断言しても良かった。きっとオレは誰よりも、母さんの事が大好きだった。
 それはオレがある程度成長し、思春期を迎えても変わりなく、反抗期すらないままにただ愛しく思っていたのだ。
 尤も、今にして思えばオレが余り”女の子”に興味を持てなかったのもある意味で当然だったのであり、周囲の少年たちの思考との微妙な温度差から多少奇妙な精神の発達の過程を辿ったからかもしれないが。
 勿論、そうした異性への恋愛感情というものが何に拠っているのかは、まだはっきりとは分からないけれど。

 兎に角、マザーコンプレックスと言ってしまっても過言ではないくらいに、確かにオレはあの人に特別な誇りと拘りを持っていたのだ。
 単純に好きでは収まらない範囲で、それはきっと”オレ”にとっての全てだった。
 つまり、”オレ”にとって母さんを喜ばせたい、あの人に誉められたいというのが、その行動の基底に常にあって、大袈裟でなくそれが生きる価値基準でもあったのだ。

 あの人のために健やかに、賢く、正しくあろうとした”オレ”は、実は既に病んでいて、愚かで、間違っていたのかも知れない。

 ──けれど今となっては、”わたし”にはそれも遠い昔の事のように思える。むしろ、彼女は”わたし”が世界で一番軽蔑している女だとすら言ってしまおう。

 そんな世界で一番好きな一人だった筈の母さんに、オレが殺意すら抱き始めたのは何時頃からだったろうか。
 それはどうしようもなく明白のようでもあり、それが却って曖昧に感じられることもある。
 転機は分かっているのに、どうしてもその理由を、自分の気持ちがそうまで反転してしまったそれを納得の行くように分析することが出来ないのだ。

 気が付かなかっただけで、本当は初めからそう言う感情を抱えていたからかも知れない。それともそれは、オレが母さんを演じていて、その結果生まれた近親憎悪にも似た侮蔑の所為なのかも知れない。
 けれど今になって決定的だったと思うのは、あの時、オレが母さんによって殺された時だ。そこが転機だったのは確かだろう。

 あの時──闇にぼんやりと浮かぶ白い天井を眺めた最初の夜。
 このオレと言う存在が完膚なきまで蹂躙され、行く先も見えない闇の中へ蹴落とされたのだと自覚した、まさにその瞬間、だ。






「いつも、そう」


 弁当を殆ど抱き締めるように抱え、生徒会室へ向けて廊下を進みながら、オレは誰にともなく呟いた。
 わざわざ声にまで出してしまうのは、きっとこのどうしようもないまでの孤独感の所為なのだろう。


 「独りになると、下らないことばかり思い出す」


 それは”オレ”の終端。”わたし”の起源。
 思わず腕の中に視線を落した。


「大丈夫、大丈夫」


 玖堂葉月はここにいる。
 レプリカなんかじゃない。

 ふと周りを見れば、声を上げて楽しそうに笑う生徒たちの姿が目に入った。


「もう大丈夫」


 本当に?




 手の届く場所に、あった。
 ほんとうにつらいこと、おそろしいこと。

 そう言えば最初で最後だったかもしれない。
 助けて、と、声を上げて泣いたのは。



Be...
Sinful One


[お弁当(2)/Brunnhilde Motif]




「ふぅ」


 いい加減手馴れた作業の合間に、オレは複雑な原因の溜息をこぼした。

 二人だけの食卓に、我ながらよく出来たと思える料理の皿を並べる。
 元々母さんの影響で料理はそれなりに得意だったと言えるだろうけれど、ここまであの人の味を再現出来るようになったのはつい最近の事だ。
 冷静になってみればそれはとても空しい努力でしかなく、それでも必要な努力だったことがより一層オレを憂鬱にさせる。

 この半年で学んだこと。
 それはオレが母さんの身代わりになること。
 そうすることが、取り敢えずオレが無事に生きていく最善の方法だった。

 今のオレに頼れる人というのは、残念な事にもはや父しかいないのだ。
 ”ニューハーフ”とオレを蔑んだ嘗ての友人たちは言うまでもなく、信頼に足るとは思っている担当医の先生ですら、今のオレが生活をしていく上で何かを助けてくれるわけでも無い。
 同情はあっても、それ以上はない。あるのは性的な、医学的な興味と好奇心。
 結局はオレを養育する義務も無い赤の他人には、だから頼らない。
 そしてその事を、辛いとか悲しいとか思えもしなくなって暫く経つ。

 けれど、この思考を、先生は”アンバランス”だと言っていた。
 その意味は良く分からないままだけれど、何となく、感覚的にはそうだとも納得はしている。

 父の──相沢の親戚からは、何の反応もない。多分、前からあったごたごたに加えてのこの事態に、父は見放されてしまったんだろう。父自身もそう語っていたのだし。
 母の方の実家は良く分からない。元々駆け落ち同然の結婚だったらしく、娘を奪った上に殺してしまった父などに、何か援助するような義理もないということだとは思うけれど。

