セミダブルのベッドの中、オレは全裸でタオルケットに包まったまま、ただ天井を見上げていた。
 隣りには、やはり服を着ていない中年の男。その腕枕に、オレは頭を載せている。


「夏奈未」


 聞こえなかったふりをして、その声を無視する。
 声の主は、反応のなかったことを特に気にしていないのか、それきり繰り返して呼びかけはしない。

 空調のよく効いた薄暗い寝室は、今が真夏であることを忘れそうになるくらいに涼しく、むしろ却って肌寒いほどだった。
 クーラーから直接吐き出される冷気が剥き出しになった肩に触れるから、オレはそっとタオルケットを掛け直す。
 それに気がついてか、声の主がオレのほうへ近づいてきた。

 元々体温の低いオレよりも暖かい、平均的な人肌の感触に、けれどオレは思わずびくりと身震いをする。
 本当はここから逃げ出したかったから。でも、それも敵う事無く、結局オレはその体温の持ち主に身を委ねた。


「相変らず、お前の身体は冷たいな。どこか具合が悪いんじゃないだろうな?」

「いえ、心配要りません。いたって健康ですよ、わたしは」


 声の主は優しく微笑み、どこかおどけるように、けれど本心から気遣いながら俺に問い掛ける。
 それが却って憎々しく、おぞましく、オレは心中で思わず唾棄をする。
 けれど表面ではそれに対しオレは、僅かに微笑みすら浮かべつつ、心にも無い応えを返した。

 具合はとても悪かったから。
 もし許されるなら、この場で胃の中のものを全部吐き出してしまいたいくらい。
 今すぐにでもシャワーを浴びて、おぞましい記憶と共に、全てを洗い流してしまいたい。

 そしてその後は、手首を切ろうか、ビルの屋上から飛び降りようか。


「はは、そうだな。でも、俺は心配性なんだ。祐一に続いてお前まで亡くしたら──」

「っ……大丈夫ですよ」

「……そうだな、済まなかった」


 掛けられた言葉の内容に、知らず身体が強張った。
 飽くまで冷静に応えようとして、それも失敗する。
 そんなオレの態度を誤解したのか、声は静かに謝罪の言葉を告げる。

 耐え切れなくなって眼を閉じたら、何故だか頬を伝って一筋の雫が零れて落ちた。
 唇を噛み締めて、自分でも整理しきれない感情の波をやり過ごす。
 多分それは、怒りと憎しみと、恐怖、それから悲しみがない交ぜになっていたのだと思う。
 とにかくそれきり、どちらも口を噤み、何も言うことはなかった。

 その意味も、前提にある認識でさえ平行線のまま、まるで交わることもなく。






 気が触れそうになる。
 あの事故で死んだのは相沢夏奈未、その人で。

 オレは頭のおかしくなった実の父親に、こうして毎晩のように犯されているのだ。






 父親が完全に寝入った後で、オレは殆ど日課のようにシャワーを浴びに向かった。
 確かに今日は汗を掻いたし、あの男の側にこれ以上いるのは一秒だって堪えられなかったけれど、オレがそうする理由はもっと現実的で生々しい理由からだ。
 男と女がそう言うことをしたら、その結果何が起こるかは少し考えれば分かること。
 例えそこに愛の欠片もなくても、血の繋がった親子であっても、それ自体に当人の意思は関係がない。


「……いえ、むしろ……だからこそ」


 何かの本に書かれていたことを思い出して、オレはぽつりと呟いていた。
 そう言えば、強姦された女性は、却って妊娠する確率が高いらしい。
 襲われて、死の恐怖すら感じると、それが却って体の種族保存本能を刺激するとか、そう言う話だった。

 本当かどうかも分からない。
 ただ、恐ろしいことだと思った。
 考えるだけで吐き気がするのは、多分、オレも少し前までは男として生きてきたからかも知れない。

 あの男は、オレの気持ちを何一つ考えていない。
 妻が死んだことをいまだに認められず、自らの正常な認識さえ曲げて、彼女に良く似ているオレをただ犯す。
 抵抗すれば、暴力をふるって強引に。
 抵抗しなければ、おぞましいまでの優しさと愛情を持って。

 大体が、オレのことを自分の妻だと信じて疑わないのだから、オレが妊娠してしまうかも知れないことをなんとも思っていなかった。
 仮に妊娠してしまったとしても、あの男の中では亡くしてしまった息子の替わりに、大切に育てようなどと思ってるのかもしれない。

