シャドウ・アイズ
作 XIRYNN 取り敢えず、難しいことは抜きにして。 天界の話を軽くしてみよう。 この世にもあの世にも人間が想像するような地獄などと言うものは存在しない。 人外の存在の数は知れないが、人が一般に高級であるとみなす者は殆ど天界に居を構えている。 とまれ、その内実は多少複雑で、一枚岩と言う訳ではないのであるが。 まぁ、それはさて置き。 知的生命体がある程度の数を集まれば社会を為す。互いの破滅を願わないのであれば。 その因は恐怖であったり、安らぎであったりするのだが、まぁ、今はそんなことはどうでもいい。 天界は多種多様な超存在を抱え、理由は謎であるが人間に対して何らかの形で干渉しようとしている。 それが幸福であるのか、はたまた不幸であるのかは受け止める側の人それぞれの考えというものであろうが。 さて、そんな奇妙な社会集団にもボスはいる。 その尤も有名であり、その代わりに悪名も同じくらいに高いのが「神」と「天使」達であった。 名前の通り神は神であり、全知全能と言うわけでも無いがとにかく凄い。凄く偉い。 美しさも、知能も、戦闘能力も桁外れであると言われているが、本当のところを知っている者は僅かである。 彼か彼女かは分からぬが、神は天界の住人の前にすら姿を現す事は皆無に等しいほど稀であるし、現したとしてもその姿はいつも一定ではない。 それこそ老若男女どころか、地上にあるあらゆる生物、またはそのどれでも無い姿で現れては、何をするでもなく去っていくのである。 それゆえに神の出現に際しながら、そのことに気が付かなかったなどと言うことも侭ある。 ついでに言えば神の目的も行動理念も一切が謎に包まれていた。無論、そんなものが存在すればの話であるが。 神の行いは一見理不尽でありながら合理的であったり、やっぱり理不尽であったりする。 神に友好的でない「悪魔」と呼ばれる派閥の者たちなどは、神は何も考えてないバカ者だと嘲笑っている者もいる位である。 勿論隠れて噂する程度だ。公然と神を侮辱することの出来るものは極少数に限られる。 アスタロトもそうだし、ベルゼバブあたりもある意味そうだ。 尤も、神を純粋に愚弄しているのはルシフェルだけである。 それでも排除しないでいる現状を考えると、案外「喧嘩するほど仲がいい」というヤツなのかも知れない。 一説によれば彼らの対立は極めて予定調和的であり、その勝敗ですら出来レースであるという。 それそのものが真理であり、ルシフェルの存在は言わば必要悪であるとも。 ただ、真相は誰も知ることはなかったが。 それはさて置き、兎に角そんな謎多き存在が天界を纏めているだけでは不安だということで、実際に天界を指揮しているのが神の代理人である四大セラフであった。 かの有名なミカエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエルである。 多忙を極める彼らの仕事も無論の事多い。 特に真面目な性格が災いしてか、ウリエル辺りは今に胃に穴が空いて緊急入院するのではないかと部下たちの間で苦笑交じりに噂されるほどだ。 まぁ、他の三人が取り立てて不真面目な訳ではない。 ただ、ミカエルは兎も角としてガブリエル、ラファエルの性格にはかなり歪んでいるといって良いだろう。 特にこの男──。 「──と、言う訳でね…気が付いたらもうルシフェルは地上界、と言うわけさ。いやぁ、参った、参った」 「参ったではない…つまり、ラファエル。お前はルシフェルが地上に降りるのを黙って見物していた訳か?」 ともすれば爆発しそうな激情を、米神と一緒に何とか抑えつつ、真面目の代名詞であるウリエルが呟いた。 折角の美しい顔も眉間に刻まれた皺の所為で台無しである。 小刻みに肩が震えている原因も勿論解り切った事で、今の彼の凄絶な双眸を眼にすれば、悪魔ですら裸足で逃げ出すかというほどである。 ──が。 対峙者──ラファエルはそれほど可愛らしい神経を持ち合わせてはいなかった。 彼の対面に座し、嫌味な仕草で評判の悪い伊達メガネをくいと擦りあげる。 ついでに小馬鹿にするように鼻を鳴らした。 「なに言ってるの。ボクなんかじゃ彼は止められないでしょ?下手に手を出して痛い目に遭うのいやだし…仕方ないじゃないの。君の頭蓋骨に詰まってるのは豆腐か何か?少しは使ってやらないと腐って溶け出しちゃうよ」 何とも間延びのするだらしのない口調が鼻につく。 