DEEP




白い、白い……
圧倒的に白いね。
この街に降る雪、君の震える指先も。
空を見上げても、何もかも。

こころさえ、融けてしまいそうに……。






『今日という日が何度も繰り返したような……君にそんな経験はあるかい?』

戦火は消えた、でも、気がつけば誰もいなくなっていた……。
焦土に重ねるのは幻のような楽園の記憶。
全てを蘇らせる為に彼は一人、生き続けなければならなかった。
けれど……。
錆付いたような千年の時を待って、それでも過去は二度と戻らない。

──虚空王……無の界の魔王
フィジアルト=ヴァルスティン(フィズ)

『絶対に守らなければいけないものも、あるよ。結果他人の幸福を踏み躙っても……ね』







……
………






『だからもう止めとけって……。百億の言葉を紡いでも、人間(あいつら)には解りゃしねぇんだ』

絶対に罪は赦さない。
故に罪を犯し続けた人間を赦す事は出来ない。
彼にとって誰よりも大切な同朋の想いを、三度に渡り踏み躙ったのだから。
幼少のころ泡のように消えそうな恋心を抱いていた初恋の少女と、
全てを分かち合えると信じていた親友と、
何を賭しても守るべき主と……。
信じる者は必ず裏切られ、
だから彼は既に人間に絶望していた……。

──熾炎王……火の界の魔王
フレデリアス=D=イルヴァール(ディー)

『お前等だけは絶対に根絶やしにしてやる!!』







……
………






『そう、貴方もわたしに嘘をついたんだね』

雨の降る夜に彼女は運命と出逢った。
狩人に追われ傷付いた水妖を何のわだかまりも無く手当てしてくれた人間の旅人……。
それまでずっと漠然と信じていた人間への憎しみがふっと消えてしまっていた。
そして彼女は一年の歳月を経て彼と再会する。
その先に待つ輝ける未来への期待を胸に抱いて……。
だからこそそれは悲劇だった。

──雨の日の女神……水の界の魔王
ユウラ=パーペチュア(ユウ)

『ごめんなさい、でも……わたしは貴方のことを今でも愛しています』







……
………






『何か大切なこと、忘れてません?』

彼女は花を売っていた。
白い雪の積もる、白い街で、真っ白に開いた花を。
凍ってしまいそうに冷たいのに、なぜか花は閉じようとしない。
なぜなら花は彼女の一部であったから。
それは彼女の心であったから。
脆い人間の、脆い心を支える為に……。
彼女はどの時代のどの場所にも現れた。

──白い聖女
シャロン=ブラウゼス

『ねぇ、幸せは……こんなところにもあるんですよ?』







……
………






『邪魔ならば殺してしまえ。今更に迷うほど自惚れてはおるまい?』

この身は既に穢れている。
だが世界はそれよりももっと腐りきっている。
正さねばなるまい。
この世界から人間と、その守護者を気取る
神どもを追い落とさねばならない。
千年前の、神と魔の神聖にして醜悪な争い
……神魔戦役の折。
偉大なる破壊神をその目の前で忌まわしき神々の長に討たれてより彼は変わった。
笑わなくなった。泣かなくなった。
黙々と殺した。返り血で具足が紅く染まった。
いつの間にか鬼と呼ばれていた。

──紅鎧の鬼蜘蛛……地の界の魔王
ヴェノム

『ならば貴様が俺の代わりに笑い、泣け。その様なもの、とうの昔に忘れてしまったからな……』







……
………






『ふっふっふ、造作もないことです!』

生まれた時から何に殉ずるべきかは決まっていた。
そのことに疑いは無いし、納得も出来る。
でも、何かが少し寂しいと感じていた。
彼女は封印のための封印。
強すぎる力を持った主が全てを壊してしまわないように、必然的に生まれては、死んでゆく。
生きるだけで命を費やして、
もうこれで三度目。
あれから千年が過ぎたけれど、
守るべき、愛すべき主は他の女性の姿を眼で追っていた。

──三番目の虚無
エフィール=ヴァスキス(エフィ)

『そうですよね……わたしは結局、貴方の道具に過ぎないんですよね』







……
………






『私の敵は運命そのものだ。不幸は私が神として生まれついた事にある』

何かを正しいと断じるはことは難しい。
幾億もの正義のどれか一つを選んでこれが正義だと決める。
それが神たる者の定めであり、正義でもある。
だがそれに疑いをもった神があった。
正しさは絶対的ではない。
なぜならば彼は神の身でありながら、
神と正義に疑問を感じていたのだから。
彼は神に反旗を翻し、そして敗れ去る。
だがそれこそが彼に神の欺瞞を確信させていた。

──叛逆の破壊神
デス=フィテス(フィテス)

『お前が真に正義であるというなら……何故私は裏切らねばならなかった?』







……
………






『今度はきっと……忘れ、ないから』

彼女は自らの魂を呪う。
魂しか持たぬ不完全な魔族ゆえ、
転生を繰り返すたびに変わってゆく自分が怖かった。
来世でも愛しい人を変わらぬ想いで、ずっと、永遠に……愛しきれるかどうか分からなかった。
だから決めた。
人としてのこころと、魔族としてのこころを分離することに。
その所為で自分を見失いそうになっても……。

──雷吼の魔女……風の界の魔王
レイハ=ルースブレッド

『ただいま……フィズ。あたし……今度こそ帰って来れたのよね……』






and...






『……誰があんたなんか好きだって言ったのよ』

彼女は自分の平凡な未来を疑わなかった。
普通に恋をして、普通に結婚して……普通に子供を産んで育てて……。
けれども運命は強制的に変えられた。
17歳の誕生日に街で出会った一人の青年。
彼と眼が合って、気がついたら彼女は泣いていた。
『やっと会えたね……レイハ』
彼の言葉に、何かが壊れたのが分かった。
がしゃんと、無造作に。
例えばガラス細工。
組み上げるのに何年もかけても、割れるのは一瞬。
彼女の少女時代は、今この時に終ったのだと気が付いていた。

──もう一人のレイハ
レイハール=アルン=クラリス

『もう訳が分からない! 何で……なんで私だけがこんな目にあうのよ!!』






 …
 ……
 ………






 ──Deep






 …
 ……
 ………

 Deep...deep...
 Deeper...

