「……で、こうなったのか」


 その、ある意味において凄惨とも言える光景をぐるりと見渡し、貴志が渋い顔をして唸るように言った。
 確かにその気持ちはオレにも良く分かる。
 本当に、一体何がどうしてこうなってしまったのか。


「あははーっ、今日は大勢でお弁当ですねーっ」

「……みまみま」

「はぇ? 舞ー、一人で全部食べちゃダメだよーっ」

「……はちみつくまさん」

「はちみつくま、さん?」

「あははーっ、舞は分かったって言ってるんですよーっ」

「……そう、ですか」


 頭の中身が少し心配なくらいにハイテンションな倉田佐祐理と、全く空気を読もうともせずに只管弁当を頬張る川澄舞。
 この二人の会話は聞いていて頭が痛くなる。特に川澄舞の言葉は、そもそも何語を話しているのかすら判別できない。

 果たして”はちみつくまさん”とは如何なる生物なのか。何故それが肯定の意味を持つのか。何かの暗号だろうか。
 倉田佐祐理は倉田佐祐理で、本当に理解できているのかも怪しいし。適当なことを言っているだけという可能性も無きにしも非ず。


「うはは。もうね、最高としか。これで久瀬さえいなければなぁ」

「他人の弁当に集るだけの君に、そんなことを言う権利があるのか?」

「何だ? メイドさんに弁当を作らせてるような奴が言うな」

「偏見に満ちた物言いは止めてもらおう。それに、これは葉月が自発的に用意してくれたものだ」

「ってか、美味いよ、この何だかよく分からない肉っ」

「……あっさり無視してくれるな」

「ですから、それはただの鶏肉です」

「そうそう、この何だかよく分からない鶏肉がね。なまらうまいべ?」


 後、北川潤という名前のバカが一人。
 それから、貴志。

 とにかく異様な取り合わせだった。
 どうしてオレ達は、こんなメンバーと弁当を食べる羽目になってしまったのだろう。


「……葉月?」

「いえ。世の中侭ならないものだ、と」

「……まぁ、そう言うな」


 貴志のその言葉さえも、白々しく思えた。
 大体にして、初対面の人間同士が集まって楽しく食事になっていること自体が異様だ。


「ふぅ……」


 今日何度目になるかも分からない溜息が、もう癖になりつつあるような気さえしていた。



Be...
Sinful One


[お弁当(3)/I am happy.]




 時間は十分ほど遡る。






 貴志と一緒に弁当を食べたい。
 ただそれだけのことに、どうしてこんなにも障害が多いのか。


「──ですから、舞はそんなことしません!」

「だから何も僕は川澄さんが犯人だといっている訳では──」

「それも舞を疑ってるからでしょう?」

「そんなことは──いや、そう……かもしれない。確かに完全に否定は出来ない。でも実際に彼女には不審な点が幾つかある。勿論それだけで結論は出来ないから、だからこそ僕は直接彼女に話しを聞こうと」

「必要ありません。舞が無実だということは佐祐理が保証します」

「保証するといわれても……そうではなくてですね。倉田さん、僕はただ──」

「だから生徒会から呼び出しですか? でもまるで尋問です、それじゃ」

「しかし、このままでは同時に彼女の潔白も示せませんよ」

「証拠も無いのに、舞が疑われること自体がおかしいです」

「あぁ……だからそれは目撃証言があって」

「勘違いかも知れないじゃないですか」

「だからそれをハッキリさせようというんです」

「だから舞はそんな事をする子じゃないんです」


 そう言って互いに一歩も譲らないとにらみ合う。
 半歩づつ譲れば道は開けるのに、何が邪魔しているのだろう。
 勿論事情の分からないオレには何か適当な解決策を提示することも出来なかったけれど。