これが故意であるのかは余人の知る所ではなかったが、それが真実であるかは兎も角として、された方は溜まったものではない。 案の定内面の怒りのボルテージが更に一階梯上がったウリエルは額に判り易い四つ角マークを浮かび上がらせながらも、冷静に言葉を紡いだ。 これまでの経緯を考えると、中々に立派な自制心と言えるだろう。 さすが、セラフの良心といわれるだけはある。 「しかしだな…仮にも四大セラフのお前が──」 「肩書きで彼が止められるなら、最初から出ていくわけないし。かと言って彼がボクの言うことなんて聞いてくれる訳ないし。だからと言って力づくなんて問題外。ボクは体面より命が大事だね…不死身だけどさ。どっちにしてもボクに出来ることなんて何も無いの。分かるでしょ?ったく、そんな事言われるまでもなく察しなよ」 そんなウリエルの努力を嘲笑うかのように、ラファエルはへらへらと薄笑いを浮かべながら言ってのけた。 何だかんだ言っているが、本当の理由など明白なのだ。 結局の所、自分が痛い目に遭うのが嫌なだけなのと、その状況を楽しんでいるのと。 「くっ…お前は…お前と言う男は…」 「何?ボク何か変なこと言った?大体考えてもみなよ。ボクが余計な手出し口出ししたら、キレたルシフェルがどうするのか。ハルマゲドン再発なんてのも面白そうだけど、君は嫌でしょ?ただでさえ過労気味なのに、これ以上仕事増やすと倒れちゃうかもよ」 (誰の所為だと思ってる!) 一瞬そう怒鳴りつけそうになってから、ウリエルは辛うじて己のうちにその激情を飲み込ませた。 代わりに諭すように当り障りのない言葉を紡ぐ。 「……そうだな、全くもってそうだ。お前の処置は賢明だよ、この上なく」 「そう?だったら最初からそう言いなよ…全く。無駄な時間が嫌いだなんて公言してる割にはウリエルの話って意外と不毛なんだよね…ま、いいけどさ、僕は嫌いじゃないし、そう言うの。兎に角そういう事で、じゃ、もう行っていいよね?」 反省の色の欠片もないラファエルにいい加減ウンザリしたのか、ウリエルは打って変わって冷静な口調で短く「ああ」と答えた。 ラファエルはと言えば…返事も待たずにもう帰る用意をしていた。 ウリエルは怒る気も完全に失せ、我が身の境遇を呪いながら深々と溜息をつく。 どうしてこう問題児が多いのか。 せめてもの頼みの綱であるミカエルは今神の計画の責任者として任務に忙殺されている為に暫くは通常業務には戻って来られないだろう。 とは言えガブリエル──あの女も当てにはなるまい。 何時もながらふらふらして、現在の所在すら掴めなくなってしまっている。 勿論「悪魔」達が役に立つとは思えない。 元々神に対して協力的ではない彼らのことだからルシフェルと一緒に洒落にならない事を仕出かしてくれるに違いないだろう。 つまり…そうなるとだ。 ルシフェルを説得など無理なのだから強引に連れ戻すしかないとして、少しでも可能性があるのは最早自分しか残っては居ないではないか。 彼に対抗しうる人材は何故か揃って性格に問題がある。 「ふぅ…」 部屋を辞するラファエルの後ろ姿を見送ってウリエルはもう一度深い深い溜息をついた。 目の前にある問題は質も量も笑えない位に盛り沢山なのだから、これぐらいは仕方あるまい。 どの道ラファエルもただの怠け者ではない。 ある意味計算づくで上手くルシフェルを誘導してのけただろうということは、可能性としては決して低くはないのだ。 ならばその狙いが何であるのか…いまだ輪郭すら見えないが結果だけは大体見える。 非常に不本意ではあるが、何としても阻止せねばならないだろう。それすらラファエルの策略であるとしても。 「そうそう、ウリっち」 「何だ?」 去り際に、いかにもわざとらしい仕草でラファエルが振り向いた。 一瞬だけウリエルの眉が嫌そうに寄る。 呼称については色々と意見はあったが、この男相手では不毛にしかならないだろうので、それは心の片隅に追い遣っておくことにしたのだ。 賢明である。 対するラファエルは何故か残念そうな顔をして肩を竦めた後、さらっととんでもない爆弾を落として行った。 「ルシフェルだけどさ、ガブリエルちゃんも連れて行ったみたいだよ」 「な、何だと!」 思わず大声を上げてしまうが、それはこの際仕方なかろう。 