中天に浮かぶ月を眺めていた。
晧々と、真円を描く。
その妖しくも美しく、そして恐ろしい狂気の象徴が、オレの頬を照らしている。
広すぎる屋敷の庭で一人佇みこうしていると、どこか別の世界に迷い込んだような気がした。
多分それは、おぞましく、美しい世界で──
否。
オレはきっともう既に別の世界に来てしまっているのだ。
三年前のあの事故以来、オレは家族を無くし、そしてオレをさえなくし、今はここで生かされている。
勿論、境遇に不満がある訳じゃなかった。
主となった人も、同僚も良くしてくれるし、何よりもここはオレを苛まない。
でも、逆にそれが苦痛なのかもしれない。
「……何時の間にか、わたしは……」
何かを言いかけて、言葉を呑み込む。
結局は、オレ自身でさえ何故そうしたのかも、何を言い掛けたかも曖昧なままだったけれど。
思わずオレはそっと笑みを洩らした。
「──こんな所に居たのか」
「……!」
刹那に。
背後から予期しない声が掛かった。
オレは思わずびくりと肩を震わせて、それでも静かに振り返る。
月を背にして、影はオレの前面に落ちた。
その影の先、平均よりは若干背の高い痩身がこちらを向いて佇んでいる。
意識しているわけでも無いのに、最早身に染み付いたような教育の所為か、”彼”はぴんと背筋を伸ばして真直ぐにオレの眼を見ていた。
オレはそれに苦笑しかけて寸前で思い留まると、替わりに涼やかと言える微笑を浮かべる。
応えるように”彼”も笑った。
ただ、不慣れなそれはどこかぎこちなく、むしろ皮肉げにさえ映ったけれど。
そう言う不器用な所は、可愛いと言えるかも知れない。
「……貴志様」
オレは”彼”の名前を呼ぶ。
丁度一年前から、オレの主ともなったその人の名前を。
「だから様は要らないと──」
「そうでなければ」
お決まりのやり取りをしようとした”彼”──久瀬貴志の言葉を遮ると、オレも何時もの台詞で応えを返した。
「そうでなければ……わたしはここでは必要なくなります」
ふっと、自嘲するように笑みを洩らす。
そんなオレに、貴志は何か言いたげにしながらも、結局苦笑いの内の言葉を押し込めた。
もう何度も繰り返しているやり取りだった。
「でも、困るな。明日からは君にも学校に通って貰うのだから。それでは、僕が何と言われるか」
「ですが、わたしが貴志様のメイドである、と言うことは事実です」
「……世間は、まぁ、下世話な事を想像するものさ。それだけでなく、口さがなく噂もする」
「それは、メイド、と言うものをあからさまに誤解しています」
「それはそうなんだが」
困ったように、貴志は天を仰ぐようにして頭を掻いた。
融通の利かない女だと思っているのかも知れない。
貴志はそれ以上は議論も無意味と悟ったのか、そのまま月の方へ視線を逸らした。
「貴志様」
「ん?」
「本当に、宜しいのでしょうか」
「何が」
「わたしなどを、学校に通わせて戴くことです」
「法的にも、経済的にも何ら問題はないし、君も不満な訳ではないのだろう?」
「不満など。ですが、過分ではないかと」
「そんなことはない。君にはその能力もあるし、何より君は家族だからね」
「……そんなこと……」
真剣な眼差しがこちらに向いた。
オレは何も言えずに、ただそれを見詰め返した。
月の光を受けて、少し蒼みがかったそれに吸い込まれそうな気がする。
全てを見透かすような色に鈍く輝いて、偽りに満ちたオレを射抜くようだった。
気がつけばオレは、殆ど無意識的に、微妙に視線をそこから外していた。
何時からだったろうか、オレの思考と言動が分裂を始めたのは。
心に思う言葉と、実際に吐き出されるそれは、全く同じではなくなった。
とは言え、最初からオレは偽物なのだ。
三年前のあの時から。
幸せだった筈の一つの家族は、ほんの些細なきっかけでバラバラになってしまった。
不可抗力の交通事故。
母親は即死、父親は意識不明の重体となった。
それだけではすまなかった。
オレはその時に女性仮性半陰陽が発覚し、どちらにせよ外性器の損傷も激しかったこともあって結局はそのまま女性化させることになった。
