に埋まるのは非常に歩きにくい。体重を掛けるタイミングが合わなくなるのだ。何となく突っかかったような、足を取られるような感じがしてしまう。当然、足にたまる疲労も多くなってくる。
 そんな風に軽くラッセルしながら進むと、やがて滝谷の数々の枝沢が一気に集まる合流点にたどり着く。
 ここで時計を見るとなんともうPM3:00になっていた。そろそろ今日の行動について目途を立てなければならない。合流点で軽く行動食を食べながら今日の予定について作戦を練った。
 一つの選択肢として、ここで今日の行動を打ち切る。この辺りは少し広くなっていてテントも張れそうだ。快適に幕営できるだろう。でも、もし明日天気が崩れ雪が降ったら、ここは雪崩の巣だ。雪の量によっては数々の枝沢からの雪崩が一気に我々を襲うはず。そうなればテントもろとも流されて、オダブツは免れない。一番安全なのは今日中にC沢を詰めて4尾根にとりつき、スノーコルまで行くことだ。岩にとりついてしまえば雪崩の心配はない。あとは岩を登れるか登れないかだ。
 問題は時間と残された体力だった。予想していなかった氷瀑の登攀で思ったより時間がかかってしまい、午前4時に出発してもう午後3時を過ぎている。途中氷瀑の登攀も含めて、まる11時間以上歩きっぱなしだった。スノーコルまで、あとどれくらいなのだろうか。過労で動けなくなる前にたどり着けるのだろうか。しかしあまり迷っている時間はない。太陽は容赦なく落ちていく。
 「体力は平気か?」と有持さんが僕に聞く。
 「大丈夫です。ちょっと離されるかもしれないけど、まあ、ばてたら這ってでも上にあがりますよ」
 慣れないアイゼン、慣れない氷瀑の登攀でかなり体力は消耗していたが、気持ちだけは後手に回るまいと思う。だって、ここでの判断が、もしかしたら生死の分かれ目になるかもしれないのだ。なんとしてもスノーコルまであがらなくては。
 僕は、正面に再び姿を現した滝谷の象徴とも言うべきドームを見据えながら、重いザックを背負った。

 合流点では3つの大きな沢が3方から集まっており、それぞれがそう遠くない上部でさらに複雑に枝沢を集めている。また、そこは4尾根の末端が落ち込む基部になっているはずだった。我々は3つの沢のうち、一番右の沢と中央の大きな沢の間を仕切っている尾根の末端が4尾根であり、ということは中央の沢がc沢であると認識して、その沢を上に向かって詰めることにした。
 
 ーしかし、これが運命の分かれ道だったとは、その時誰も気付かなかったー。

 斜面は一層傾斜を増してきて、雪壁といった方がいいほどになってきた。有持さんとラッセルの先頭を交代しながら一歩一歩上に上がる。上にあがるにつれてますます傾斜は急になり、ピッケルのシャフトではなく、ピックを堅くなった雪面に刺すと丁度良いくらいくらい沢がせりあがってきた。
 聞こえるのは自分の呼吸の音と心臓の鼓動だけだ。ドク、ドクという、あからさまに心拍の増加を感じさせる鼓動が身体に響く。それに呼応して呼吸音も、はあ、はあと規則正しく口から漏れる。
 そんな風にして足を一歩一歩前に出して高度を稼いでいくのだが、一向に4尾根の取り付きは見えてこない。一体スノーコルは何処なのだろう。いつのまにか有持さんに離されている。岩ではフォローしてもらってばかりだからせめて歩くのだけは彼についていこうと思っているのに、もう僕の足はこれ以上早く前に出なくなっていた。青木さんは僕よりもさらに遅れを取っていた。
 そしてとうとう日が暮れようとしていた。辺りが薄暗い。このままでは夜間登攀になってしまう。光のない谷を歩くのは事故の元だ。
 さて、どうすればよいのだろう。スノーコルどころか、我々はまだ谷間から抜けていないのだ。