 そんなことを想像して、オレは寒気さえ覚えて頭を振り払った。


「何時になったら……わたしは……」


 最早なれた手つきで父親の体液を洗い流し、身体を拭いて服を着替える。
 それから自室に隠していた経口避妊薬のビンを開けると、その中の一錠を水なしで嚥下した。


「もう、死にたい」


 ここは嘘で塗り固められた偽りの楽園。
 夢の中の住人が、大罪を犯して得た幻のような。

 身を委ねてしまえば、忘れてしまえば楽になれるのかも知れなかったけれど。

 オレはまだ狂えそうもなく、終らない悪夢の中、今日も肩を抱いて眠りについた。



Be...
Sinful One


[メイド]




 はっとして眼を覚ますと、半ば反射的に目覚し時計のベルを止めた。

 午前五時三十分。
 何時もの時間。
 ただ、やはり目覚めは最悪だった。


「いやな夢。もう、忘れたいのに……忘れられない」


 それも無理もないのかもしれない。
 過去の事──とは言え、あの煉獄の中から救い出されてまだ一年にも満たないし、大体そう簡単に吹っ切れるようなことでも無いから。
 今が幸福であればあるほど、古傷がじくじくと痛むのだ。

 自分だけが不幸な訳でも無いのは知っている。
 似たような経験を持つ人が、同じ職場の同僚にも一人いる。
 ただその人と違ってオレは今日もまだ後ろ向きに生きていた。

 そのことが更にオレを憂鬱にしているのだろう。
 こんなオレを気にかけてくれる人に、迷惑を掛け続けるしかない身勝手な自分が嫌だった。


「今日から、学校」


 だからオレは不安だった。
 あれから一年が経って、もう大丈夫だと手配はして貰ったが。
 オレは上手くやっていけるのだろうか。

 三年前のあの事件以来、一度も学校と言うものに通ったことがない。
 極普通の同年代とは、余りにも異質な環境で生きてきたことは自覚している。

 周りにいる同い年といったら、男は貴志一人だけ、女は──同僚の使用人だけ。
 余り参考になりそうもない。


「まぁ、そんなことより。お弁当でも作りましょうか」


 本当は今日からは仕事を免除されている。
 でも、それがとても不安だったから、せめて毎日の弁当を作らせて貰うことで妥協したのだ。
 ただ、それは貴志にはかなり困った顔で、遠慮されたが。

 学校では知的でクールな生徒会長で通っているらしい貴志が、同い年のメイドの少女にお弁当を作らせている──などというのは、確かに色々と噂される的になりそうだ。

 でも。


「ですが、わたしが貴志様のメイドである、と言うことは事実です」


 昨日と同じ、そしてこれからも言い続けるであろう台詞を独りごちると、オレは薄らと微笑みながら厨房へと向かった。
 勿論、二人分の弁当を作るために。






 オレは準備を済ませると、学校へ向かう為、如何にもな雰囲気のする車に乗り込んだ。
 本当はオレも貴志も、こう言うのは好きな方ではなったが、何せ久瀬家の敷地は無駄に広く、家を出るまでにかなり時間を食ってしまうために、仕方がないと言えば仕方がない。

 運転手はオレが乗り込んだことを確認するとドアを閉め、一言貴志に断りを入れてからアクセルを踏んだ。
 相変らず慎重で巧みな運転だと、何となく感心してしまう。

 そんなことを考えていると。


「その荷物は?」


 その車内で、貴志がオレの胸に抱えられている荷物を見て問い掛けてきた。


「お弁当、です」

「……随分と大量だな」

「二人分、ですから」


 少し嫌な顔をする貴志に、オレは確信犯的に、屈託のない笑みを向ける。
 案の定、返ってきた最悪の応えに、貴志はこめかみを抑えつつ溜息をついた。

 そんな様子に、オレは思わず眼を細めてしまう。


「……僕は確か、昼食は学食の方で取るので必要ない、と言った筈だが」

「不要、ですか」

「まぁ、身も蓋もない言い方をすれば、だがね。とは言え、折角のものを食べないのは失礼だから、破棄はしなくて良い」


 途端に無表情になったオレに、貴志は奇妙な応えで返した。


「有難う御座います」


 それが分かったから、オレも少しだけ後ろめたい気持ちで礼を言う。

 これまでの生活で多分、オレが次に何を言い出すかが分かったのだろう。
 つまり、

”……分かりました。では、これは破棄しますね”

