Live History #07 1980
DISCOVERY

【コラム】 羅針盤

 1980年、再発見をテーマに掲げ、新しいクルーで再出発を果たしたゴダイゴ号。 その操舵室の羅針盤は、進路をどの方角へ取れと指し示していたのだろうか? 天空にきらめくその星は、どの地平を目指せと教えてくれていたのだろうか?

 未曾有の大ブレイクを経験した1979年。 莫大な収益が、「ゴダイゴ」というスタッフも含めた大きな制作集団にはもたらされたわけである。 1978年は2億足らずだったレコードの総売上が1979年にはいきなり51億3000万円とミュージシャン部門のトップクラスに踊り出た。 その他にも1本1000万円は下らなかったと言われるCMにも多数出演し、年間100本ものコンサートを消化、さらに月平均10本のテレビ出演をこなしている(もっともTV出演は大した稼ぎにならず、「Monkey Magic」の蜘蛛の糸で赤字だったとタケカワは冗談まじりに語っている)。

 そうして、その資金をフル活用して、海外での様々なイベントを企てたのがこの1980年であった。 ネパールでのコンサート、皆既日食撮影のアフリカ・ロケ、映画『シルクロード』のためのインド、トルコ、ギリシャ、そしてニューヨークと巡る旅(最終的には映画としては完成せず、LD『Godiego on Silk Road』として発売)。
 また同年10月には、ロサンゼルスのシヴィック・センターで開催された市制200周年記念イベントに渡辺香津美、チャック・ベリーらと共に参加。 そして同じく10月の中国天津市での日中友好音楽祭へ参加し中国大陸で初のロック・コンサートを成功させている。

 これらはプロデューサーのジョニー野村の発案によるところが大きいだろう。 ゴダイゴをプロデュースする以前にも東京キッドブラザーズのニューヨーク公演に関わったり、「フラワー・トラベリング・バンド」のトロント・ニューヨーク公演をサポートしたり、一貫して“文化の輸出”に強い意志・意欲を持って臨んで来たジョニー野村らしい企てだ。
 いろんな場所を彼が飛び回ってはそういった話を持って来たということが当時の雑誌記事などでも多く語られている。 かといって、けっして進路を限定するのではなく “常に視野が狭くならないように、視野を広げるという方向のつけ方”とタケカワは語り、音楽評論家の市川清師は“橋の思想”と喩えている。
 もともと国際的に通用するバンドを目標にしてやってきた彼らである。 その方向性は間違っていなかったであろう。 しかし、その手法、タイミングにいささかの難があったのかもしれない(上記のようなプロジェクトを、ジョニー野村が“ゴダイゴ”というプロジェクトチームで一元的に管理しようとする余り、その後のプロモーションに支障を来たしたという話はSTUDIO-Gの「ジョニー野村」の項でも考証されているのでご参照を)。

 日本で、あっという間にNo.1の地位を築き上げてしまった彼らには、もはや国内で為すべきことはないように思えたのであろう。 何をやっても売れるし、ゴダイゴに対する要求も曲そのものではなく、その“存在”になってしまっては、バカらしくなってしまうのも止む無しであろう。

 しかし、一方で、全国的人気を博したとはいえ、“アイドル”、“お子様向け”というイメージが払拭しきれず、辛口音楽評論家や、購買力のあった10代後半から20代のファン(とくに男性ファン)からの確固たる支持を獲得できていなかったことも事実。
 本来ならば、ゴダイゴの楽曲は、小学生や女子中学生を喜ばせるだけのものではなく、本当に音楽に興味あるマニアックなファンにも支持されてしかるべきクオリティの高いものである。 そのテーマの奥深さ、メロディやアレンジのオリジナリティ、高い演奏レベルなどから言って、本来は、もっと音楽通が嗜好してしかるべき楽曲が数多く制作されている。 事実、表面だけでなく、その奥の奥まで彼らを知り得たファンは、いまだもってして彼らの音楽の探求に余念がない。 また、音楽業界にも、ゴダイゴをリスペクトするアーティストは大勢いる。
 しかし、残念なことに、当時、制作サイドが意識したのが、一般のミーハーなファンであったようだし(そう見えた)、TVでの演出や、その売り方も、極めて明るくポップで、人当たりのいいアイドル・グループといった印象のプロモートを心掛けていたとしか思えないものであった。