冗談のような、悪夢のような出来事だったと覚えている。
そう言うことが、現実にあるとは思っていなかったのだから。
所詮は物語の中の虚構だと信じていたことが、自分の身に降りかかったのだ。
確かに、今考えてみればオレの身体は普通の男子とは少し違っていたと思う。
とは言え、そんなことを相談する相手もおらず、無意識に個人差の範疇だと思い込もうとしていたかも知れない。
けれどオレは──女だったのだ。
あの時は本当に目の前が真っ暗になった。
多分、人生で初めて絶望と言うものを感じた。
周囲の視線に怯え、オレは眼を閉じて耳を塞いだ。
それでも、治療が進み、カウンセリングを受けるうちに、オレはオレとして生きていこうと思えるようになった。
男だとか、女だとか、そんなことを考える前に、オレはやっぱりオレなのだから。
そう言う希望をもった矢先だった。
ずっと意識不明だった父親が眼を覚ましたのだ。
事故から丁度一ヶ月。
彼にとっては眩暈のするような現実が横たわっていたのだろう。
何しろ、愛する妻の葬式はとうに終わっていて、息子が娘になっていたのだ。
そう──折角主治医に金を掴ませ、女であることを偽らせていた跡取息子が居なくなってしまっていたのだ。
オレは両親にとって、唯一にして最後の子供だった。
元々体の弱かった母親の負担を考えると、オレ一人を産むことですら危ぶまれたほどだったらしい。
だから多分、これまではとても大切にされてきたと思う。
父親の実家は閉鎖的な家風であって、子供のいない長男に代わって次男である父が遺産を手にするために、どうしてもオレという”息子”が必要だったのだと、自暴自棄の父親が語ってくれた。
もう終わりだ──父親はそう言ったけれど、多分最初から終っていたんだ。
事実を知った時、オレは吐き気を抑えきれなかった。
結局父親にとってオレはどれほどの価値を持っていたのだろう。
今となってはもう、知る術もないけれど。
あの男は、暫くたってから現実から逃げて、夢の世界の住人になった。
何がそこまでさせたのかは、分からない。
いや、分かりたいとは思わない。
あの男は、亡くなった妻とオレを区別できなくなっていって、最後には無理矢理犯したのだから。
それから二年、オレが警察に保護され、この久瀬家に引き取られるまでは地獄のような毎日が続いた。
結局はその時なのだと思う。
オレがオレのままであろうとしながら、それでも暴力に怯え、せめて言動だけでも母である相沢夏奈未を似せていたのは。
そうしたら、少なくともあの男はオレを優しく犯してくれたのだから。
何時の間にかオレは、心の中でしかオレと自分を呼べなくなった。
だから、オレは演技している訳じゃない。
口に出してみれば、オレは清楚で可憐な少女を演じてしまう。もはやそれをオレが望まなくとも。
だからもうそれがオレなのかもしれない。
そんなものが、その全てがオレを形作っているのかも知れない。
でもオレはオレを、偽物としか思えなかった。
いや、そうじゃない。
オレは本当は女だったのだから、だからあの男に仕組まれていた時点で、最初からオレは偽物なのだ。
そこまで想到して、長い思考の後にオレは溜息をついた。
「……? なんです?」
ふと、何時の間にか貴志が優しく微笑んでいるのに気がついた。
ただ包み込むように、何も言わずにこちらに眼を向けたまま。
全ての事情を知っている筈の彼は、それでもこんな風にオレを見てくれるのか。
「僕にとっても、やっぱり君は必要な人なんだよ、葉月」
貴志が、オレに与えられた新しい名前を呼んだ。
あの男を思い出させる──相沢祐一という名前の呪縛から解くように。
その名前は貴志の半分だった。
在り得たかもしれない可能性、もし彼が女に生まれていたら付けられていた名前をオレは貰った。
自然と、今度は違う種類の溜息が漏れる。
「ありがとうございます」
だからオレは、様々な思いを込めて、爽やかな笑みと共に応えていた。
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