 例えば僕が僕であるということ。
 君が僕にとって大切なこと。
 それは僕だけが知ってる。

 でもね。

 君は知らない。
 忘れてる訳じゃない。
 惚けてる訳じゃないよ。

 ずっとずっと魂の連鎖を繰り返して、洗い流されて消えていくんだ。

 君は確かに、『知らない』んだ。

 それはきっと世界の定めたシナリオだね。
 哀しい、哀しい。

 ねぇ、たまに僕だけが夢を見ているんじゃないかって思うよ。
 僕にとってだけ正しい真実なんて夢幻にしか思えないからね?

 そう言ったら彼女は僕に約束してくれた。

 『今度こそ忘れないよ』って。

 でも、何故僕は……
 あの時にその意味を理解しなかったんだろう。

 つまり彼女は……






 …
 ……
 ………






 何はなくとも……。


「白い花を……そうだな、両手に抱えるくらいもらえるかな」

「はい」

「穢れのない、それだけに残酷な純潔の色だ……」


 幸せであろうとすれば、いいと思った。
 でも、それがただの逃げだと気がついたのは、多分もっと後のことだ。


「……?」

「白は美しくて怖い……そう思ったんだ」

「怖い……ですか?」

「うん……白は汚れを見逃さないからね」

「……それは……あの」

「ん? 何だい?」

「違ってたらごめんなさい……でも分かるんです」

「……分かる? 何を?」

「とても……哀しいことが、あったんですね……」


 母親とはぐれてしまった幼子のように……。
 とても、寂しそうな眼をしていた。
 
 僕は言葉で否定したけれど。
 そんな積りはなくても、鏡に映る僕の顔はいつも何かが足りないと泣いていた。


「…………」

「あの……これ」

「……これは……」

「売り物じゃないです。さっき見つけたんです」

「四葉のクローバー?」

「はい……迷信とか、信じます?」

「今更信じる気にはなれないよ……。特に幸運のまじないはね」


 幸福になろうとすることは容易い。
 でも、幸福になることは難しい。
 そうなれないことを知ってるから哀しい。
 それでも幸福になろうとするから憐れだ。


「でも……嫌いじゃない」

「あの……クローバーの花言葉を知っていますか?」

「……花言葉?」

「はい。花にはその花を表す言葉があるんです」

「なるほど……知らなかったな。じゃあ……これにも何か意味が?」

「はい」


 彼女は柔らかに、魅力的に笑った。


「クローバーの花言葉は”思い出して”です」

「……それは……」






「何か大切なこと、忘れてません?」






 そう言って彼女は、つばの広い帽子をそっと押し上げた。
 僕は驚愕に眼を見開いて……。

 …
 ……
 ………

 ねぇ、幸せは……こんなところにもあるんですよ?
 
 …
 ……
 ………

 僕が求めるたった一つの幸せ。
 それだけはずっと変わらないし、譲れない。
 諦めることも出来ない。

 でも、いつの間にか幸福だった僕は、それさえも気がつかないほどに狭量で……。

 ──Deep

 …
 ……
 ………

 Deep...deep...
 Deeper...

 ……もっと深く、深く……。

 僕はまだ求めていく。
 弾けるみたいに視野が広がっていくね。





序幕 [彼ら]




 彼は少女から買った花を、彼女に届けに行く。
 何時もより少し軽いステップで、若干の微笑さえ浮かべつつ。

 彼女とこの街で出会ってから一月。
 再会するまで千年。


「本当に、長かったね」


 ──でもそのことを知っているのは僕だけ。

 彼は心中でそう付け加えた。

 彼女は肉体のない魔族だった。
 人間の身体に代々転生していく。
 そのたびに思い出が失われて、記憶は消えていく。
 生まれ変わる度、本質は変わらないけど、全く別人の彼女が現れる。
 
 けれど今生では、彼の知らないもう一つの新しい別の人格が主人格として、二重人格になってしまっている。
 本来混じりあうはずの2つのこころが交じり合えずに反発している。

 これは今までになかったことでもある。
 それはきっと前回、彼を忘れまいとして彼女が自らに施した呪いの副作用だろうとは推察できたけれど……それでもやはり不安はあった。
 このまま彼女が目覚めなければ、彼が今までしていたことの何割かは無駄になってしまうのだから。

(それもきっと僕の所為なんだろう……でも、なら僕は何をしている? 誰に尽くそうとしている??)

 思わず自嘲が微笑みに混じった。
 その所為で彼の整った理知的な相貌は、どこかぎこちない違和感のある表情を浮かべた。

 償う?
 そんな積りはない。
 でも、待っていたのだ。
 ずっと……。

 いまだ彼の知る彼女は彼を知らない。






「……いい加減にしてよね」


 渡そうとした花は彼女の手によって踏みにじられた。
 思い出すら、否定するように。

 白い花びらがちらりちらりと……。
 雪のように見えた。


「白は嫌い。ねぇ……あんた何なの? いつもいつもそうやって私に笑いかけてきてさ……。
 私はあんたが誰かも分からないのに、当然のように私の側にいるのね。偽善臭いのよ」

「……多分その通りだよ」


 かき集めた花束をそれでもそっと花瓶に生けた。
 曲がった茎が痛々しく映えた。
 茎から染み出す水が、例えば血のようだった。


「あんたが帰ったらそれもどうせ捨てるわよ? 意味もないのに……気持悪い」

「行為に意味があるほうが辛い。……僕も無我夢中だから多分、出来るんだね」

「ふぅ……ったく、もう。訳分かんないわ、あんたって。そう言うところが嫌いなのよね……」


 今の彼女は彼女とは違う。
 でも、彼女には変わりない。
 同じ魂の表と裏だから……。
 多分きっとこれが、彼を”知らない”彼女そのものだから……。
 真っ白な彼女だから。