 何となく貴志が嬉しそうな様子だったというのもある。
 そうして結局、珍しく貴志の方が彼の敵対者から先に目を逸らしてしまったのだ。


「く、倉田さん。僕も川澄さんの無実を証明したいから敢えて不本意な事を言っているんですよ?」

「佐祐理には久瀬さんの言うことはもう信じられません」

「そんな……」


 今日の貴志は少し情けなかった。






「……何時まで、続けるんでしょう」


 生徒会室に何故かあるソファーに腰掛けてお茶を飲みながら、それでも続く不毛な議論に溜息を吐いた。
 弁当は確かにこれ以上冷めたりはしないけれど、短い昼休みが刻々と無為に過ぎていく。
 折角作った弁当が食べられない。そもそも、あの倉田佐祐理と言うらしい女生徒は何者なのだろうか。

 話から推測するに、倉田佐祐理の友人らしき川澄舞と言う人物が何やら嫌疑を掛けられていて、その処遇について貴志と倉田佐祐理との間で意見の相違があるらしい。どちらかと言えば、相違というよりも根本的な部分で噛み合ってない感じもするけれど。

 貴志は何時もとは違って酷く弱腰で、倉田佐祐理のほうは頑ななまでに川澄舞への嫌疑自体を否定しようとする。
 問題の本質は良く分からないけれど、貴志の口振りからしてその川澄舞がここへ来て無実を訴えれば一先ず納得ということになるのではないのだろうか。
 それをしないのは、倉田佐祐理が川澄舞に嫌疑が掛けられていること自体をひどく不本意に思っているからなのか。

 それはある種のプライドのようなものなのだろうか。
 よく分からないが、そんなものはオレにとってみればとても些細な事に感じられたけれど。
 それでも人にはそれぞれの拘りと言うものは確かにある。それ自体に対しては、オレには何も言えないのかも知れなかった。


「──ところで」


 まぁ、それはそれとして。
 もう一つ納得のいかない事態が目の前の存在の行動だった。


「何をしているのですか? それ以前に、貴方は誰ですか?」

「ん? 俺か? 見ての通り北川潤様だが」

「…………」


 どうやら頭の可哀想な人だったらしい。
 曲がりなりにも普通高校の入学試験にパスしたのだから基本的な国語能力はあるのだとして、つまり恐ろしく視野の狭い人なのだろう。
 でなければ先ほどの発言はあり得ないし、それ以前に勝手に人の弁当箱を開けたりはしないだろうから。


「おう、これは美味そうだ。さすがに美少女の弁当は違う」

「それは、貴志様のお弁当です。貴志様を美少女、と表現するのは、難しいでしょう」

「あら? これは……えぇと?」

「?」


 かなり可哀想な彼──北川潤はそのまま何か言葉を続けようとして口篭もり、尋ねるような視線をこちらに向けて来た。
 何を言いたいのだろうか。流石にオレも彼の珍奇な発言を上手くフォローすることは出来そうには無いのに。


「いや、名前。君の。出来れば教えて欲しい。俺も名乗ったし」


 すると彼はオレの困惑の表情を読み取ったのか、そんな事を言ってきた。
 あぁ、そうか。オレの名前が分からなかったのか。
 それも当たり前だ。オレ達は初対面なのだから。
 そんな相手の弁当を勝手に開けたり出来るこの男の頭の中身をこそ、開けて覗いてみたい。

 少し迷った後、隠すのも無意味と思って名を名乗ることにする。
 人の名を尋ねる時は先ず自分から、とは言ったものの、その逆はどうだろうと首を捻りつつ。


「……玖堂葉月です」

「うん、玖堂さんね。で、この弁当は玖堂さんのじゃないの?」

「そうでもありますが、主に貴志様のものです」

「ん、いや、確かにかなりの量だな……というか、貴志様って何者だ?」


 お前こそ何者かと聞きたいけれど。
 話の通じない相手には慣れているから、オレは特に追求はせずに答えた。


「久瀬貴志様。あちらにいらっしゃる生徒会長です」

「生徒会長。あー、久瀬のことね。──って、ちょっと待て? では何か? 奴は君のような女の子に弁当を作らせている上、自分の事を貴志様とか呼ばせているのか!?」

「……わたしは、貴志様のメイド、ですから」

「め、メイドさんですと!?」

「……っ」


 教室でのことを思い出し、少し迷った後に矢張りオレがそう告げる。
 すると予想に反し、北川潤は絶叫と共に突然立ち上がり、やたらとオーヴァーリアクションに天を仰いだ。
 もはや──というまでも無いかもしれないが、兎に角オレには理解不能だった。