 「時間切れだな」と、有持さんが言った。時刻は午後5時15分。高度は2640mであった。
 沢を、抜けられなかった。
 とにかくビバーク場所を探さなくてはならない。最悪なことに我々はまだ沢の中にいる。つまり完全に安全な場所はない。沢を覆っているのは堅くなった古い雪とはいえ、傾斜はかなり急なのでテントの重みで崩れる可能性がないわけではない。さらに明日、もし天候が急変し、新雪がつもったら・・・。
 我々のすべき事は今の状況下での最善手を講じることだった。この周辺で一番安全にテントが張れそうな所は何処だ?テントは張れなくとも、雪崩の危険を最大限回避できて、せめてツェルトをかぶれそうな所は?
 無言で辺りを探る。岩のくぼみやわずかでも壁に段差がついているところがなんとか見つかれば・・・。
 あった。右岸(というかルンゼを仕切っている壁)の基部に、沢筋より少し高くなっている場所があった。比較的平らで沢の核心からは離れているので、見渡す限りでは一番安全な場所だった。
 ビバーク場所に決めた地点に、最後の力を振り絞ってはいあがり、ザックをおろす。陽が落ちてしまうので、急いでピッケルで雪面を平らにならし、テントを張る。岩壁にハーケンを打ちつけ、シュリンゲでテントを固定する。こうしておけば、少しくらいの雪崩なら飛ばされはしないはずだ。

 極寒の世界。切り立った岩影の、そこが我々の寝床だった。



<壁にくくり付けたテント>


 ドロドロに疲れはてていた身体は、翌明け方の冷え込みに襲われるまで目を覚ますことはなかった。まだ辺りは暗く、まどろみの中で寒さを必死にこらえていると、腕時計のアラームが午前4時30分を告げた。テントをポツポツとたたく音が聞こえている。そういえば寝ている最中にも、かすかに聞こえていた音だ。なんの音だろう?
 雪が降っていた。外は雪だ。その音は雪がテントをたたく音だったのだ。
 最悪なことに、新雪が積もったのだ。
 どのくらい積もったのだろうか。不安がよぎる。つもった量によれば、このまま谷の中に閉じこめられる可能性は大いにある。雪崩が起きるかも知れない。
 テントの外に顔を出すと、雪はそんなに激しく降っているわけではなかった。ただ、夜半から降り始めたであろう雪は、昨日つけた我々のラッセルの後を、まるで何事もなかったかのように消し去っていた。

 とりあえず湯を沸かし軽い朝食を食べ、様子を見る。我々と下界の文明社会とを唯一つなぐ短波ラジオに耳をかたむけ、天気図を頭の中に描く。
 低気圧が九州南方にあり速いスピードで東進している。太平洋側をなめる低気圧で、いわゆる西高東低の冬型をもたらす物だ。一瞬背筋がぞっとする。しかし、速度が早いこと、緯度が低いこと、上空にあまり強い寒気は入り込んでいないことなどを考えると、穂高ではあまり大荒れにはならなそうだ、と有持さんが分析した。
 「c沢、雪崩起きないかな。もし降雪量が多いようだったら動けますかね。動けなかったらどれくらい停滞を食らうんだろう・・・」
 ここはまだ谷の中だ。で、新雪がつもった。その量は少ないとはいえ、僕の口からは思わず不安な本心がもれた。こんな切り立った谷の合間で、救助隊など来れるはずもない。
 「ばか、そんなに心配するなよ。こんな雪、へでもないよ」
 と、有持さんは笑いながら言った。
 きっと彼は、失敗することなど考えないのだろう。

 最初は小降りだった雪が、段々と横殴りになってきた。降雪中のルンゼ登攀は自殺行為なので、一日停滞することになった。

 外は吹雪。滝谷のまっただ中でビバーク中に、やることなどありはしない。トランプでもあればなあ、といっても、とことん軽量化をしてきたのだからそんな物あるわけはない。つまり、寝るしかない。横殴りになった雪がテントをたたく音をせいぜい子守歌にして、シュラフにくるまることにしよう。
 朝飯を食ったあと、僕らはまたおもむろに眠り始めた。

 厳冬期の山行では「眠れる」ということも重要な能力のうちの一つだ。それは容易に想像がつくだろうが、冷凍庫なみの寒さの中で眠るというのは実に難しい。テントの内側が氷付く極寒の世界で寝るためには、まず寒さをこらえなくてはならない。寒さをこらえるためには、なんとか温もりを確保しようと、あがく。例えば、悴む足先をなんとかテント隅に転がっているザックの下にもぐらせたり、膝を折って身体を丸めて熱が寝袋の中でこもるようにしたり、シュラフの中でもぞもぞやりながらささやかな工夫を施す。そんなことをしても、しばらくすると再び冷え込んでくるので状況に変化はないのだが、ぶーぶー文句を言っても気温が上がる訳ではないのでせめてこの様な工夫をこらすしかない。あとはひたすら耐えるだけだ。
 どんなあがきを使っても良いから上手く寒さをこらえて上手く眠ること。それができないと長い山行では疲れがたまって遭難の元になる。眠れるということは非常に重要な能力の一つなのだ。