 そう考えると何故か笑えた。
 傑作だ。
 だから彼は思わず微笑んでいた。


「有難う」

「……はぁ? 何処をどう曲解したらそうなるのよ」

「そう言う僕が嫌いだなんて……つまり」

「……?」

「僕の全てが嫌いな訳じゃないってことだろう?」

「…………」


 思わず絶句したあと、彼女は心底呆れたように深々と溜息を吐く。
 それからウンザリしたような口調で小さく呟いた。


「……ばっかみたい」


 でも彼は嬉しくて、知らず知らずの内に微笑みを深めていた。
 そんな彼を見て彼女がくすりと笑った。
 
 彼は大袈裟なくらいに眼を見開いた。






 …
 ……
 ………

 ねぇ、幸せは…こんなところにもあるんですよ?

 …
 ……
 ………






 ──そうだね。


「はぁ……バカバカしくなってくるわ、何か。あんたを見てるとね」

「それは良かった。どうせ生きなければならないなら、いっそ馬鹿馬鹿しい方がいい」

「……変なこと、言うのね」

「そうかな」

「そうよ……何か、生きるのに疲れたじーさんみたいよ」

「……そうかも知れないね」


 ──多分僕は疲れてるよ……。
 ──疲れて疲れて、……君に癒して貰いたがってるよ。

 黙りこんだ彼の顔を、彼女のエメラルド色の瞳が覗き込んだ。


「変な人ね」

「……そうだね……」

「……」

「……また、来るよ」






 アルヴァイル帝國伯爵令嬢レイハール=アルン=クラリスの屋敷を、壮年の執事に害虫を払うかの如く追われるように辞し、フィズは小さく眉を顰めた。
 とは言え、別に伯爵家の執事の態度に不快を感じたという訳でも無い。そもそもそんなことは今更でもある。
 問題は”彼に忠実である筈の”使い魔のエフィが”何故か何時ものように”行方不明になってしまっていたことであった。

 いい加減何だか物哀しい気持ちになって彼は深々と溜息を吐く。


「……君は、この状況を本当に理解しているのか? エフィ」


 まぁ、分かっていないからこそ、であろうが。だがしかし。
 彼は鼓動の速さでずきずきと痛み始めた米神をそっと抑えた。

 実は、というか何と言おうか、使い魔など平然と連れているからには彼は勿論ただの人間ではない。
 いや、人間ですらなかった。

 ”虚空王”フィジアルト=ヴァルスティン。

 それは常に恐怖とともに語られる名前であった。

 魔族というものがあり、神族というものがある。
 とは言え、これらは元は人間が定めたのが始まりでもある。

 神は神であり、この世界を管理し、人間を導くものである。
 魔は神と人間と世界の敵とされる。
 何故そうなのかは誰も説明してはいないが、神はそう説き、人はそれを信じた。

 神は魔と比べ、圧倒的に強大な力を持っていたからかも知れない。
 神は安らぎを与え、魔は恐怖を与えたからかも知れない。
 いずれにせよ人にとって神が正義であり、魔が邪悪であったのだ。
 そしてその理は、神の信奉者たちの起こした教会が世界を支配した時に絶対となった。

 しかし、千年前のある時に神族にとって重大な危機が訪れた。
 最強の力を秘めた二人の神王の一人、エルフィテスが神族を裏切り、魔族の盟主となったのである。
 彼は烏合の衆であった魔族を統率し、強大な力を持った魔王を選び出し神を狩る破壊神となった。
 これが世に言う第一期神魔戦役である。

 これ以降、魔族は恐るべき速さで勢力を拡大し、ついには神をも圧倒するほどとなった。
 一時は魔族も神族も壊滅寸前にまで追い詰められたというが、それに関する記述は失われて久しい為に人の知るところではない。

 明確に歴史書にその詳細が記されているのは第二期神魔戦役と呼ばれる争いである。
 この時は神は人間すら巻き込んで戦いを起こし、最終的にフィテスを含む全ての魔王を封印することに成功したという。

 ──ただ一人、”虚空王”フィジアルト=ヴァルスティンを除いて。

 尤も、これは飽くまでも”内部”の事情であって、当時公式に発表されたのは全ての魔王の封印と、神を助けた英雄皇の即位である。
 兎に角も、魔族に拘わりを持たない一般の人間にとっては、最早魔王など物語の世界の住人にも等しい。その存在をすら疑うものもいるほどであるのだ。

 現在に至っては彼の存在は国家の最重要機密として一応認識されているが、無用の混乱を避ける為帝國は一切不干渉の姿勢を貫いている。
 ただ、何故か最近になって彼と帝國とで二百年前に交わされたはずの『互いのテリトリーには踏み入らない』という盟約を彼自らが破った為、帝國は態度を反転し、対魔族部隊『黒竜団』を結成、ついには積極的な反撃に出た。

 剣士の部隊を『黒竜騎士団』、魔術師の部隊を『黒竜呪兵団』と呼称する事もある。
 彼らは領域を侵した魔族を殲滅することを最優先の任務とする。
 漆黒のアーマーとバトルスーツで統一された彼らはこの平和な国においては余りにも不気味極まりない為、事情を理解しきれていない市民たちからはかなり不評だったりもするが。

 ……まぁ、それは兎も角。






「フィジアルト様ぁ〜」

「……?」


 考え事をしていたところへ、思わず脱力しそうになるような少女の声が聞こえた。
 フィズはそちらを振り向いて──そして実際脱力する。


「……エフィ……君は……」


 いや、そう言う娘だとは知っていたはずだったのだが。
 しかし、何故にこうもお約束を繰り返してくれるのだろう?