 と。

 極端だと思うかもしれない。
 だが、まだ自分に自身を持ちきれないオレにとっては、それが唯一の逃げ道と言えるのも事実だ。
 必要と認められなければ捨てられ、忘れられる。
 そんな馬鹿げた理屈が、いまだにオレの中では真理だったから。

 そう言う、必要、不要に拘るオレを貴志はよく知っている。
 だからオレは多分、とてもずるい女なのかも知れない。

 ──と。


「それはさて置き──葉月」


 思考の海に沈みかけたオレの意識を、寸前で貴志が引き戻した。
 オレは思わず腕の中の弁当を虚っと抱き締めると、殊更平静を装って顔を上げた。


「言い忘れていたが、その制服、良く似合っているよ」

「……有難う、御座います」


 何を言い出すかと思えば。

 誉められて嬉しくない訳ではないが、正直オレはこの制服は好きになれない。
 というより、デザインした者の正気を疑ってしまう。完全に趣味としか思えなかったから。
 尤も、それは普段属性が付いていそうな服装──メイド服を着用しているオレが言うべきことではないのかもしれないが。

 だが、問題はそれだけじゃなかった。デザイン面は兎も角、機能面でも不満はある。
 大体この服は寒い。こんな雪国で採用されるべき制服じゃないと思う。
 元々寒がりな体質なオレには、かなり堪えるのだ。

 スカートは異常に短いし。
 オレはつい、深々と溜息を洩らしていた。


「不満そうだな。うちの学校の制服は、確かそれなりに人気があったと思うんだが」

「……誰に、です?」

「一度、生徒会で学校の備品や制服についてのアンケートをしたんだよ。そうしたら、制服については殆どが好意的な回答をしていたからね。勿論、男女共に」

「そう、ですか」


 それは信じられない。
 男子生徒が喜ぶのは、まだ分かる気がするが……女子生徒は、こんな身体の線が出て、露出度の高い服装をなぜ気に入るのだろうか。
 いまだに、本当の女の気持ちは良く分からない。


「何が気に入らないんだ? ──いや、否定派の意見も聞いておきたくてね」

「……寒いから、です」

「……そうか」


 真剣な口調で堪えるオレを、きょとんとした眼で見詰め返し、貴志はふっと苦笑を浮かべた。






 そうこうする内に、車は最後の交差点を抜け、丁度校舎がよく見える道に出た。
 もう五分としないうちに到着するだろう。

 これから行われる予定の事を脳内でもう一度シミュレーションしてみる。
 とりあえず、書類の類は全て向こうに言っているらしく、オレの境遇についても校長と担任含む一部の教師には説明済みと聞いた。
 だから、後は普通に転校生として振舞えば良いだけだ。

 それでも、緊張と不安は膨れ上がるばかりだった。
 その普通の転校生というものがどんなものなのか、そもそもそれをよく知らなかったのだから。
 中学一年生までの知識はある。でも、多分今とは状況が違うのは想像に難くない。

 今年高校を卒業したばかりの同僚──村瀬由貴からは、あることないことを吹き込まれてはいたが。
 彼女曰く、

 ”高校生くらいの男子は、転校生と言えば美少女だと信じて疑わないものなの。あんたは……いかにもって言うか、とにかく気をつけるのよ?”

 とのことだった。

 漫画じゃあるまいし。
 とはいえ、確かにそう言う傾向はあるかもしれない。

 そんなことを考えていた矢先、貴志がふと思い出したような口調で、昨日から何度も繰り返されてきた注意を口にした。


「葉月。何度も言うようだけど、義理とは言え法的にも君は僕の正式な従妹なんだ。だからあまり──そう、変なことは言わないで欲しい」

「と、いいますと?」

「君が僕のメイドだ、とかね。貴志様、というのは──もう諦めているが、しかし、普通従兄妹同士で相手をそう呼んだりはしないだろう」

「問題、ですか」

「……僕は分かっている。でもね、端から面白おかしく噂する分には、絶好の材料になりかねない。そうすれば、傷付くのは君だぞ」

「……」


 そうかも知れない。
 男と女。恋愛とか、性にも一番感心がある時期だろうから。
 御主人様と、メイド、などと言えば間違いなくそう言う想像をしてしまうのだろう。
 貴志の事を考えるなら、それはきっと迷惑にしかならないのだろう。