 深い眠りが一つおとずれ、目が覚めると昼時になっていた。誰からともなくむっくり起きだし、軽くおやつ程度の昼食を取る。
 ふとテント内を見回すと、テントの一側面に雪が溜まり、その重みで側面が内側に垂れ下がってきている。たぶん岩壁の上部にある小さなルンゼからなだれた雪がたまって、のしかかっているのだ。量は少ないし、ルンゼの大きさからいってテントが飛ばされるほどの大雪崩になることはないだろう。でも、あまり気持ちのいい物ではなかった。
 量が少ないとはいえこのままつもらせておいたらテントが壊れかねないので、とりあえず除雪をする。まだ量が少ないので手袋をつけた手でひとしきり雪を払うだけで事は足りた。雪がある程度つもったら交代で外に出て雪を払うことにした。

 そんな風に、寝る、食う、雪を払う、で、滝谷のまっただ中の、長い一日を過ごした。


<小ルンゼを行く原と青木>



 翌日の朝、かろうじて雪は小降りになった。とはいえ、まだ谷は深い霧と風に包まれていた。ラジオの天気予報では午前中には低気圧が抜けきって、次にやってきている移動性高気圧に覆われるということだった。しかし、天気の移り変わりが早く、夕方には低気圧が太平洋岸をなめるように近付き、再び冬型に戻るという。谷に閉じこめられたままこれ以上雪が降れば、我々にとってとどめの一撃になりかねない。今日がチャンスだ。というより、今日しかない。なんとしても日が落ちるまでに壁を抜けてしまわなければ。
 軽く朝食を済ませてテントを出る。前夜、何度か雪かきをしたのに、またテントは雪に埋もれている。
 「まあ、剣(剣岳)のドカ雪に比べればかわいいものだよ。あんときゃ、30分ごとに外に出て雪かきしたものなあ。じゃなきゃあっというまにテントが埋もれるんだから」と、有持さんが余裕で言った。
 僕も余裕の笑みを浮かべて「へえー」と返事をした。返事をするとすぐ、余裕の笑みは寒さにひきつった笑いとなり、ふるえながら自分の装備の準備をした。
  僕は厳冬下での行動がやはり2人に比べて遅い。僕がかじかんだ手を必死に動かしてハーネスをつけているときに、2人はすでに自分の準備を終えてテントをたたみにかかっている。手際よくテントを確保していたシュリンゲをはずし岩に打ちつけたハーケンをはずす有持さんを見ていると、あせる。自分の事もままならないなんて、なんと歯がゆいことか。なかなか締め上げられないハーネスに「くそう」と悪態をつく。でも、苛つけば苛つくほどハーネスは締まらない。

 結局、ひとしきり降り続いた雪はわれわれの退路を断った。雪崩の餌食になりたくなければもう下には下れない。この谷の深みから抜け出すには上に行くしかなかった。
 テントをたたみ、様子を見ながら少し下ったc沢の沢筋に下りる。我々が2日前につけたラッセルの後は、当然の事ながら跡形もなくなっている。ずぶり、ずぶりと一歩ずつ新雪に足をつっこみ、腿から腰までうまりながら前に進む。沢の中は思ったより雪が深かった。
 傾斜の急なところでは、腰から胸まで雪で埋もれる。むやみにもがけば余計足場が崩れる。「膝で固めて足場を作りながら進むんだよ」と言われるのだが、慣れない僕はこれが上手く行かない。前を行く有持さんがある程度固めているのに、上手く足を運ぶことが出来ないのだ。有持さんとの差はどんどん広がり、後ろの青木さんとの差はどんどん詰まる。人の重みでなだれることを避けるために、間隔は開けなければいけない。なのに、詰まってしまう。
 「原君、もっと早く進めない?なだれちゃうよ」
 丁度、右岸から左岸へ谷を横切る途中だった。こういうときが一番危ない。急な沢筋をトラバースするときが、一番雪崩を引き起こす危険が高いのだ。そして、沢全体が崩れたら、おわり、である。
 僕だってそんなことは百も承知なのだ。でも、アイゼンをはいている時間が圧倒的に足りない僕には、どうも上手く行かない。足を前に出すという至極当たり前の動作が、何とも上手く行かないのだ。
 はいはい、がんばりますよ。今度来るときにはもっと上手くやるから、今日の所はこれで勘弁してよ・・
 と、言えたらどんなに良かったことか。でも、沢全体が崩れていく世にも恐ろしい光景を想像すると、そんなことも言ってられない。できませーん、と叫んでひっくり返れば誰かが前に進めてくれるわけでもない。「経験がないから・・」なんて言ってられないのだ。自分の命は自分で守るのだ。