 フィズの視線の先を、綺麗と言うよりは可愛らしいと言った方が似合う十台半ばくらいの少女が背後に騎士団を連れて駆け寄ってくる。
 ──勿論、”魔族殲滅を第一任務とした”例の『黒竜騎士団』を、である。
 街を歩く人々が一体何事かと振り返り、時に”蝙蝠”だとか”鴉”だとか呼ばれる黒騎士達に気付いて嫌悪を滲ませて見ていた。

 それも当然、見当まだ子供といっても良いくらいの年齢の少女を大の男が小隊規模で追い回しているのだから無理もあるまい。
 大体にして彼らの仕事はこんな風ではあるが。ある程度以上の力を持った魔族は人型を持ち、一見してはただの人間とは区別がつかない為、どうしてもそれを始末する側の黒騎士達が悪役に見えてしまうのだ。
 それを理解してか、騎士団の先頭で彼女を追う中年の男が舌打ちをする。

 理不尽である。全く持って。
 自分たちが彼女を追うのは街を守る為である。事情を説明しないのは無用の混乱を避けるためである。
 なのに彼らの評価は”蝙蝠騎士団”。おかげで家の息子も学校で苛められて……いや、それはどうでもいい。

 思わず飛躍しかけた思考を頭を振って払うと、男は美しい魔物の方へ意識を向けた。
 油断してはならない。”それら”は恐るべき邪悪なのだから。


「……これは……黒竜騎士団?」

「ごめんなさい……」


 分かっていながらわざとらしくフィズが尋ねた。
 そのジト目から視線を逸らしながら、つつと冷汗を流しつつ彼女──エフィが謝罪の言葉を紡ぐ。
 が、それでもフィズの視線は冷たかった。当然ではあるが。


「あぅ……」

「……はぁ」


 何となく、こう、言い知れない脱力感を感じつつフィズは溜息をついた。
 まぁ、だからつまり、返す返すも、確かに彼女がこう言う娘なのだとは、つくづく知ってはいたのだが……しかし。
 冗談抜きでここ千年を掛けた壮大な『計画』が馬鹿馬鹿しくなってくる。


「……フィジアルト=ヴァルスティン。それから、エフィール=ヴァスキス、だな」


 そんな二人を若干呆れたように、しかし緊張の汗を隠せずに先頭の男が問うた。
 どうやらこの男が団長らしい。他の団員とは明らかに異なる異様な形をした剣を腰に差しているのが見えた。

 彼らの総団長である魔剣士『テンペスト』の所有する魔剣”セヴンピアサ”にどことなく似た雰囲気の剣だ。
 刀身は光を受けて妖しく白銀に輝き、眼に見えて強烈な魔力を放っている。
 フィズの記憶にある魔剣ではなかったが、しかしどちらにせよ半端な代物ではない。
 が、それも当然かも知れない。彼らとて魔王と呼ばれるほどの存在にただの武器で対抗するほど愚かでもあるまいし。

 ──しかし、それはそれとして。


「だから……エフィ……あれほどここを動くなと言ったじゃないか」

「で、でも……露店が……」

「露店って……君は買い物の為に命を賭けられるんだね」

「でも……ひよこさんが可愛かったんですよ。もこもこって、こう……あの……あぅ」

「…………はぁ」

「うぅ……反省してますから。そ、そんなに遣る瀬無い顔しないで下さいよっ」


 どっと疲れが出た気がする。
 もしかして、もしかしなくても彼女はフィズの使い魔だった筈である。
 それも、嘗て世界をその名だけで恐怖に陥れたという負界の五魔王の筆頭、”虚空王”フィジアルト=ヴァルスティンの。

 彼女自身も当然神話の類には記されている。
 ”虚空王”の妹とも娘ともされる美しい少女であり、勇者の前に現れては死の訪れを告げる死神の伝令であると。
 ちなみに伝承によれば彼女は初代英雄皇アリシウスに死を告げた際に、彼自身の手によって討ち取られたとされている。

 とは言え現実には、こんな感じで生き残っている訳だが。
 完全武装の騎士団員たちも、何とも言えない顔をしている。


「ちなみに……その小娘はあろう事か巡回中の騎士団に道を尋ねてきたぞ」

「……おい」


 突込みどころ満載だった。

 エフィが何やらばつが悪そうに微笑んでいたが、そう思うなら反省して欲しいと思う。
 何故ならこれでもう今月6件目だったから。ちなみに今日は月の第一週だったりする。


「はぁ……ただでさえ君のせいで手配書が回ってるというのに……」

「てへへ……」

「笑い事じゃなくて。千年掛けて築き上げてきたものが、君によってたったの三日で全て水泡に帰したんだけどね」

「う」

「何の因果か、今では帝國に追われる身。それで、ひよこがもこもこ? 僕だって何時までも甘い顔はしてられないよ?」

「うぅぅ」

「……やれやれ、君の主人がヴェノムだったら今ごろ封魔結界行きだろうね」

「あぅ。そんなぁ……」


 幼げな容姿の彼女が涙ぐむ様は客観的には確かに可愛らしかったが、フィズにとっては頭の痛くなる原因でしかなかった。
 大体彼女は使い魔の何たるかを理解していないような気がする。

 思わず鬼とも呼ばれる地界の魔王ヴェノムのしかめ面を思い出して、それから彼の優秀な三魔将と称する紅爪鬼、六邪眼、暗黒狼の三体の使い魔とエフィを比較してみる。

(まぁ、比較以前の問題っぽいけど)

 実際彼女はその辺の人間の娘より間抜けだと思う。
 そう考えると何故だか泣きたい気持ちになった。


「まぁいい。失点は自分で取り返すんだ……。でなきゃ君の存在意義すら疑わなきゃならなくなる」

「え? 名誉挽回のチャンスですかぁ?」


 それを聞いて彼女の表情がぱっと明るくなる。彼女の闇色をした瞳に、曇りの無い輝きが灯った。
 フィズは、何故だかその笑顔が無性にムカツクのは、出来るならば気のせいだと思いたかった。