 “ゴダイゴはロックを、その巧みな演奏技術とアレンジで、ポップなオブラートに包んで、良質の音楽としてお茶の間に届けた”と、よく言われる。 変拍子や転調を駆使した複雑な曲構成を、極めて判りやすいアレンジで誰の耳にも馴染むように聞かせた。 判りやすく伝えること、ゴダイゴ・サウンドをあらゆる場所に広めることを念頭にやってきた。 そのおかげで、当時、小学生やまだ中学入りたての我々は、彼らの音楽と出会えた訳なので、そのこと自体を非難するのは、痛し痒しなのである。
 しかし敢えて言うなら、その上質なオブラートが、あまりにも甘く口当たりが良すぎたため、辛党の諸兄にはその中に詰まった、本当に骨のあるロックを味わうところまで行かなかったのではなかろうか。 残念な話である。
 まさにその頃に出されたとある雑誌の記事は、以下の予想を立てていた。

「ゴダイゴを支持する層は、小学生から中学、高校の女性が大半。 これらの層は、いちばん熱しやすく冷めやすい。 彼らの人気は短期間に終わるであろう」

 もう少し、地道にしっかりと国内での地盤を固める作業が、当時のゴダイゴには必要だったのではないかと思う。 もっともゴダイゴにとっても不運なことは、タケカワと人気を二分していたとされるスティーブ・フォックスの脱退が、ちょうどこの時期に重なったこと。 このメンバー変更は人気の面でかなりのインパクトを持って作用していたというのは、当時ファンを続ける身にも実感として肌で感じていたことでもあった。
 そしてそこに追い討ちをかけるような偉大なる長期ロードは、当時のファンに、“置いていかれた”という気持ちを残したと言えなくはないと思う。 すーっと熱の冷めるような感覚を味わったファンも少なくなかったのではないだろうか。 
 とはいえ、ゴダイゴ自身、制作サイドにしても、もはや普通の平衡感覚を失いつつあったのは想像に難くない。 出す曲がことごとくヒットし、あらゆるメディアを、あっという間に、席巻してしまったわけである。 もはや尋常な感覚を持てというほうが無理な注文だったであろう。
 また売れた時に何に投資をしたかというところで、メンバーそれぞれが必ずしも音楽ではなかったことで、調子が狂い始めたということも後年ミッキー吉野は語っている(「ロック大系」)。

 そして、そういったメンバー間の意識のズレのみならず、メジャーになったグループにありがちなことだが、自分たちが本当にやりたい音楽と、世間やファンの期待との間にも大きなズレが、この時すでに生じ始めていたのかもしれない。
 シングル・リリース曲についてミッキー吉野が「はるかな旅へ」のA面とB面を入れ替えておけばと後に悔やんだり、「銀河鉄道999」の後のラインナップとして「ホーリー&ブライト」とするべきではなかったと語ったりしている。 
 “ぼくたちはどこへ行くのだろう?”などと言っている場合ではなく、“新しい朝を迎えようと”方向転換するべき時が、“999”に乗る前であったというのは、なんとも皮肉な話だ (とは今となって言える、ファンの勝手な戯言なのでご容赦願いたい)。

 まだまだファンの熱い大歓声が飛び交い、メディアでの特集が後を絶たなかった1980年。 「Return To Africa」で原点を見直し、チャレンジングな曲想で船出した80年代であったが、この時すでにゴダイゴ号は、自分たちではコントロールの効かない大きな潮流に乗ってしまっていたのかもしれない。




参考文献:



■「僕は子供みたいになるのが好きなんだ」(タケカワユキヒデ) interview by 市川清師
■「”50億円戦争”の熾烈な舞台裏」(「女性セブン」1980年5月8日≪18号≫)

■「永遠のオデュッセイア」(徳間書房)
『日本ロック大系1957-1979[下]』(月刊『ON STAGE』特別編集) @白夜書房



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