 ビバークポイントから上を見ると、沢の左岸の切り立った岩壁の中に、さらに小さなルンゼが雪壁となって上部へと続いていた。たぶんその雪壁を詰めればスノーコルにたどり着くのだろうと、当初から我々は思っていた。
 そうして当たりをつけたとおりに沢を横切り、左岸の小ルンゼの雪壁に取り付いた。小ルンゼに這いあがると傾斜が幾分緩やかになり、雪の量も膝くらいになる。ありがたいことに若干だが歩きやすくなった。
 小ルンゼは岩壁の後ろ側に回り込む様にのびていた。たぶん、その裏側にスノーコルがあるのだろう。
 僕らは小ルンゼを必死になって詰めた。早く岩に取り付いてしまいたい。ラッセルもなく雪崩の心配もない岩に。
 しかし、冬の滝谷はまたしても僕らを打ちのめした。岩壁を回り込んで僕らの視界に入ってきた物は、なんと氷瀑だった。ルンゼが続いていたのだ。ということは、スノーコルは何処にあるのだ?
 高度計の高度はすでにスノーコルの標高に近付いている。記録ではスノーコルへの最後の突き上げは急雪壁のはずで、こんな氷瀑などないはずだった。
 おかしい、取り付くところを間違えたのだろうか?
 いやそんなはずはなかった。あれ以上c沢を詰めれば、左右どちらの尾根にもはいあがれなくなる。それに拡大した2万5千分の1図で、周囲の尾根と谷の位置を昨日から確認していたのだ。高度計で現在の標高も確認しながらきた。間違いはないはずなのに。
 不安がよぎる。この小ルンゼの左岸の岩壁の上は、4尾根ではないのだろうか。もし違っていたら、この先は全く未知の壁だ。ルートがあるのかどうかも分からない。抜けられるのだろうか。

 「ザイルつないで」と、有持さんが言った。つまりこの氷瀑を越えるということだった。
 まだ決定的ではないにせよ、たぶん我々は本来のルートをはずした。それは、有持さんも、青木さんも、僕もしっかり意識していた。でも、誰もそれを口には出さなかった。なぜなら、もう下には下れないからだ。新雪がここまでつもった滝谷をクライムダウンするなど、死を選択するような物だ。上に行くしかない。せめてその尾根が何であろうと、今我々の立つ小ルンゼの左岸に切り立つ稜線に這いあがる術を探すしかないのだ。
 追いつめられたわけではない。むしろ僕らが今すべきことが明確になったというべきだ。ならば、なにも動じることはない。
 3人とも淡々とザイルをつないだ。そして氷瀑にダブルアックスをかけ、その向こう側を目指した。  

 氷瀑は登ってみれば大したことはなかった。初日の雄滝の登攀に比べれば、高度感はこっちの方があるけれど(なにせ、下は奈落の底だ)傾斜は緩やかで、むしろ腰・胸のラッセルに比べたら楽な物だった。
 氷瀑を越えると、その上は一層傾斜を増した急雪壁が続いていた。
 急雪壁の谷間はしばしば谷底から氷風が吹き上げる。雪煙を舞わせ、我々の体温のみならず視界と集中力を奪う。
 天気が悪いわけではなかった。小ルンゼに取り付いた頃からガスが切れて、穂高の空は晴れていたのだ。しかし天気予報どおり空の動きが早い。その早い空の動きに伴って、たまに雪煙付きの風が吹き付ける。ビレー中にそんな風にたたかれると、本当に凍るかと思う。
 その小ルンゼはもはや傾斜が50〜60度位はある急雪壁となっており、いつのまにか深い新雪は姿を消し堅く締まった雪壁となり、もはやアイゼンの前爪のみが足がかりであった。ビレーポイントでも、アイゼンで雪壁を何回もキックをしてステップを切らないとしっかりした足場を作ることが出来ない。ずっとダブルアックスで雪壁を登ってきて、ふくらはぎがパンパンの状態でビレーポイントにやっとたどり着き、早くステップを切って休みたいと思っているときに凍った風に吹かれると、おい!勘弁してくれ!と思わず叫びたくなってしまう。ほんと、勘弁してよ、なのだ。
 変わりやすい天気を裏付けるように、遠くに連なる峰峰のスカイライン上にはあやしげな雲がうずくまっていた。あれがやってきたら空は相当荒れそうだ。たぶん少なくとも明日には、また天気が変わりそうだった。本当に、今日しかないのだなと思った。