「とは言え……成功した例は無いけどね……」

「そ、そんな事は無いですよ!!」


 ──有るから言ってるんだよ、コルァ。

 思わず心中で突っ込むが、あえて口にしない。
 言うだけ無駄だからかもしれない。
 それはそれで問題のような気もしたが……まぁ、よかろう。


「そうかな……じゃあ、この危機を乗り切る算段でもあるのかい?」


 とりあえずそう問うてみる。
 勿論欠片ほどにも期待はしてなかったけれど。


「ふっふっふ、造作もないことです! このわたくしめにお任せあれ!!」

「……一応、具体的なプランを聞いておこうか」

「はい。先ずは魔界から根源の無を召喚します。次にこの方々を蹴りこみます。最後に蓋をします。完璧です」

「……はぁ」


 馬鹿だった。
 言葉も無かった。

 はっきり言えば、フィズの戦闘能力は魔王と名乗るからには伊達ではない。
 いや、そのような次元ですらなく、この帝都ごと騎士団を一瞬で消滅させることすら造作でも無いのである。

 ──当然レイハも巻き込んで。

 そもそも根源の無と言えば、その名のとおり全ての根源たる無であり、召還した時点で世界の破滅である。
 つまり、問題は勝つ方法などではなかった。
 ただ、背後にはクラリス伯爵家の屋敷がある。
 この状況で、強大すぎるフィズの力は迂闊には揮えない上、今下手に帝都や教会を刺激するのもまずい。

(それに……『計画』は、何としても成功させなくちゃならない)

 失敗など許されないのだ。
 この機を逃せば、次回はもう千年後の事となる。
 幾ら無限の寿命を持つ彼も、流石にそこまでは待つ自信は無い。

 そもそも──。


「どうです? 正に完全犯罪、ですよねっ」


 嬉しそうに手を合わせてはしゃぐエフィに、一瞬殺意すら覚えたのは秘密である。
 フィズは酷く疲れた顔をして彼女に近付くと、何時の間にか黒い燐光を帯びていた右手を彼女の額に翳す。


「……暫く寝てるといいよ……」

「え……あ、きゃああああ……あ……ぁぁぁ……くぅ……」


 ”スウィート・ナイトメア”と人間たちが呼称する高等魔術の一つである。
 これはただの催眠魔術とは異なり、特定の個体に特定の時間特定の夢を見せながら眠り込ませる。
 つまり、例えば永遠に発狂するほどの悪夢を見せ続けることすら出来た。
 まぁ、この場合はほんの少しの間だけ、幸せな夢を見てもらっただけであるが。

 ちなみにこのとき彼が幸せそうなエフィの寝顔を見て、『そろそろ代え時か?』と思ったかどうかは定かではない。


「失礼。話を進めてくれるかな」

「あ、あぁ……大した使い魔だな」

「……それを言われると辛いよ」


 本当に辛かった。
 団長が明らかに嘲りではなく、哀れみを込めて言っていたのがよく分かったからである。
 しかし、実のところ団長の言葉に力が無かったのはそれだけでは無い。
 フィズが恐るべき大魔術を造作も無く、ついでのように使ったことに改めて己の相手が何者であるかを認識した為でもあった。


「……しかし……そんな魔物でも妖気だけは恐るべきものよ」


 ふと、団長が打って変わって顔を引き締めた。
 深く寝入ったエフィを見るに、唐突に酷く緊張した声を上げる。


「これ程の妖気は嘗……て……!? なっ……まさか、こ、これは……」


 ……気がついたのかも知れない。彼女の異常さに。

 睡眠によって彼女が普段押さえつけていた圧倒的な魔素が辺りを包み始めていた。
 蒼く晴れ渡っていた空が何時の間にか曇り始め、心持ち気温も下がっているような。


「ふふ。彼女は三番目のイリアだからね……魔力だけならば五魔王にすら劣ることはない」

「なに?」

「おや、知らないのかい?」


 訝しげに問うた団長の言葉に、彼はわざとらしい笑みを浮かべる。
 団長は思わず身震いをしていた。

 何故だか分からないが、酷く寒いのだ、本当に。


「……そんな事はどうでもいい……。それは貴様を封ずる前に聞こう」

「……出来もしないのにね」

「……っ……しかし旧世界の魔王が本当に……いまだ生き長らえていたとはな」

「信じていなかったと?」

「……信じたくなかったというのが本音だな」


 最早あからさまな……怯えと言って良いほどの感情を隠し切れず、団長はそう洩らす。
 対照的にフィズの笑みが深まった。

 こくりと、誰かが喉を鳴らす音が聞こえた気がする。


「伝承は全てを伝えるわけではないよ」

「ふん、忌々しいことよ……」

「忌々しい? あの戦い……神魔戦役の真実を曲げて伝えたのは君達じゃないか。……良く言える」

「……何だと……?」

「惚けているのか……それとも、本当に知らないのか。だとしたらなんて哀しい」

「…………」


 団長は応えず、ただ押し黙って剣を構えた。
 それに倣うように、彼の背後の黒騎士達も各々の獲物をフィズの方へ向ける。

 彼はそれを完全に無視するかのように幸せそうに眠り込むエフィを抱き上げると、先ほどまでとは打って変わり、不気味なほどうっそりと唇を歪ませた。


「知らぬは罪か……。そうだな……例えばこんな昔話をしよう……」


 腕の中の少女の髪に指を絡ませ、いとおしげに撫ぜる。


「傷付いた水妖が居た。そこへたまたま通りがかった旅人は、水妖を必死で看病したそうだ……。
 その甲斐もあってか水妖は何とか持ち直し、旅人の下を去った。
 そしてその一年後、水妖は女の姿をとり、旅人の前に再び現れた。
 身分の問題はあったけど……まぁ、あのころはある程度寛容な時代だったからね、彼らは愛し合い、夫婦となった……」