 オレはそんな彼の様子に、しかし不思議な感慨を覚えていた。
 これも新鮮な反応だ。単純に彼の思考が変だというのではなく、もしも殊更に道化を演じているのだとしたら。
 勿論そんな風には見えない。オレから見て彼はただの奇人に過ぎない。
 けれども、彼のことを憎めないと思ってしまったのもまた本当なのだ。

 客観的にも、彼の行動は配慮に欠いているし、何よりその原理が異常に思えるというのに。
 オレはこの少年の事を、殆ど肯定的に評価しようとしている。


「……北川様?」

「ぬぅ!!??」

「ぬ? ……何です?」

「あ、いや……少し感極まっていただけだ。それより俺のことは潤様で良いぞ」

「そうですか、潤様」

「のぉ!!??」

「の? ……何です?」

「あ、いや……かなり感極まっていただけだ」

「そうですか」


 ……やはり、ただのバカなのかもしれない。






「それで、一体何の積りです?」


 暫くして、落ち着いたらしい潤に尋ねる。
 何故か興奮を抑えきれないように肩で息をする彼はまるでドラマにでも出てきそうな変質者のようだったが、それは特に気にしないことにして。


「何が?」

「勝手に貴志様のお弁当を開けたことです」

「あぁ、そのことか、うん」


 他に何があるというのか──いや、よく考えてみれば彼の行動は色々とツッコミどころ満載だったような気もするけれど。


「はい。余り良い趣味、とも思えませんが」

「いや、中々のセンスだと思うが。色合いとか、おかずのバランスも。と言うかこの何だかよく分からない肉が美味そうだ」

「論点が違います。それと、それはただの鶏肉です。怪しげなもののように、言わないでいただけますか。それ以前に貴方は、何だかよく分からないものを、美味しそうだ、と思えるのですか」