 我々の正面にまたもや氷瀑が現れた。今度の氷瀑はさっきのより少しばかり大きい。高さは10から15メートルくらいだろう。しかし、右側のカンテを越えて巻けば上に抜けられそうだった。なんと言っても我々はアイスハーケンひとつ持っていないのだ。巻いた方が無難だ。巻くことにしよう。
 この氷瀑は有持さんが「昇天の滝」と名付けた。その通りだよ、と心の底から思った。これ以上ない銘名である。
 
 カンテを巻いて氷瀑の上部に出るとそこは大雪壁帯だった。
 ここに積もった雪が一気になだれ落ちたらと考えると、これ以上寒くなりたくないのに背筋がぞっとする思いだった。


<最後の雪壁とトレース>
 大雪壁帯に出たということは、ルートファインディングに悩むということだった。その大雪壁帯には数本の小ルンゼが流れ込んでおり、岩に取り付かずこのままルンゼを詰めるのならそのうちのどれかに的を絞らなければならない。そしてその選択を誤ってはならない。万が一、詰めたルンゼが袋小路に陥ったらクライムダウンするか全く未踏の岩壁を登って上に突き抜けるしかない。
 そうなったらそうなっただな、と思った。リードをやれと言われているわけではない。有持さんならドリルはないけどしっかりした支点を作るだろうし、岩を見る目もある。
 ふと見上げると、大雪壁帯の上部に流れ込んでいる数本のルンゼのうち、上部のスカイラインにまっすぐにのびた小ルンゼがあった。最後のつめは雪庇が張り出しており、小ルンゼはまるでその雪庇で頭打ちにされているようだった。その向こうは稜線だろうか。 あそこを行くのかな?と、ボソリとつぶやいた。
 「そうだなあ、たぶんあの向こうが稜線だし、岩に取り付いて上に詰めるよりは、この際最後までルンゼを詰めるんじゃないかな。雪崩にも遭ってないしな」と、青木さんが言った。
 「でも、あの小ルンゼの最上部、雪庇ですよね。崩れないかなあ」
 当然、雪庇が崩れたら、万事休す、である。
 「突き抜けるしかないね。雪庇の薄いところをねらって向こう側へさ。じゃなきゃこの壁を抜けられないのだから」
 すでにトップで上に向かっている有持さんはルートファインディングをしながら進み、どうやら青木さんと僕の予想どおり、その小ルンゼを突き上げるルートを取るようだった。有持さんは狙いを付けたその小ルンゼの基部を目指していた。
 有持さんの行方を追いつつこれから我々が向かうべきルートを改めて観察すると、本当に稜線に出る手前で雪庇が張り出しており、行く手を拒んでいる。その小ルンゼの突き上げも、最後は全くの垂壁に見える。
 小ルンゼの基部に有持さんがビレーポイントを作り、青木さんと僕はそこを目指した。
 急雪壁のダブルアックスも大分慣れてきた。けれど、これからが核心なのだ。気を抜くわけには行かない。
 小ルンゼの基部まで行くと、雪庇は本当に屋根のように張り出していた。突き抜ける際にあれが崩れたらたぶん命はない。奈落の底にまっ逆さまだろう。
 あと一歩なのに、それを越えれば壁を抜けられるのに、最後の砦はあまりにも大きく見えた。そしてそう見えてしまうのは、そろそろ体力も消耗し始め、身体が疲労を感じている証拠でもあった。体力が落ちてくると精神面にも影響をきたすものだ。だからこそ、余計精神を研ぎ澄まさなくてはならない。研ぎ澄まされた精神で、徒労に襲われた身体をしっかりと律していかなければ。それが出来なければ足下をふらつかせて滑落し、滝谷の奥底に沈むしかない。
 ビレーポイントに僕が到着するとまもなく青木さんもやってきた。
 急斜面にステップを切ってささやかな足場を作る。
 不安定な場所の、しかもマイナス18度の極寒の中では、カラビナにザイルを通すのもままならない。明らかに動きの悪い凍り付いた手で、やっとの思いでマストノットをかけ、セルフビレーをとる。全くこの不手際なザイル捌きといい、自分の経験のなさを思い知らされるようだった。
 急斜面上なので3人一度にビレーポイントの岩に張り付くことは出来ず、青木さんは一段下がったところにステップを切って足場を作った。青木さんもセルフビレーを取ると、有持さんが我々のビレーを解除し、ザイルを青木さんに渡す。ビレーポイントでのいつもの儀式も、これから最後の(それを越えれば壁を抜けられる!)ピッチに向かうと思うと、なんだか特別であるような気になる。このザイルが3人を結んでいるんだなあ、と、再確認する思いだった。