「……良くある御伽話だ……」

「かも知れない」


 確かにそうである。
 この類の御伽話は、世界中に嫌と言うほど溢れている。

 けれど。


「だが続きがある。悲劇といってもいい、続きがね。
 この類の寓話には必ず裏切りがあるけど、これもご多分に漏れず、だよ。
 そして裏切るのはいつも人……欲に目が眩んだ愚かな人間だ……。
 分かるかい? 謀反の罪に問われたその男を帝から取り返すために、彼女の命を削って生み出した宝石……蒼水晶の価値を知るや否や……男は狂った」

「……何が言いたい?」

「男は帝國相手に逆に交渉をはじめた。自分が彼女に命じればいつでも蒼水晶が得られると豪語してね。そしてそれは事実だった……。
 免罪には充分な宝石を得ても、それでも男は足りないと言って彼女に宝石を作らせた。……その彼女の命の輝きをだ」

「…………」


 団長は違和感を覚え始めていた。
 どこかで聞いたような気がしたのだ。それは、確か御伽話などではなく。


「でもそれも長続きするものじゃない。裏切られたことに気がついた水妖は男の許を去り、再び姿を現した時には……
 ──男を喰らったそうだ。永遠に結ばれるためかもしれないね」

「……所詮妖魔とはそのようなものだ」


 魔族は神と人間と世界の敵なのだから。
 結ばれることなでありえない。いや、あってはならないのだ。

 彼らは邪悪なのだ。
 永遠に結ばれる為に喰った? ──正気の沙汰じゃない。

 それをさも平然と、むしろ穏やかに語るこのフィジアルトという男も、姿こそ美しい青年をしているが、恐ろしい魔物の、それもその親玉に過ぎないのだ。

 ──魔は、狩らねばなるまい。

 剣を握る手に力が篭る。
 それに気にしてもいないのか、フィズは変わらぬ調子で続けた。


「彼女を絶対悪と断じるか? 彼女のみを罰するか?
 それでも彼女が男を愛していたとしたら、君は彼女を裁けるかい?」

「それは……愛ではない」


(狂気だ!)

 だが、団長は声に出しては叫べはしなかった。
 何故だかは分からない。
 目の前の男がそれを許さないのを怖れたのかも知れないし、もっと別の何かが原因かも知れない。

 結局彼は消化不良な気分で、小さく息を一つ吐いただけだった。


「でも……この話、人と魔の配役が逆でも同じことが言えるかい?」

「…………人は喰わんよ」

「へぇ? 人は人を喰うのにね」

「……っ」


 それは狂った人間の業だった。
 人間が狂っているのではなく、狂ったのが人間だっただけで──

 そこまで想到して、団長ははっと息を飲む。

(私は、何を認めようとした?)

 魔族が狂っているのではなく、狂ったのが──馬鹿な!


「そう。誰もがそうだ……。醜いよ……とても。そして狭量だ。例えば僕もそうだ。無駄だと知りながら僕も、彼女を──ユウラを哀しませた人間を憎んだよ」

「……ユウラ? ……まさか」

「伝説では、狂公ガルムオディスを誑かし、謀反を起こさせた妖女と伝えられているね」


 漸く思い出した。
 余りにも有名すぎる話ではないか。
 この帝都から初代英雄皇が魔物を駆逐するサーガの序章を飾る、狂公ガルムオディスの叛乱の幕の粗筋そのものだったのだ。

 伝説によれば、確か……。


「公爵は狂い、帝に、そして神に戦いを挑んだ。妖魔に唆されてな……」

「でもそれは違う……。純粋の蒼水晶が恐るべき魔力を人に与えることを知っていたからね、彼は。
 彼はユウラを利用して自らが神にならんと欲したのさ。分不相応にもね。結局失敗に終ったけれどね。
 ふふ……何のことは無い……。彼は最初から知っていた……最初からユウラが魔族であることを知っていたのに……」

「……まさか……」


 本当に狂っていたのは人間だとでも言うのか?

 彼のそう訴える視線を軽く無視して、フィズは遠くを見るような目をして呟くように言った。


「責任をとってユウラは……彼を討たねばならなかった」

「…………」

「哀しい、そう言う一つの話だよ……」


 長い話のあと、不気味な沈黙が降りた。

 ひどく喉が渇く。
 何を言うべきか、言葉が見付からない。

 先ほどの話が何ほどと言うのか。
 それが真実だったとして、一体どうだというのだ。

 ただ、目の前の”それ”は、確かに哀しんでいる。


「信じられんな……貴様が本当にあの”虚空王”か?」


 彼にとっては、それは恐怖とともに語られるべき言葉であった。
 血も涙も無く、冷酷で、禍々しく、おぞましいモノの名前なのだから。

 それは疑問の余地も無く、悪であった筈なのだ。
 少なくとも彼の信じる神と、その代理人たる教会はそう説いていた。


「だとしたら?」


 問い返す言葉に一瞬つまり──しかし彼は一つ息を吐くと、朗々たる口調で宣告した。


「どうもせんよ……答えは最初から変わらん。貴様等が生きているという事実だけで、人は容易く狂気に陥るのだ。ならば貴様等は狂気だ。
 先ほどの話もそうだ……妖女ユウラがいなければ公爵は狂わなかったのだ。その存在が狂わせたのだ。
 ならば魔族は滅びなくてはならん。そしてそれは千年前を境になされた筈だ……」

「君たちが作り上げた偽の歴史の中で、だろう? 大陸に覇をなす今帝は、魔王を退けた勇者の末裔だそうだね……」

「……っく」

「偽りの伝説、偽りの呪い、偽りの英雄、偽りの正義、偽りの平和、全てが偽りの……」

「黙るがいい!! 今更にそんなものはどうでも良い!!」


 そう、どうでもいいのだ。最早。
 魔族は魔族。邪悪なる化生を討って、人は正義を示すのだ。
 疑問の余地も有るまい。それが正義なのだから!