「何と言っても北川潤は漢と書いておとこでござるからな」

「…………そうでござりますか」

「うむ。にんにん」

「…………」


 この男は、果たして本当に地球人類なのだろうか。
 何か根本的に種族が違うような気もする。真剣に。


「で、何のつもりかという話だが」

「はい。何の積り、だったのですか?」

「詳しく話せば少し長くなるぞ?」

「どうせ暇ですし。構いません、少し位は」

「そうか……分かった。そうだな、あれは十年前、茹だるような熱い夏のある日の事。当時まだ小学生だった俺は山へ芝刈りに出かけたんだ」


 何故か潤は遠い目をして話し始めた。
 いきなり作り話くさい上、恐ろしく長くなりそうだった。


「しかし山へ出かけても芝などない。て言うか、そもそも芝って何なのか分からなかっただけだが。仕方がないので俺は町で芝を刈ることにしたんだ」

「町で、ですか?」

「あぁ、あのころの俺にとっては命がけだったさ。奴は強かったよ」

「?」

「ああ、三丁目の爺さんの所の次郎だよ、うん。今じゃもう奴もよぼよぼだけどな」

「……まさか柴犬を?」


 柴(犬)狩り。
 色んな意味で問題がありそうだった。


「ふっ、あの頃は若かったのさ」

「問題はもっと根本的な部分にあるような気がしますが」

「で──その時だ、川で洗濯をしていた俺の目の前に──」

「芝刈りをしていたのでは……いえ、続けて下さい」

「ん? そうか? まあ、その時だ。川で洗濯をしていた俺の目の前に、大きな桃がどんぶらっこっこ、どんぶらこっこ──ん?」

「?」

「どんぶらこっこって何よ? いや、マジで。特にこっこ」

「…………矢張り簡潔に願います」

「女の子の弁当を食ってみたかったんだ」


 とても短かった。
 そんなことだろうとは思ってはいたけれど。
 それにしても。


「……まさか、十年前からそんな事に拘っていたのですか」

「微妙に違うが。まぁ、それはいい。とにかく腹が減ってたんだ。朝から何も食ってないし」

「朝から?」

「今日起きたら12時過ぎだったんだよ。これで職員室行ったら色々うるさいし、久瀬に何とかして貰おうと思ってここに来たんだ」

「? 意味が、よく分かりませんが」

「あー、つまり。うちの生徒会って権力が強いから遅刻届くらいは処理してくれるんだよ」

「? はぁ、そう、ですか」


 今ひとつ学校のシステムというものを把握し切れていないオレには、完全に得心はいかなかったが、それでも何となくは分かった。
 つまり、遅刻時の諸手続きは職員室だけでなく生徒会室でも行うことが出来て、どちらかと言えば相手が同じ生徒である分こちらに任せた方が気が楽だということなのだろう。
 ただ、貴志の性格を鑑みるに、本当にそう言いきれるものかは疑問ではあったけれど。


「それで空腹だった、と?」

「うむ。お腹と背中がくっ付きそうな所、見慣れぬ美少女が弁当を前に寛いでいる。これはご相伴に預からねば、と」

「……どう言う理屈、ですか。それに、わたしは美少女、ではありませんし、貴方にお弁当を提供しなければならない義理、もありません」

「そんな事はない。君が美少女でなかったら誰が美少女だ? そして美少女は須く優しい」


 彼の思考は相当に病んでいるらしい。
 オレは内心で溜息を吐きつつも、未だに収拾の兆しを見せない議論を続ける倉田佐祐理のほうへ目を向ける。

 それにつられて潤の視線が移動したのを確認して、オレは努めて冷たい口調で答えた。


「美少女、というのなら、彼女などがそう、でしょう。優しそうですし」


 少なくとも友達思いではあるだろう。
 貴重な昼休みの時間を割いて必死で川澄舞という人物を弁護し続けるくらいには。


「倉田佐祐理先輩か。むぅ、確かに美少女だな。俺的学内美少女ランキング堂々の一位だ。勿論優しい。俺が電話番号を聞いても”死ね、この豚が”とも言わなかったんだ。あまつさえ、”あははーっ、知らない男の人には教えられませんよー。一昨日来て下さいねー”と優しく微笑んで注意してくれたからな」

「……そうですか」

「だから彼女には感謝してるんだ。何で誰も俺に電話番号を教えてくれないのかの謎が解けた。ちなみに豚云々は実話だ。とあるクラスメートに容赦なく言われたことがある。流石のオレもへこんだね」

「…………そうですか」

「む、俺をバカだと思ったりしてないか? そんな事はない。俺のクラスメイトに斎藤って奴がいるんだが、コツはもっとバカだぞ? 一年の時に電車で痴漢疑惑を掛けられたことがあるんだ。奴の身の潔白はその場に居合わせた俺が保証するが、あの時の奴のリアクションはフォロー出来ないな。『この人痴漢です』って言われてなんて答えたと思う? バカだぜ? 『ずっと前から好きでした』だ。 そのまま駅員に連行されて停学一週間。そのことが学校で噂になって入学三ヶ月であいつの青春は終わったさ。ちなみに痴漢したのも噂を流したのも斯く言う俺だが──おっと、今のはオフレコで」

「……………………そうですか」


 もはや心中で突っ込む気力も失せていた。
 しかし、潤の言葉だけ聞くと倉田佐祐理さえも頭の弱い可哀想な人に思えるのは何故だろう。
 斎藤君とやらにも同情する。このバカと関わったばかりにさぞ苦痛な学園生活を送っているのだろうと思うと泣けてくる。