 「それじゃあいくぞ」
 と、有持さんが声を掛け、ダブルアックスで急雪壁に挑んでいった。
 最後の急雪壁の下部はかなりブルーアイスが露出していて硬そうだった。すばやい身のこなしの有持さんは、それでも流れるように斜面を登っていく。昨日からずっとリードをやっていて、しかもこんな苛酷な登攀になっているのに、精神も身体も全然動じていない様だった。やっぱり彼は化け物だな、と思った。

 しかしアクシデントは突然やってくる。
 それまで有持さんが登るときは僕と青木さんがほぼ交互にビレーヤーをやっていた。そして最後のワンピッチは青木さんがビレーヤーとなった。
 「ザイル!」と、有持さんが怒鳴る。
 有持さんが丁度15メートルくらい登ったところだった。青木さんがビレーをしているエイト環の所でザイルがキンクしている。こぶが出来てしまってそれがエイト環の輪を通らず、ザイルが流れないのだ。
 「ザイル!早く出せ!!」
 生死を分ける場面であれば、怒号をあげるのも当然だった。
 マイナス20度近くの極寒の中、しかも風が吹き上げており体感温度はさらに低いであろう状況下では、いつもの動作がいつも通りに出来ない。ヨリがかかったザイルを2本さばいてビレーをするという動作も然りで、分厚い手袋に阻まれて器用に指を動かすことが出来ないということもあり、なかなか難しいのだ。
 ザイルは完璧にキンクしてしまってエイト環の輪を通らなくなっていた。当然、有持さんが上に上がろうとすると、キンクした結び目がエイト環に引っかかり、有持さんを下に引っ張る形になる。足をあげようとする動作の最中にこれをやられると、不安定なムーブの最中であれば下手をすると落ちる。
 「こんな所で何をやっているんだよ!!」もう有持さんは本気で怒っていた。
 あわてると余計キンクしたザイルをさばけなくなる。そしてさらに焦る。
 「やばい、ほどけないよ・・・」
 青木さんがあせりの中でつぶやく。有持さんが取り付いているところは斜度が70度から80度くらいはある急雪壁なのだ。早く解放してやらなくてはならない。
 「原君、手伝ってよ!!」傍観していた僕に、業を煮やして青木さんが今度は怒鳴る。僕は急いで青木さんの所までクライムダウンし、2人がかりでキンクしたザイルをほどきにかかった。
 上を見ると有持さんが少しクライムダウンし左の岩壁にハーケンを打っていた。
 さすがだった。見事な判断力と迅速な行動。クライムダウンすればテンションが解け、ザイルに余裕が出来るからほどけやすくなる。さらに、急雪壁にずっとへばりついて足に疲労がたまっては墜落の元だ。ランニングを打った方が危険は最小限に回避出来る。クライムダウンするのがおっくうだからといってキンクしたザイルを傍観していた僕と違って、有持さんは今すべき最善手をすばやく講じていた。岩に取り付いてる最中で僕よりも余裕がない状態なのに。
 2人がかりでキンクを直し、やっとザイルをが流れるようになった。
 「スミマセンでした。ザイルokです」
 上にいる有持さんに声を掛ける。すると有持さんは無言でまた黙々と登り始めた。一瞬にして彼の集中力は壁を抜けることに傾けられ、今あった出来事などにはなにも動じていないようだった。