ウリエルが追いすがって止めようとした時には既に遅く、ラファエルは扉も何も無い白い壁に融けるようにして消えてしまっていた。 因みにウリエルの心の方も負けずに真っ白になってしまっていたりする。 白い空間に浮いている謎のテーブルに突っ伏して、思わず出そうになる神への呪いの言葉を抑えようと必死に格闘しつつ、彼は滂沱の涙を流していた。 「……勘弁してくれ…」 はっきり言って状況は絶望的である。 ルシフェル一人でもとんでもない難敵だと言うのに、この上ガブリエルまで加わってはもうどうしようもない。 力押しもダメなら、搦め手も無理に違いない。 最強の破壊能力を持った悪魔と、天軍の軍師を同時に相手取るには自分ひとりでは相当分が悪い。 そうなると、手段はもう限られてくる。 「…かなり、気は進まないが」 暫くの後、諦めと決意を半々にしながらウリエルは執務室を後にした。 これから先に会う相手を想像するとどうしようもなく鬱々としてくるのだ。 とは言え、その人物の協力なくしてはあの二人を止められる筈もない。 それに、よく考えると今回の計画のメンバーであるリリスとタブリスも油断ならないような気がする。 そうなるとリリスにべた惚れのアダムだってどうなるか分からないではないか。 ウリエルは更に暗く沈みながら、こんな穴だらけの人選をしたミカエルを激しく恨んだ。 そんな事をしてみても、それが無駄であり、身勝手であるなどという事は分かってはいたけれど。 確かに計画遂行のためには、あのメンバーで止むを得まい。 ならばその裏をかいたルシフェル達が上手だったのだろう。 若しかすると、こんな事は最初から分かっていた事だったのかも知れないが。まぁ、今更言ってみても仕方ないのだ。 「はぁ」 多分の疲労感に見舞われながら、ウリエルは天界の何も無い白い広大な空を見上げた。
第弐話:だんす・うぃず・み
「穴倉の中で震えている臆病者たち…さて、彼らは僕に何を期待しているのかな」 確かに、死を恐れる心が希薄ならば生き残れる筈もない。 人間は脆いから、何時でも臆病で、心の底から何かを信じることも出来ずに警戒し続けていて、だからしぶとく命にしがみ付いている。 最初からそう言う風に出来ているのだから、そのことは罪でも無いし、恥でも無い。そう言うものだ。 ただ、彼らの罪があるとすれば。 彼らは決して正義などではないのであって、自らの行いを正当化する根拠など何処にも無いということだ。 そのことを勘違いして、神を呪うのは正しく罪である。 (分かっていてもどうしようもない。可哀想なウサギさんたち) 心中でそう呟きつつ、シンジは軽く失笑を洩らした。 踊らされているとも知らずに、自分は自由だと思い込んでいる水槽の中のサカナみたいな人間たちに、同情を禁じ得ない。 全ては知られている──彼らの誤魔化しも、本音も。 唯一の救いがあるとすれば、使徒は本当に使徒であったと言うことだろう。 人は愚かだけれど、少なくとも神には愛されているのだ。神の御使いに牙を向く自由を、それすら仕組まれているにしても、許されてはいたのだから。 「ところでミサトさん」 「…何?」 ミサトが振り返る。同時に向けられる憎悪に近い恐怖に、シンジはあからさまな憐れみの眼差しを向けた。 どの道この世には自由などないけれど、それをすら知らないのは憐れなのだろう。 いや、彼女が哀れなのは、知らないからではない。 知ろうとしない…知ることに恐怖しているのが、そうなのかも知れない。 だからシンジは、そっと、彼女の運命を握っているに違いない神の純真な笑顔を思い浮かべて苦笑した。 「父の所へ行くんだろう?なら、こっちだよ」 シンジはその場で踵を返すと、逆方向へと歩みだした。 ミサトはその様子に溜息をつきながらも、どの道迷ってしまったことには違いないから特に文句を言わずにそれに倣う。 けれど、彼女は既にシンジのことを信頼などしては居なかったので、こっそりとその懐にあるものの感触を確かめていた。 ひんやりとした金属の手触りは、命を奪う道具には相応しく頼もしくも思えて、それでいてこれがこんなにも無力に思えたのは初めてかもしれないと何となく思う。 目の前の少年は、何を知っていて、何をしようとしているのだろう。 それは自分にとって有益なのか、有害なのか。 「…何で知ってるの…って、聞くだけ無駄か」 「うん、無駄だよ?僕にそんな玩具は効かない」 舌打ちを一つ。 