「……その生き証人がここに居るのにかい?」

「なればこそお前を──討つ!!!」

「……愚かな。そして過ちは繰り返す、か。可哀想にね……学ぶこともなくただ火に入る夏の羽虫たち」

「っく……きさまはっ!!」


 一閃。
 素早く踏み込んで、勢いのままに逆袈裟に斬り上げる。
 対してフィズはむしろ緩慢なほどの動きで右腕を掲げた。


「……ふぅ」


 フィズの覇気のない溜息に重なって、キンと言う甲高い音が立つ。
 充分な鋭さと重さを持ったその斬撃は、しかしそれに似つかわしくないほどの軽い衝撃と共に勢いを無くした。


「──なっ!?」

「団長!!」


 何かに堪えかねるようにしてフィズに斬り付けた剣を、あろう事か彼は造作も無く指先で受け止めていたのだ。
 否。よく見れば彼の人差し指と中指の数センチほど先に、黒い光としか形容できないような異様な発光体が魔剣に食い込んでいる。
 余りの非常識さに団長の口から思わず驚愕の声が漏れた。


「ちぃっ」


 素早く剣を引き戻し、今度は反対側から真横になぎ払い、そのまま剣筋を切り返して唐竹割に振り下ろす。
 が、それも全て奇妙な黒球に阻まれる。


「くそっ」


 更に速度を上げ、右に左に上に下に、縦横無尽に白い刀身を振り回すも、その全ては酷く軽い音を立てて黒い球体に受け止められる。
 どこか理不尽にすら思える光景に、騎士団員たちは息を呑んだ。
 幾らなんでも、まさかこんなことがあっていいのだろうか……と。


「馬鹿なっ……馬鹿なぁ!! これは総団長から直々に貸与された聖剣”ダークブレイカー”だぞ? 闇なる魔人を貫いた聖なる剣だ。それを闇で受け止めるなど──」

「そうか? ならば君は彼に捨てられたんだ」


 やはり優雅な仕草で受け止めた剣をまるで重さを感じさせない動きで振り払い、フィズが無表情に答えた。
 それだけの動きで、団長は数メートルの距離を吹き飛ばされる。
 フィズはその様子に特に関心を寄せず、エフィの身体を抱き上げたまま指先の球体を頭上に掲げると、今度は一瞬で数メートルもの巨大なそれに変える。


「だ、団長……ご無事ですか!?」

「っく……あれは!? 貴様等、何をしている。奴を止めろ!」

「し、しかし団長……我々の装備ではこれ以上は──」


 掠れた声で背後の部下たちに檄を飛ばすも、彼らは怯えた様子で誰一人動こうとはしない。
 しかし、団長は別にそのことに欠片も驚きは出来なかった。如何に彼らが今まで数十に上る魔族たちを狩って来たのだとしても。

 ”あれ”は、そんな可愛らしいものですらなかった。
 それは彼に、今まで信じたことも無かった、聖典では殊更に否定されていた事実を想起させる。

(馬鹿な……彼らは、本当に……っ)






 偽典に曰く、破壊神に仕ふる負界の五魔王といふあり。

 地の界に紅鎧の鬼蜘蛛。
 神すら喰らふ鬼、具足は血に紅く染む。真なる形は異形の毒蜘蛛にして、ひと、そを見るにつけ狂ふ。

 炎の界に熾炎王。
 邪なる魔の炎の化身にして、聖炎を灼きしもの。灼かるるに、闇へ堕つ。救ひもなし。

 風の界に雷吼ゆる魔女。
 最もおぞましきもの。ひとにしてひとにあらず、雷神を遣ひて、天を嗤ふ。人のある限り滅ばずと言ふ。

 水の界に雨降りの竜女神。
 在り得ざるべき魔物。神より生まれし魔の生みし忌み子。全てを欺き、壊す。神なる竜にして唯一魔竜たり。

 無の界に虚空王。
 虚ろにして空。死霊の王ともいひ、命を弄ふ。見る勿れ。聞く勿れ。知る勿れ。神王をして魔物の王と呼ばしめり。






 ──彼だけには、関わってはいけなかったと言うのか?

(だが……もう遅いっ!)

 話が違う……などとはもう言わない。それはある程度予想してしかるべきだったのだから。
 或いは傲っていたのではないのか、我々は魔物を屠ることに掛けては常に最強であるのだという妄想に。
 そも、彼らが束になっても傷一つ付けられない化物とも言うべき総団長が、唯一警戒していた魔物が彼らの手に負えるはずがあったのか?

 そこに想到して、彼は先ほどのフィズの言葉を思い起こす。

 『ならば君は彼に捨てられたんだ』

 そんな筈は無い。何故あの方が我々を捨て駒にするというのか。
 だが否定する言い訳も見付からなかった。ならば何故?

 途惑う彼の表情に気がついたのか、フィズは醒めた口調でそれを告げた。


「テンペストは本気のようだね。僕を……本気で殺す積りらしい。或いは僕たちの存在を公にする積りでいるのか」

「なっ──そんなことをすればっ」

「でも僕の『計画』は既に完了間際だよ。五魔王と、破壊神の復活もね」

「五魔王と、破壊神の復活だと!?」


 それは世界の終わり、或いは神魔戦役の再発を意味していた。
 今ではそれがいかなる物であったかは知るものはいないにせよ、それが何であるかは分かり過ぎるくらい分かる。
 人にとっての絶望が来訪する。

 先の大戦において、神は確かに勝利を収めたが、人は殆ど滅びたといっても過言ではなかったという。
 何故なら千年経った今よりも発展していた文明が壊滅し、残った人類は全てこの帝都のみで生きたというのだから。
 ──今大戦が起これば、ほぼ間違いなく人は滅亡する。