 でも。


「ですが、わたしが貴志様のメイドである、と言うことは事実です」


 しつこいくらいに、何かの呪文のようにオレはその言葉を唱えた。






 分かってはいる。
 そうでなくとも、貴志はオレを不要とは言わない。
 ただ、オレが怖くて仕方なかっただけだ。
 必要な理由を、分かりやすい形で欲しかっただけだ。






 学校に到着したあと、オレは職員室で自分のクラスを聞いて、そのまま担任に案内されて教室へ向かった。
 残念ながら、貴志とは違うクラスになったけれど。

 ホームルームが始まると、担任は事情を知っているからか、不必要に煽ったりもせずオレを教壇の前に連れて来た。
 転校生の物珍しさか、教室は奇妙な沈黙に包まれる。

 オレはその殆どが好意的な反応だったことに安堵して、心中でそっと胸を撫で下ろした。
 勿論、中には気味の悪い舐めまわすような視線も混じってはいたのだが。

 とにかくオレは、一つ深呼吸をして、自分でも若干硬いと思える、少しはにかんだ笑みと共に言葉を紡ぎだした。


「初めまして、玖堂(くどう)葉月です」






 終ってみれば、中々上手く自己紹介できたように思う。
 名門である久瀬の親戚筋だけあって、何となくこの玖堂という苗字は物々しい感じがして、少し興味を持たれたようだったが。
 その他は、ありきたりの質問にありきたりに答えて、緊張していたのが拍子抜けしたようにあっさりと受け入れられてしまったようだ。

 ホームルームが終了すると、担任は無駄な話をすることもなく去っていった。
 ガセだとは思っていたが、やはり同僚の由貴の言っていた、”教師は須く無駄話が大好き”というのは嘘だったらしい。

 オレは何となく、気付かれない程度の笑みを浮かべた。
 ──と、その時。


「ちょっといいかしら」

「はい、何でしょう?」


 声を掛けられ、オレが振り返ると、そこには少し大人っぽい雰囲気をした、ウェーブのかかった髪の少女が立っていた。
 その隣りの机には、まだ朝が早いからか、何故か妙に眠そうな眼をした少女が項垂れている。
 微妙にシュールな感じの光景かも知れない。

 オレの視線に気付いたのか、立っている方の少女が困ったように肩を竦めた。


「あ、この娘のことは気にしないで。何時もの事だから」

「う〜、酷いよ、香里」

「……香里?」

「ええ、私の名前よ。美坂香里。香里でいいわ。こっちの娘が名雪よ」

「水瀬名雪だよ〜。よろしくね。あ、わたしも名雪でいいよ」


 二人が自己紹介をする。
 美坂香里と、水瀬名雪と言うらしい。
 香里は少し冷たくも思える口調で、名雪はやはり妙に間延びのする口調だった。
 それが一見したイメージ通りだったので、オレは軽く笑みを浮かべる。

 ただ、何かが引っかかった。
 やり取り自体は、別段普通のことだったが、オレは何か奇妙な違和感を感じたのだ。

 多分、水瀬名雪──その名前をどこかで聞いた事がある気がしたからだろう。
 それが何かは、今ひとつ曖昧で、思い出すには至らなかったが。


「……はい、香里様に名雪様、ですね。わたしは葉月と呼び捨てください」

「え? 様……は、要らないんだけど」

「わたしも、呼び捨てでいいよ」


 何時もの調子でオレが応えると、案の定香里と名雪は困ったような顔をした。
 まあ、そうかも知れない。普通は、自分の名前を様付けで呼ばれた経験などないだろうから。


「あの、気を悪くしないで欲しいんだけど、もしかして葉月って、その……お嬢様なの?」

「……何故です?」

「今日学校に来る時、偶然なんだけど、久瀬君と一緒に車から出てきたのを見掛けたから……そうかなって」

「え、そうなの?」


 そう言うことか。
 多分、香里が話し掛けてきたのは、そのことを質問する為だったのだろう。
 貴志は生徒会長だといっていたし、久瀬家は地元でも有名なのだから、気になるのも分かる気がする。

 その車で一緒にきたのだから、オレがその親戚筋の令嬢なのだと思っても仕方ない。
 実際、法的には、それはあながち間違いと言うわけでも無いのだから。


「……なるほど。ですが、違います」

「違う?」

「はい。わたしは──」


 そこで一呼吸おいて。
 脳裏に苦笑する貴志の顔を思い出し、少し躊躇った後に。


「わたしは、貴志様にお仕えする、メイド、ですから」


 オレは聞き耳を立てているクラスメートにも聞こえるように、はっきりとした口調で応えた。



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後書き by XIRYNN

メイドさんですか? メイドさんです。
萌え?(笑)
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