背中越しに掛けられたシンジの言葉に、自分でも理解できない焦りを覚えて、ミサトは懐に伸ばしていた指先を押し止めた。 「背中にも眼があるのね…便利な事」 「ふん、だから君は狭量だと言ってるんだよ」 「何がよ」 「さて、ね──いや、そうじゃない」 先入観のない人間など居ない。在るとすれば、それは最早常識のない真っ白な人形でしかない。 自分で考えようにも、考える為の基本的な材料すら持っていないのだから、結局は答えを導ける筈もない。 知らないものを知るのは神だけだ。 想像が創造に結びつくのも、また彼、或いは彼女の特権だが。 どちらにせよ、自分の常識の範疇で量れないものに疑いを抱かずに居られる者など人間には居ない。 だからそれを指して狭量と言うのは無理な注文と言うものではなかろうか。 「成る程、そうでも無いか」 「…?」 「つまりね。生物が現象を認識するには初期段階として感覚器からの情報摂取が必要だ。人間は特に視覚にその殆どを頼っているけれど、全ての生物がそうだとは限らないと言うことだね」 「あなたには第六感でも在るのかしら?」 そこでシンジは振り返る。 ミサトにとっては全く理解不能な、爽やか過ぎて邪悪な笑みと共に。 「くす…やっぱり君は狭量だ。実はさっきの話とその前の話は非連続的なんだよ。関連性なんてない」 「ふざけないで…からかってるの?」 「いや…結局──この世に同じ種類の生物なんて二つと居ないと言うことさ」 (同じ人間も二人は居ない──似ていても違う。結局の所、君の視野が狭いから自縄自縛してしまうんだね) 後半のセリフを敢えて言わず、シンジは軽く眼を細めてミサトの瞳を覗いた。 復讐の為に濁ったそこは、それでも潤んでいて、寂しい兎のようにしか見えない。 彼女が欲しがっているのは復讐じゃない。そしてそのことに気が付かないから、彼女は偽善者なのかも知れない。 「…憐れな事だね──吐き気がするくらい」 小さく呟いた彼のセリフを、ミサトが聞き漏らしたことは彼女にとって幸福だったのか。 幸福の定義は人それぞれだから分からないけれど、少なくとも彼女はこの時、在り得た可能性の一つが目の前で消えていくのを知る事も出来ず、その意味では確かに憐れだったのかも知れなかった。 一方その頃。 相変らず破壊活動にせっせと勤しんでいるサキエルの姿を何故かニコニコと微笑みながら見物している人影があった。 ビルの屋上のフェンスに危なげなく腰を掛けて、凡そ人類種とは思えない純白の三対六枚の翼を広げている。 年齢の程はよく分からないが、外見だけで判断すれば恐らくはいまだ成人していない、十台の少女と言えるだろう。 尤も、それは飽くまでも人間の基準による所のものであるから、本当の事は一切が不明である。 彼女は薄い光沢のある空色の瞳と、それよりも少し暗い色の長い髪を風に嬲らせている。 服装は特に変わったことのない黒いジャケットで、時と場所を考えなければさほど奇妙ではない。 因みに美しさについてはもうあえて言及すまい。天使が人の姿をとるときのそれを一々説明していたらキリが無いのである。 兎にも角にも美しく、それ以上の言葉は無意味なのだ。そしてそのことは当たり前すぎる為、大して議論の価値は無い。 人間がこの世の真理を説明することが出来ない以上、定義をそれ以上説明することなど出来はしないのだ。 「Athah Gabor Leolam Adonai」 意味不明のセリフを一つ。 いや、実際のところは「主よ。あなたは力であり、永遠である」などと言う神を称える聖句であるが。 マニアックな事を言えばそれぞれの単語の最初の文字を取りAGLAとし、召喚魔術に使用するアグラの短剣が── って、まぁ、この際そんなことはどうでもいい。 簡単に言うと、彼女はサキエルの破壊を楽しんでいるだけだ。 それ自体は、神公認の行いであるので、上述のようなセリフが出てくるのは別に問題はない。 それでもって、少し自分の名前に引っ掛けて洒落の積りなのだろう。 そう、彼女の名前はガブリエルと言う。Gabor(力)というヘブライ語に神格を表すelを付けた名である。 このelと言うのは元々はバビロニアの古神、エルが語源であったりするのだが、まぁ、要するに天使の名前付け基準その一だと思えばよかろう。 「神は我が力」と言う意味の名前の彼女は聖母マリアへの受胎告知の天使としても有名である。 