 有持さんは最後の雪庇に近付いていた。この最上部は斜度が大体80度以上あり、雪庇の基部は限りなく垂直に近い。
 ここで有持さんが墜落したら、左側の壁に打ったハーケンもビレーポイントも確実に吹っ飛ぶだろう。なにせ、今僕らがいる支点も、露出した岩のリスにハーケンをかろうじて打ってある程度の物なのだから。有持さんが落ちたら3人ともおしまい、ジ・エンドである。
 雪庇の張り出しは約1.5mで、トンネルを掘るには相当な時間と労力が必要だった。でも、降りることが出来ない以上、この雪庇を突き抜けなければならない。雪庇を良く眺めると、右に5メートルほどトラバースしたところに雪庇がくびれている箇所があった。そこは雪庇の厚さはそんなでもなさそうだし、貫くのにも時間はかからないだろう。しかし、ほぼ垂直の雪庇の真下をトラバースするのは非常に悪い。
 「どうするんですかねえ」と青木さんに問いかけた。
 「そうだなあ、くびれている部分を貫くんじゃないかな。雪庇の真ん中は相当深そうだしな」
 「あの向こう側、どうなっているんですかね」
 「・・・たぶん、涸沢岳の西尾根だろうとおもうけど・・」
 有持さんは結局トラバースを始めた。ゆっくり、ゆっくり、アイゼンの前爪だけで立ち込みながら右へ移動していく。雪壁と違って、雪庇はとても柔らかそうだった。だから余計恐い。足下が一気に崩れる可能性が高いのだ。
 長い時間を掛けて雪庇のくびれまでたどり着き、有持さんは壁を切り崩しにかかった。ピッケルのブレードを使って少しづつ雪をかいていく。不安定な体制でバランスをとりつつの作業は、見るからに危険だった。それでも確実に雪庇は崩れていった。

 向こう側の空が見えた瞬間、そこからは傾きかけた太陽からの光が差し込んできた。
 そして次に、有持さんの身体がぐっと持ち上がり、雪庇を崩して作った窓を乗り越え、壁を突き抜けた。
 「ヒョッー!!」有持さん独特の歓喜の奇声があがった。
 壁を抜けた。有持さんは壁の向こう側にいる。
 そして次は僕の番だ。

 ザイルアップが済み、「良いぞ!」と言う有持さんの合図を受けて僕は自分のセルフビレーをはずした。そして、何処からどう見ても初心者そのものの60センチピッケルと8000円のおもちゃバイルのストラップに手を通しシャフトを握りしめた。全く、こんな道具でよくもここまでたどり着けたなと思った。
 そして壁を見上げる。ふーっと息を吐く。有持さんが突き抜けた雪庇のくびれが丁度窓のようになっており、そこから暖かみのある光が射し込んでいる。
 滝谷は北側に面していてしかも深く切れ込んだ谷間なので、冬の低い太陽ではほとんど光は射し込まない。日の光は全て穂高の稜線に遮られてしまい、まさに凍てついた氷の世界を形成している。そんな谷間にまる3日もいると、雪庇の窓から射し込む光の筋が心底暖かく見える。どんな暖房器具よりも、どんな厚手のコートよりも、どんなにあついお茶よりも、暖かく感じる。
 目指すのは、その向こうに広がる領域。ぴーんと張りつめた緊張の糸を、ゆるめることの出来る暖かい領域だ。
 僕は「さて」と心の中でつぶやいて、ピッケルを壁に突き刺した。

 最後の急雪壁は見た目通り硬かった。アイゼンの前爪がよく効くのは良いのだが、ピッケルを打ち込みすぎると抜くのに苦労する。
 下部の壁をリズム良く登り、左側の壁に一本打ったランニングのカラビナをはずす。
 「青木さんのもはずしちゃっていいですか」と僕は青木さんに声をかけ、良いよと言う返事を聞いて、青木さんのザイルのランニングも解いた。
 残ったハーケンをみて、さて、どう抜こうか、と考えていると、少し間隔をあけて登ってきた青木さんが「いいよ、俺が抜くから」と言ってくれた。僕は青木さんの言葉に喜んで甘えることにして、ハーケンを抜かずにその場を離れた。
 リズムを崩さないように一歩一歩アイゼンの前爪を雪壁にかけていく。しかし、確実に疲労はたまっているようだった。ふくらはぎはすぐにパンパンになるし、ピッケルを握る手は、握力が落ちているのかすぐにだるくなってしまう。さらに急雪壁では手の甲が常に雪面に押しつけられた形になるので、手袋をしているとはいえいい加減感覚がなくなってくる。体力は確実に消耗していた。
 急に足下が柔らかくなった。と同時に目の前の雪面が急に起きあがった。
 雪庇の基部にたどり着いたのだ。
 有持さんのトレースはこの辺から雪の中深く埋もれ、右へとトラバースしている。その先に壁の向こう側へ抜ける、雪庇の「窓」がある。
 崩れそうな足下に気を使いながら、一歩一歩足を横へ踏み出す。足下の雪は柔らかく、本当に崩れそうだった。
 一歩一歩、慎重に慎重に、光が射し込む窓に向かってトラバースを続ける。せり立った雪庇は限りなく垂直に近く、その壁は柔らかいとはいえ上体のさばきかたが難しい。せめてバランスを崩しません様にと、心の中で祈るしかなかった。