「ん、しかし倉田先輩と言えば……あれ?」

「なんです?」

「いや、その……あくまで噂なんだけどな? つまり、久瀬の好きな人が倉田先輩だとか、そういう」

「貴志様、が?」

「あ、勿論未確認な訳で。君みたいな娘がいるならただのガセだったんだろうな」


 そこまで言ってしまってから、潤はバツが悪そうに目を伏せた。
 これだけ傍若無人に振舞っておいて、変なところで気を遣っているのだろうか。
 よく分からない男だ。けれど、悪い人間ではないのだろう。

 潤が誤魔化すように頭を掻いて、窺うように見遣った。
 オレはそれに答えるわけでもなく、ただ薄らと、いっそ冷酷なまでの薄い笑みを浮かべる。

 彼の誤解は微笑ましく思えた。
 そしてこの自分の感情を皮肉に思ったのだ。


「多分、それは事実、です。そう考えると、貴志様の様子がおかしいのも理解できる、気がしますし」

「そうそう──って、ぅえ? そんな事ないんじゃないか? それに、その、それってどうかと思うんだが」

「それは勘違い、です」

「勘違い?」

「はい。わたしにとって貴志様は世界で一番大切な人です。けれど、貴志様にとってのわたしは違う、でしょうから」


 そしてそれは当たり前の事。
 オレはそこまでは求めようとは思えないから──否、そこまでを求める意味がないから。
 ただ貴志にとってオレが必要であればよかった。一番でなくとも。
 それは、些事だ。


「はぁ……よく分からないけど、でも、君はそれで良いのか? まぁ、俺なんかが口を出していい事じゃないかも知れないが」

「何故ですか?」

「え?」

「わたしは、幸せです」


 誰が何と言おうと。
 貴志がオレの目の前に存在して、オレを肯定してくれるのならば。
 どうしてその事を、他者に評価されなければならないのか。


「わたしが規定するわたしがここにあって、それを貴志様が肯定して下さるのならば、それは幸せ、です」


 玖堂葉月はここにいる。
 相沢夏奈未の影に、どうしようもなく埋もれながら、それでも確かにいるのだ。

 それが頷かれるなら、それで充分だから。


「それを不幸だなどとは、絶対に言われたくないのです」


 そう、強く告げると、潤は何故だか本当に憂いを帯びた視線で返した。
 まるで何か憐れなものを見るように。
 それが酷く、気に入らなく感じた。


「そう……か。でも」

「でも?」

「何か、寂しくないか、それって」

「わたしは、寂しくなど、ありません」

「…………だから、さ」

「……だから? わたしが寂しくない、というのが?」


 潤はオレの言葉に黙って頷いた。
 オレが寂しく思わないということを、彼が寂しいと思うと言うのだ。
 それはとても偽善的で、そして滑稽に思えた。

 ああ。
 そう言うことか。
 結局それは、村瀬青樹と同じ見解だったのだ。

 飼い犬は幸せ。けれど、青樹にとってみれば無様。
 潤にとっては、憐れ。
 つまり、そう言うことに過ぎないのだ。


「それは、貴方の規定する幸せ、です」

「……それは、君こそ、だと思う」


 嘲るようなオレの言葉。
 それに思いのほかしっかりと答えた彼の眼差しをきっと睨み返し、オレは小さく唇を噛んだ。


「人それぞれに幸せってあるよな。それって誰にも否定したり出来ないのかも知れない。でも、幸せってのは多分、自分にとっても凄く曖昧なものだと思うんだ」


 オレが潤を憎めない理由がやっと分かった。
 彼は”オレ”だ。”わたし”のなくした翼のようなものだ。
 何となく思う。もしもオレがあの時に壊されずに今日を迎えていたら、オレは潤のようになったかも知れない。