その所為で人間たちには妙な人気を集めまくっているのだが、実の所かなりの放浪癖の持ち主で、その性格も掴み所が無いため、どちらかと言うと真面目なウリエルよりも悪魔たちと交友が深かった。 今回も付き合いでルシフェルと遊んでいる。 多分、もう直ぐこの騒ぎにラファエル辺りも加わって、それを必死に連れ戻そうとウリエルなんかも追っかけてくるだろう。 賑やかなのは嫌いじゃない彼女は、どうにもそれが楽しみなのだ。 勿論、それとは別にもっと直接的な原因としてルシフェルと一緒にいたかったというのもある。 何せリリスを追っかけるような形でルシフェルが下界に降りるなんていうことで気が気でなかったのだ。 別に彼女がルシフェルと付き合ってると言う訳でも無いのだが、そこはそれ、複雑な乙女心と言う奴でルシフェルの浮気を監視するためについてきてしまったと言うことである。 前回もこのようなことはあった。 その痴話喧嘩の延長線上で一度地上が滅びかけ、神に大目玉を食らったことは記憶に新しい。 尤も、本人に反省の色などなく今度は上手くやれればいいな、位にしか思っていなかったけれど。 「ルシフェル君…遅いな」 寂しそうに呟いた彼女の言葉に、サキエルの光槍の炸裂音が重なった。 戦闘ヘリがばたばたと落ちていくが、そんなことは兎も角サキエルはかなり気が気でなかったりする。 彼は、数千年前にも一度今回と似た状況があったことを思い返し、本来ここにいる筈のない最上級の上司の姿に冷汗を流していた。 ガブリエルがいると言うことは先ず間違いなく、あの最強の悪魔がいるという事である。 イヴを誘惑し、楽園を崩壊させた最悪の蛇の魔物──神を相手取ってすら一歩も引かぬその姿には尊敬の念を抱かないと言えば嘘になるが──しかし。 かと言って仕事とプライベートは混同できないのだ。 (やれやれ…今度も波乱の予感がするよ) 手を休めず、サキエルは内心で深々と溜息をついていた。 歓迎なんて欠片も出来ないに違いない、暗い暗い未来予想図に鬱々としながら。 また一機ヘリが落ちて大爆発を起こした。 操縦していたパイロットは死に際に、果たして何を思っただろうか。 「…ど、どう言うことなの、ミサト?」 赤木リツコは目の前の事態を指してそう言った。 しかし、問題はそんなことでは決して無く、冷汗混じりの珍しい彼女の表情がそれを証明するだろう。 そんな彼女の姿を見るに、ミサトは同情するでもなく疲れた表情を一瞬向けたのみであった。 目まぐるしく展開する状況に最早着いていけない。 迷う事無く歩いていたシンジが立ち止まった瞬間、エレベーターのドアが開き、中からリツコが現れたのは──まぁ、良い。 そのあとのシンジの行動が何だかよく分からなかった。 いきなりリツコの右手を掴んだかと思うと、彼女の抗議を無視してケージの方向へと手を引いて歩き始めたのである。 その間にもリツコはマニュアル通りの質問を繰り返しているが、どの言葉もシンジの耳には入っていないようだ。 黙々と歩き、今更ながら施設内を熟知した足取りで真直ぐに進んでいく。 素晴らしいぐらいに怪しいのであるが、ここまであからさまに怪しいと却って目的が分からなくて恐ろしい。 何処かの組織の息が掛かっているならそれこそ中学生と言う絶好の隠れ蓑を利用しない訳は無いのだ。 いかにも自分は不審ですと主張して止まないシンジの行動の裏には何があるのか。無論、あればの話だが。 兎にも角にも歩いていく。 意図的に複雑で、単調な構造にしてあるのも意味が無いかのごとく正確に。 正直な話、ここの構造の全てを知っていると自負するリツコですらここまで効率的なルートは設定できなかっただろう。 色んな意味で不愉快になったリツコは口を挟もうとして、シンジの横顔を振り向いた途端に押し黙ってしまった。 見とれた訳では勿論無い。いや、確かにこの上なく美しいそれは充分に観賞に堪えうるのであるが…それ以前に。 (怖い…どうして) 彼女は彼の本質を知らない。 既に食われてしまったシンジの魂の事も、月の魔物であるその正体の事も。 ただ、漠然と恐怖を感じていたのだ。 そのことが彼女にとって幸福であったのか否かは分からない。 しかし、少なくともこれから先に彼女に待っているであろう運命は決して楽しいものでは無さそうであった。 途中で、シンジが一言だけ声を発していたのを、彼女のうちどちらも聞き取れはしなかったけれど、そこには希望の欠片すらなかったのだから。 即ち──。 