 思わずこくりと、団長は唾を飲み込んだ。


「……総団長の考えは分かった。最早一刻の猶予もないということか」

「そう、君たちは中途半端に強かった。だから僕も教会を刺激するほどの力を使わねばならない」

「私には……まるで敵う気はしないのだがな!!」

「敵う筈がない。人は人。魔王に勝てる道理がないじゃないか。とは言えその剣は少し危険だからね。確実に消させて貰おう」

「くっ」


 教会は兎角腰が重い。黒竜団に匹敵するといわれる異端審問局を擁しながら魔族に対しては驚くほど消極的だった。
 それが何故かは分からないが、どちらにせよ帝都の真中で魔王とも呼ばれるものが騎士団を消したとあれば動かざるを得なくなろう。

(ならば私に、精々足掻いて死ねと言うのか)

 戦いに殉ずる事は不満ではないのだ。だが……。

(餌は剣か。私は釣り糸にしか過ぎなかったのか)

 そう考えればとても無様だ。


「最後に一つ。僕は虚無だ。闇ではなく。だからその剣で闇は斬れても僕は斬れない。そんなことはテンペストも百も承知だろうけど」

「──っく」


 最早勝てる筈もない。犬のように殺されるしかない。
 だが、それでも誇りを持って殉じたかった。
 傷の一つも負わせられずとも、最後までこの牙を折られはしないと!


「私は──っ」

「ん?」

「確かに貴様にとっては学ぶことのない羽虫だったかも知れんが、少なくとも憐れではなかった!!」


 気力を振り絞って立ち上がると、剣を腰だめに構え、持てる全ての魔力を込める。
 白銀の刀身がまるで太陽が二つになったように輝きを放ち、清浄なる力が場を満たす。

 ぱちぱちと弾けるようなスパークの所為か、どことなくオゾン臭が漂ってくる気がする。


「おおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉっ!!」

「へぇ……思ったより強いな、君は」

「黙れ!! 消え去るがいい、古き悪夢の幻影っ!!」


 渾身の力で持って斬り下げる!
 白い魔力は空気を灼きながら、真直ぐにフィズの正中線を吹きぬけ──。






 無音の爆発が辺りを包み込んだ。
 そして──。






 けれど、それはただそれだけの事だった。


「……あ……あぁ」


 光が収まったあと、髪の一房も、服の一切れも乱さず、そこに佇んだままフィズは柔らかい笑みを浮かべる。
 相も変わらず禍々しい黒色を放ち続ける不気味な球体を掲げ、片手にはすやすやと寝息を洩らす少女を抱えたまま。
 そよ風が吹いたほどにも感じさせない、場違いなほどの穏やかさを持って。


「……これが、魔王……か」


 がくりと、団長は膝をついた。
 肉体も精神もとうに限界を超えていた。


「そうだね……じゃあ、さよなら」

「なに?」


 それに答えず、その手に掲げた最早黒い太陽としか呼べぬそれを、フィズはあろう事か街中に向けて投げ下ろす。
 まるで何気無い仕草で。
 とは言え先ほどまでいたはずの野次馬たちの姿も、何故か今は誰一人として見えない。
 それを団長が不自然に思うまでも無く。

 瞬間。
 何かおぞましいモノがはじけた。


「──!?」


 黒いものが這い上がってくる。音も無く、ゆっくりと。
 何故か嘲笑うような、そう言う雰囲気をして。


「──っ……ぁ!!!!」


 上げようとした叫び声も音にならず。






 後に残ったのは、ただの虚無。
 刹那の後、存在そのものを消された憐れな死者たちに、彼は優しく微笑んだ。


「君もまた、僕の糧となったか」


















「また、殺したんですか?」


 彼は今日も彼女の元へ、真っ白な花を買いに来ていた。
 哀しみに満ちた場所にだけ咲くというその花を。


「いや、消したんだよ」

「消した……では、あの力を──虚無を使ったのですか?」

「使ったよ。物理的な力では、レイハを傷つけてしまうかも知れなかったからね」


 花を手渡そうとした彼女の指先が、極僅かに震えた。


「……このままでは、貴方はきっと堕ちてしまいますよ」

「だろうね。けれど、堕ちるのは必然だ。ただ時期が早まるに過ぎない」


 彼はどことなく哀しげに、けれど力なく自嘲の笑みで答える。
 彼女はその予想通りに過ぎる反応に、思わずきゅっと唇を噛んだ。

 それから、誤魔化すようにして話題を逸らす。


「これで確実に異端審問局が動き出しますね。とは言え、結局は無駄な死者を出すだけ。あの人──テンペストの事は分かりません。どうやっても、貴方には勝てないと言うことが、どうして……」

「テンペストは強いよ──中途半端にね。それに、僕は兎も角、彼はヴェノムに怯えているから」

「地界王ヴェノム。確かにあの人はとても怖い人です。テンペストにはひょっとすると、それが我慢できなかったのかも知れませんね」


 わたしには、分からないけれど。
 囁くようにして付け加えられた言葉は、どこか諦めにも似た色が浮かんでいた。


「……こんなに綺麗に咲いています。哀しみが──哀しみなのに、どうして美しく咲くんでしょうね」

「哀しみだから……かな」

「かも、知れませんね」


 街の雑踏の中に何故かぽっかりと空いた人の隙間に、真っ白な花を持った真っ白な彼女が寂しげに笑った。


「シャロン」

「何ですか?」

「何時までここにいる?」

「この街から、哀しみが消える日まで」

「ありえないのに?」

「ありえないから」


 彼女の答えに、彼は少しだけ呆れて、少しだけ感心して息を吐いた。


「じゃあ、今日も行ってくるよ」

「行ってらっしゃい」


 そう言って彼は踵を返す。
 何時の間にか聞こえてきた街のざわめきに紛れ、彼は一つだけ呟いた。


「哀しみをなくしたいなら、僕を殺せばいいのに、ね」




To be continued...
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