「……何が言いたいんですか?」

「残酷な言い方になるけど、君はきっと、自分に嘘をついてるんだと思う。幸せってのは、そんなに必死になって訴えるものじゃない。ただそこにあるものだろ?」

「……勘繰りすぎ、です」

「そうかな? だって、さっきから君は笑ってないじゃないか。そんな顔で幸せって言われても、信じられないな」


 けれどもはや飛べなくなった”わたし”にとってはそれは、どうしようもなく苛立たしい眩しさでもあったのだ。


「……貴方に、何が分かりますか?」

「え?」

「貴方などに、わたしの幸せを決めて貰いたくは、ありません」

「それは……」

「何と言おうと、鎖に繋がれた犬は幸福で、自由な積りのあなたに憐れまれる筋合いはないのです」

「──っ」

「何も知らないくせに、何も分からないくせに。わたしがわたしであることの意味も、理解できないくせに」


 堪えきれずに搾り出した言葉に、潤は少し驚いたような顔をした。
 それから再びばつの悪いような表情になる。どうやら、彼のほうでも白熱しすぎたことに気付いたらしい。


「あ……いや、その。……そうだな、何偉そうに語ってんだ、俺。悪い、よく知りもしないのにちょっと言い過ぎた」

「……いえ」

「前言撤回、って訳にも行かないけど、勝手なこといったのは謝る。いや、言い訳に聞こえるかも知れないけど、初対面の女の子相手にこんな事言うなんて、俺もどうかしてた」


 謝罪の言葉と共に、彼が軽く頭を下げた。
 オレもつられるように同じ動作で返す。


「わたしも、少し言葉がきつかったかも知れません。あなたの言うことも、また真実ではある、とは思うのです」


 確かに変だった。
 村瀬青樹相手だというのなら兎も角、今日初めてあったような人間にまで、ここまで話してしまったのは。
 潤に何が分かるのかではなかった。分かる訳がないのだ。オレは何も彼に話してなどいなかったのだから。


「でも……このお弁当」

「え……ん?」

「わたしが、貴志様の為に作りました。貴志様には少し、迷惑だったかも知れませんけれど」

「はぁ」

「だからわたしは幸せです」


 けれどオレは、そう独りごちるようにきっぱりと告げる。
 オレの事情など全く知らない潤は、案の定困った顔をして、それでもオレが真剣なのを理解すると、余計なことは言わずに軽く頷いた。


「すみません。訳の分からないことばかり」

「あー、えぇと、俺もなんか知った風な事を言っちゃったし。その、じゃあ、お互い様ってことでいいかな?」

「はい」


 そうしてオレが頷き返した、刹那。

 ぐぅ……。

 潤の腹の虫が、酷く間抜けな音を立てて盛大に鳴いた。


「潤様は、とてもお腹が空いていた、のでしたね」

「む、そうだった。普段使わない頭を使ったから血糖値がまた下がったのかも」


 ぐぐぅ……。


「…………」

「あいむ、はんぐりー」

「…………食べ、ますか」

「おう、悪いな」


 嬉しそうに頷くその様に、オレはひっそりと溜息をついた。
 そう言えば何だかんだと言って彼は、体よくオレ達の相伴に預かることに成功したのだ。

 まぁ、約束は約束だ。
 オレは予備の割り箸を取り出すと、潤の方へ差し出した。


「うむ」

「何故不必要に偉そうな上に、意味もなく手を撫で回すのですか」

「それは俺様が偉大である上に、君の手の甲が白くてすべすべだからだ」

「…………」


 無言でお手拭を取り出し、潤の触れた部分を丹念に拭う。


「うわ、そこまでやりやがりますか? 潤だけに純なオレの心は深く深く傷ついちゃいましたよ?」

「許可なく女性の体に触れるのは、セクハラ、と言われても文句は言えないでしょう」

「たかが手じゃないかよぅ」

「それ以上の部分に触れたなら、それは痴漢です」

「……あぅ」


 反論出来なくなったのか、潤はそれ以上は何も言わず、割り箸を袋から取り出した。
 それから何を思ったのか、その箸を片手で持ち、切れ目の部分に中指を差し込んでオレの目の前に翳してくる。
 相変らず行動が読めない。