「君の罪は重い──故に贄に相応しい」 と。 彼女の姿は何者にも捉える事は出来ない。 人の眼にも、無骨な無機物のそれにも、確かにそこにあるという事は分かっているのにそれが何であるのかを認識出来ないのだ。 そもそもヘブライ語で「燃える蛇」を意味するセラフィムとは然様なものであるとも言うが、そんな難しい理屈はさて置き、彼女の存在を知っていたのはこの場にはサキエルのみであった。 勿論、だからと言って何かが出来るでも無い。 所詮下っ端の彼にとっては彼女──ガブリエルは手の届かない位の階梯にいる超高位の使徒であったから。 彼が直接的に命令を受けたのはミカエルであるが、そのミカエルと同格の彼女の行動は当然の事として彼の意見すべき所には無い。 もっと端的に言えば非常に邪魔だった。いや、その言い方は適切ではない。 邪魔と言うよりも…何というのか、仕事場を上司が視察に来ているようでどうにも落ち着かないのだ。 別にこのことが上に報告される訳でも無いし、この場で何をしたからといって査定に響くでも無い。 だがしかし緊張はしてしまうのである。 出来れば放っておいて欲しいものだが…彼にはそんな大それたことは言えない。 せめてもの救いは、使徒たちは人間が思う以上に階梯に拘泥せず、案外にフランクな関係を結んでいたと言うことであろうか。 かと言って己の分と言うものは忘れてはいなかったので、サキエルはぷちぷちと人間を殺戮しながら、遠慮がちにガブリエルに話し掛けた。 因みにその会話は超高速言語であり、文法は特殊な暗号化を加えた天使語だったので傍受されることは無い。 妙な所で気を遣うサキエルであった。 「ガブリエル様…今回は一体何をなさるお積りですか?」 「ん──何って…さぁ?ルシフェル君次第かな」 「ルシフェル様…ですか」 分かっていたこととは言え、サキエルはがくりと肩を落として落胆する。 どうして何時もいつも自分は貧乏くじばかり引いてしまうのだろうか。 上司同士のいざこざに巻き込まれ、一体誰の味方をして良いものやら分からなくなる。 前回は前回で神──というかミカエルの味方をして参戦したけれど、戦いが終った後にルシフェルに個人的にボコられた。 最終的には闘いでの傷よりもそっちの方が酷かったので少し後悔してみたりもする。 かと言って神に楯突くなど恐ろしい。まだ悪魔にはなりたくないし。 ただ、今回こそはどうしようか。 神は直接的には参加していないし、ミカエルだってそうだ。 さっきから気になっているのだが、地下の方からは凄まじいまでに巨大な気配が三つほど感じられる。 シナリオ通りであれば一つはリリスで、もう一つは多分ルシフェルであろう。 後もう一つはシナリオにも無いし、予測もつかない。 ただ、何となく分かるのは…最強クラスの悪魔のものだろうということだ。 もしかすると今回は悪魔勢が優勢なのかも知れない。 ガブリエルも堕天する覚悟を決めた──とまでは思わないが、それに近いことをやらかしてくれそうである。 どちらにしても痛い目に合わされるのは確実なのだから、やっぱり神に義理立てする方が良いのだろうとは思うけれど。 「はぁ…」 「どうしたの?サキエル」 「いえ…何でもありません」 溜息と同時に眼からビームを発射して。 サキエルは今後の身の振り方について、真剣に検討を始めていた。 ケージにあるLCLのプールの中から、紫色の巨人が彼を見ていた。 彼が、では無い。巨人の方こそが彼を見ていたのだ。 彼は──シンジはその視線に違和感と微かな懐かしさを覚えつつ、ミカエルの計画には無かったそれに興味深げに頷いた。 予定とは大きく違う…本来このような抜け殻が持つにしては、余りにも強烈過ぎる溢れんばかりのこのエネルギーは── 「…まさか──ん?」 「久し振りだな、シンジ」 ふと、巨人に見入っていたシンジに向けて、上方から無遠慮な声が掛けられる。 一瞬だけシンジはそちらの方を見遣るが、直ぐに巨人の方に眼を戻した。 ある意味で予想通りで、予想外な彼の態度に、ミサトは渋い顔を隠しきれない。 助け舟を出そうとして思い直す。そんなこと、彼女に出来る筈も無かったと思い出したからだ。 「──出撃」 無視された当人──ガラス越しの総司令碇ゲンドウは、余裕があるのかはたまた余裕が無さ過ぎるのか、そのことは全く気にせず続けてみせた。 タイミングを計って出てきた割に反応が無くて不機嫌なのかも知れない。 