<最後の雪壁を突き抜けた直後の原>
 太陽が見えた。窓にたどり着いた時、向こう側に傾きかけた太陽が暖かい光を放っていた。これを越えれば稜線に出られるのだ。
 しかし窓の高さは思いのほか高く、僕の首くらいに位置していた。これを越さなければならない。足を一歩踏みあげようとして雪庇にアイゼンをさしこむ。しかし、雪が柔らかくどんどん崩れてしまう。体重を掛けられるようなステップが切れないのだ。
 それでも強引に身体を上に上げようとして体重を掛けたときだった。右足の下にある雪が崩れ、がくんとからだがすべった。
 「うわっ!落ちる!」
 思わず声が出る。幸い左足に体重の大半は残っていたのでそれで済んだが、この一発で精神的に食らってしまった。恐くて足に体重を掛けられないのだ。
 「何やってんだよ。そんなところで!」
 すぐ向こう側でスタンディングアックスビレーをしている有持さんが怒鳴る。
 「有持さん、落ちてもいいですか」
 思わず弱音を吐いた。
 「ばか!なにいってんだ!あとすこしだろ、はいあがれ!」
 そんなこといっても、足下がどんどん崩れていくのだからしょうがない。
 「シャフトをさしこんで、手に体重を掛けてみろ」
 なるほど足がダメなら手であがれば良いのだ。僕は腕を窓から大きく伸ばしてピッケルを刺し、腕に最後の力を込めて身体をあげた。
 上半身が窓を乗越した時、「抜けた!」と思った。後はもうがむしゃらに身体を這いあげた。
 壁を抜けた。
 そこには本当に暖かい光があった。全く陽のあたらない滝谷に比べて稜線上は天国のようだった。太陽の光がこれ程までに暖かく、ありがたみのある物だとは思わなかった。
 「・・やった・・」
 それはねじり出すような声だった。心が大きく動いた瞬間だった。
 自然と涙がこぼれる。そして有持さんと肩を抱き合う。3番手の青木さんも、すぐに窓を越えてきた。三人でがっちり手を握りあった。
 「良くやったよ、お前ら・・・」
 有持さんの目からも涙がにじみ出ていた。百戦錬磨の彼が感動で涙ぐむとは・・・。彼にとってこの山行がいかに苛酷だったかを物語る様だった。

 傾きかけた陽に目を細めた。
 暖かい。
 それは本当に肌が温度を感じていたのだ。厚手のウエアを通して、陽の光そのものから肌が直に温度を感じていた。大げさだけど、生きていて良かったと思った。

<有持さんと原>


 結局その稜線は涸沢岳の西尾根だった。我々はやはり分岐でc沢とd沢を勘違いして登ってしまったのだ。我々が4尾根だと思っていたのは、数から言えばいわゆる5尾根で、北穂よりも随分南側に出てしまった。
 このルンゼルートは「昇天ルンゼ」と、名付けられた。天国に登るような思いで登攀したので、有持さんがこう名付けたのだ。「昇天の滝」とならんで、なかなかの銘名である。








<最後の雪壁の全景。黄色のラインが我々のトレース>
















 1997年の12月31日は我々と同じ山屋が剣岳と北岳で遭難し、亡くなっている。僕らはそのニュースを、下山途中の涸沢岳西尾根の、2400M付近の年越し中のテントの中で、ラジオを通じて聞いた。僕らの山行もかなりきわどかったし、一歩間違えばニュースに流れていたのは僕らの方だったかもしれない。とても人事だとは思えなかった。
 それでも、また登ろうと思う。あんなにつらい思いをしても、死にそうなくらい凍えても、不思議なことにまた登らなくてはと思うのだ。大晦日なんて、こたつにくるまってお茶でもすすりながら紅白を見ていた方がよっぽど楽だろうけど、そうはいかない。きっと来年もどこかの雪の中で年を越すのだろう。

 新穂高までの下山途中、これでアイゼンをはいている時間がちょっと長くなったなあ、と思った。

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