「……何です?」

「ハッ」


 気合い一閃。

 ぱき。

 中指を支点に、梃子の原理で箸は二つに割れた。頭の部分も偏りはなく、確かに綺麗に分かれている。


「……ふっ」


 なぜか潤は勝ち誇っていた。
 オレはその、よく言えば無邪気、悪く言えばおめでたい彼の様子にどう反応していいものかと悩んだ末、取り合えず拍手で称えてやる事にする。


「くっ、矢張り君は俺をバカだと思っているようだな」

「……違うのですか?」

「…………まあ、ご近所でもバカだと評判だ」

「…………」


 どう突っ込むべきか咄嗟に分からなかったので、聞かなかったことにする。


「ちなみにクラスではキングオブバカと呼ばれてる」

「……そうですか」

「うむ」


 もうそろそろ、相手するのにも疲れてきた。
 そんなオレの様子にも、まるで堪えた風もなく、潤は早速弁当に手を伸ばそうとする。


「では」

「……まだ、です」

「……俺は腹が減っているのだが」

「食べさせないとは言っていません。ですが、このお弁当は元々貴志様のものです。それに先んじさせる訳には、行きません」

「ちっ、早くしろよなっ」

「…………」


 オレはもはや言葉でのコミニュケートを諦め、弁当箱を再び無言で胸に抱えあげた。
 その行動を何と解釈したのか、潤はなぜか右半身になって箸を構える。
 余りにも不審だった。


「奪ってみせよ、ということか」

「……違います」


 盛大に溜息を吐く。
 これは天然なのか? 確信犯だとしたら余りにも性質が悪い。
 潤の表情は真剣に必死だった。薄らと冷汗すら掻いていた。

 オレは別の意味で背筋が寒くなって、助けを求めるように貴志のほうへ視線を向けた──その、刹那。

 ──がらり。

 生徒会室のドアが、ノックもなく、何の前触れもなく開け放たれた。






「…………?」

「…………ぬぐ?」

「…………ふむ?」

「あれー? どうしたのー?」

「…………」


 がらりとドアが開けられた瞬間、ある種異様な雰囲気を形成しながら続いていたそれぞれの膠着が解ける。
 上から順に、オレ、潤、貴志、倉田佐祐理。それからドアを開けた謎の女生徒。


「…………佐祐理」

「……舞?」


 女生徒は弁当を挟んで睨み合うオレと潤を無視し、貴志と向かう会う倉田佐祐理の名前を呼んだ。
 倉田佐祐理が”舞”と応えたところからすると、恐らく彼女が先ほどまでの議論の中心になっていた”川澄舞”なのだろう。

 一体何の用なのだろうか。
 そう言えば、先ほどの倉田佐祐理の話からすると、彼女が今ここに来るのはどうもおかしいのではないだろうか。
 大体、彼女がここに来てしまった時点で、倉田佐祐理の努力は全てが水の泡なのだから。

 貴志のほうを見ると、矢張り彼も少し困惑した表情を浮かべている。
 倉田佐祐理も、よく見ればその笑顔が心なしか引き攣っているような気がしないではない。


「舞? どうしてここが?」

「……お弁当」

「お弁当?」

「……ここで食べろって」

「はぇ?」


 彼女等の会話はまるで噛み合っていなかった。
 取り敢えず、川澄舞が重箱を抱えているのが、そのお弁当なのだろうが。


「ん〜」


 川澄舞が彼女の方へ向けてそれを掲げるのを眺め、倉田佐祐理は少しだけ悩むように唸って、それから生徒会室にいたメンバーをぐるりと見回した。


「あははー、じゃあ、皆さん一緒にお弁当にしませんかー?」


 何故?

 分からないことばかりだった。



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後書き by XIRYNN

うぅむ、アホ過ぎる、北川。
というか、前回までと余りに話の雰囲気が違うし。(汗)
感想のメールは[xirynn@amail.plala.or.jp]まで