しかし…。 「……ふん」 矢張り反応は無かった。何気に沈痛な空気が辺りを支配する。 シンジは最早そちらを全く気にする事無く、相応しいようでいて、全く関係のない一言を叫んだ。 「気付かれて無い積もりか?いい加減に出て来なよ」 「…何?」 根負けしたのはゲンドウの方であった。 シナリオ通りに進まないだけでなく、シンジが余りにも訳の分からないことを喚き始めて少し混乱している。 拒否されたり尋ね返されたり、或いは罵倒されたり嗤われたりするのであれば──不愉快ではあるが──まぁ、許容範囲と言えよう。 だがしかし…。 (…出て来い?) さすがにその反応は予想だにしなかった。当たり前であるが。 しかし、それはそれとしてシンジは何を言っているのであろうか? ただの臆病者であれば問題は無い。が、これまで覗いていた彼の行動を鑑みるに、全く意味のない発言には思えない。 では、一体何を意味するのか。 「シンジ、何を──ぐっ!?」 痺れを切らしたゲンドウが再度声を掛けようとした、その刹那に。 暗闇よりも尚暗く、死よりも恐ろしい恐怖を伴った赤光が弾ける。 この時に、それを直視してしまったリツコが何かを呪ったのは、既に手後れに過ぎなかった。 眼前に浮かび上がった名状しがたい曖昧な何かに、彼女はらしくなく甲高い叫び声を上げる。 「ひっ…いいいIい゙いいいぃい!!」 生贄の彼女は誰よりも心を犯されていた。 人間の闇の底まで見尽くしたと思っていた筈なのに、最早罪に塗れた自分が、今更に罪を恐れるなどと思ってはいなかったのに。 その圧倒的なまでのイメージは、彼女の深層意識の果てまでも追い縋って、容赦なくこころを貪り尽くす。 ただ怖くて、泣き叫びたくて、それなのに何故か魂が歓喜している。 真実はこんな所にあったのだと、こんなにも身近にあったのだと。 いままでの人生の全てが色褪せて、どうしようもなく詰まらなく思えて仕方なくなる。 どうしてこんなことに気が付かなかったのだろう? どうしてここに辿り着けなかったのだろう? ”何度も何度も繰り返して、そのたびに私は絶望してきたのに!” 「あ…あぁ…ああ゙ああぁあああAAAあ」 開かれた原始の記憶の扉の中を覗いて、彼女は絶望と希望の叫び声を上げた。 何故ならば彼女は思い出してしまったから。この世界の真実を。 箱庭に過ぎなかったこの場所の、全ての営みの虚しさを。 こんなものに縋り付いて、自分たちはもっと大きな何かを無くしてしまっていて── そんなことを言ってみてももう手後れだと、嘲るようなシンジの姿を認めた瞬間、彼が最後の言葉を重ねた。 「さぁ、出てくるんだ──べリアル!」 瞬間。 紫色の巨人の額にダビデの星が浮かび上がり、その中心部から粘ついたゲル上の黒い液体が吹き上げる。 液体はシンジの三歩先の上空で何度か伸縮を繰り返すと、おぞましい音を立てながら人型をとり始めた。 召還の贄となったリツコは虚ろな眼差しでそれを眺めているのみだ。 ミサトも、ゲンドウですらも声を失い、その場に居合わせた職員の殆どが為す術も無くそれを呆然と見守っている。 気の弱い者は気を失ってすらいたし、余りのグロテスクさに嘔吐している者もいるほどである。 ただ一人シンジのみが狂気にも似た喜悦の笑みを浮かべ、声にならない何かを口ずさんでいた。 眼前の肉塊はゆっくりと輪郭を明確にしていく。 その不気味な原材料に全く反比例するように、余りにも美しい魔貌を為しながら。 浅黒い肌に夜色の瞳と髪。 背中には梟を思わせる分厚い六枚の羽を広げ、両の額の辺りからは見事な角を生やしている。 その衣もまた漆黒。 ルシフェルよりも更に深く、底知れぬ暗さを秘めたその存在を、人類は嘗て「闇の御子」と呼んで畏怖したのである。 光など何処にも無く、冷たいだけのその全ては、矮小な人にとっては恐怖の具現以外の何者でも無い。 ケージに恐るべき沈黙が降りた瞬間に。 彼は──悪魔べリアルは僅かの哀れみと純粋な愉悦の哄笑をあげた。 罪に染まりきった我々への、最後の罰であると言うのですか? 哀願は、誰のものであったろうか。 「あ〜らら」 暫く飛び回っていたのにも飽きたのか、ガブリエルは今はサキエルのヌルついていそうな肩に腰掛けていた。 自分など及びもつかないくらいの位置にいる上司を振り落とす訳にも行かず、当然の事としてサキエルの破壊活動のほうは停滞中で、国連軍がしきりに首を捻っているのは余談ではある。 大体にしてサキエルの関心は最早そっち方面になど無く、使徒の持つ全てを見通す千里眼によってケージの様子に注目していたのだが。 「これは…大番狂わせよね」 「ええ…まさかこう来るとは」 因みにこれは先程の出来事に対する評価であるが、無論、悪魔があの抜け殻に張り付いていたこと事態に驚いていた訳ではない。 あれほどの力のあるものが近くにいたのだから気が付かぬ筈は無いし、前にも述べたようにそれは分かっていたことである。 問題はそれが誰であるかを特定できなかったと言うことで…大体の予想はしていたのだが、その人物と異なっていたのが原因である。 悪魔べリアル。 人間界でもかなりの知名度であると思われるが、実際のところ彼自身はそれほど目立ったことを好む性格ではない。 何か起きればその時になってから便乗するタイプなので、まさか彼が最初から関わってくるなどと思ってもみなかったのだ。 サキエル個人の予想で言えば、漠然と「多分ベルゼバブ様かな?」と思っていた程度なので矢張り驚愕の度合いが大きい。 何故ならば、ベルゼバブは何にでも首を突っ込みたがるが、引き際だけは弁えている。 その辺が彼ら悪魔連中にしては安心してみていられる希少な存在でもあったのだが、残念ながらべリアルはそれと真逆なのだ。 つまり──余り人のする事に興味は持たないけれど、一度何か始めると笑えないくらいに一途なのである。 身も蓋も無い言い方をすれば彼は下らないことに一生懸命になれる性質の悪いタイプであった。 ついでにもっと悪いことに、奇妙な処でルシフェルと意見が一致したりして、彼らが鉢合わせた大体の場合において手がつけられなくなる。 ので。 「ガブリエル様…最早事態は私の手に負えない域に達しつつあるのですが、帰っていいですかね」 無駄だとは知りつつも、サキエルは右肩の上司を縋るような瞳で見詰めて請願してみた。 「ダメ…面白いから」 やっぱり無駄だったのだが。 サキエルは諦めの境地の半歩手前の溜息をついた。 どうやら彼の不幸はこれからのようである。 再び舞台は移り、静寂で充満した何故か薄寒いケージ。 シンジは──ルシフェルは静かな口調でそれに声を掛ける。 「久し振りだね。何をしていたの?」 「魔女の欲望を叶えるのがオレの役目──いや、楽しみだ」 「へえ、魔女は何を望んだの?」 「愛し子との再会を」 「では君は、憐れな母の願いの代償に、何を奪ったの?」 「希望を」 その答えに、ルシフェルはついに堪えきれずに大声を上げて笑った。 踊らされていたのは自分だったと、漸く気が付かされていたのだから。 人類は既にベリアルの呪いによって未来を奪われ、救いの欠片すらも残されていなかったのである。 人類補完計画は、いや、その破綻こそが、そんな人間を憐れんだ神の最後の救済処置だったのかも知れない。 ならば、シナリオに無い自分の存在こそが、逆説的には彼らにもたらされた希望かも知れぬでは無いか。 「謀ったのはラファエルか?…ちっ」 ミカエルのシナリオでは人は救えない。何故ならばこの世界は現実に、悪魔に呪われてしまっているのだから。 それすらダミーであるならば…では、神は一体何を考えているのであろう。 どちらにしても面白くない。最強の使徒たる自分を、このように愚弄するなど、如何に神とは言え許されるものではないのだ。 「ふざけた真似をしてくれるね…神め!!」 相変らず堂々と神への冒涜の言葉を口にしたルシフェルの姿を、べリアルは愉快そうに眺めていた。 どうやらまた楽しいことが起こりそうな予感がする。 嘗て彼が天軍の長の座を追われた直接の因となったあの戦いは全く持って素晴らしかった。 老いることも無く、死ぬことも無い彼らの単調な生活の中で、闘いとは数少ない潤いの一つだったのだから。 尤も、神がそれを良しとしない為に、このようなイベントはルシフェル辺りが暴走しない限り滅多に起こり得なかったのだ。 「ははははは!いいぞ、ルシフェル!お前は全く面白いヤツだ!!」 茫然自失の人間たちをぐるりと見回して、べリアルはもう一度大声をあげて笑った。 続くんでしょうか?(笑) 後書き by XIRYNN うぅ〜む…これは、ギャグ、なのか? 最早自分でも理解不可能。いっそこう言うものだと割り切ってしまいましょうか。(笑) それにしても、オリキャラ出しすぎですかね?すみません…趣味なんです。 |