 現実問題として、だから今のオレを生かしているのは父の財力だった。
 何だかんだといっても、こうやって日々を無為に過ごしていても生活に支障は出ない程度には裕福だ、ということか。
 一週間に一度程度、殆ど形式だけの出勤をして、優秀すぎる部下の様子を眺めて満足していれば、それでいいというくらいだから。
 これもきっといつかは破綻する、とは思う。でも、それでもオレには必要な幸運だった。

 だから、父にとってはもはやオレは相沢夏奈未なのだから、専業主婦のオレは夫のために食事を用意しなければならない。
 そしてその味もあの人のものでなければならない。近頃の父は、そうすればとても落ち着いたから。

 そう言えば、父の部下はどう思っているだろう?
 当然、母がもうこの世の人では無いことは知っている。けれど、依然として幸せの象徴のような”愛妻弁当”を持って現れる父の姿は、彼らにはどう見えているのだろう?
 何か恐ろしいモノのように見えるのか。あるいは下世話な想像でもしているのか。
 そう思うと、少し笑えた。

 けれどそうまでして父の庇護を求める自分に嫌気もするのだ。
 実のところ、最も憐れで滑稽なのは、全てを了解しながら”愛妻弁当”のレプリカを作るこの自分なのだから。
 でも、そうしなければ、日々を生きていくことも侭ならない子供の自分が、とても悔しくもあった。

 ──そして、父を殺せもしない自分が。


「夏奈未?」


 当然のように、むしろ深い親愛の上をさえこめてオレをそう呼んだ父の声に、背筋が凍るような寒気と怖気が走った。
 オレは何とか平静を装うとしつつも、それも結局は無駄な結果に終る。金縛りにあったように身動きも取れず、オレはにこりとも笑えずに、ただ引き攣った奇妙な表情で返した。
 けれど、そんな違和感にすら彼は気がつかない。いや、そうすることを自分で止めてしまったんだと思う。
 ここの所の彼はもう大分狂気じみて来ていていて、それも表面は至って正気なだけに余計に異様だった。

(……気持ち悪い)

 本当に最悪の気分だった。


「……夏奈未? どうした?」


 どうやら手が止まっていたらしい。オレは素早く配膳を終えると、父を安心させる為にぎこちなく笑みを返してから、エプロンを外して自分も席についた。


「何でも、ない。……ありま、せんよ」


 必死で生前の母の口調を思い出しながら、慣れないながらに真似てみる。
 少しハスキー気味に、けれど柔らかさを損うことはなく、きっと記憶の中でオレが美化したそれには到底及びはしなかったけれど。

 イメージとは裏腹に、口をついて出たのは全く下手な演技だった。動揺があからさまに見て取れるし、どうして自分の夫に向けてそうした嫌悪を滲ませて答える妻がいるというのか。
 喉がからからに乾いて仕方なくて、軽く咳払いを一つする。

 けれどそれでも彼は気付かない。ただ人形にそうするように、優しげに微笑んだのみだ。
 それは確かに完璧で、例えば理想的な夫婦のように見えたかも知れない。実際には、とても一方的だけれど。

 そんな事を考えて、オレは心中でのみ不愉快そうに眉を顰めた。


「そうか。まぁ、無理はするな。色々と、あったことだしな」

「……っ……はい」

「では、いただきます、と。……そうか、しかしもう半年近くになるのか、あれから」

「……そう……です、ね」


 ──そしてあんたが狂い始めてから。

 表面では薄く笑みを浮かべ、頭の中ではオレは唾棄するように、目の前の男を口汚く罵った。
 本当に、身勝手で、この最低な男を思うと、それだけで血液が沸騰し、心臓が張り裂ける気がする。
 出来ることならば今すぐにでも殺してやりたい程に。


「うん、美味いな」


 何の疑いもなく、オレの調理した食事を口にする。
 それを見て、オレの口元が知らずつり上がった。
 勿論、この男がもはやオレの内心など慮る筈もなく、ただ微笑ましい夫婦のやり取りに変換してみせただろうけれど。

 後はその気になるだけだった。

 例えばキッチンに行けば凶器になりそうなものは幾らでもある。
 あるいは、最近常備し始めた睡眠薬をこの男の食事に全部溶かし込んでしまえばいい。
 人を殺すのは、物理的にはとても簡単なのだから。
 ナイフ一本あれば、例え幼稚園児であっても人は殺せる。

(人は死ぬ……簡単に)

 考え出せば際限もなく、ただ目の前の男を抹殺する術ばかりを模索していた。
 本当に簡単な事だった。どんな行いでも、確かに限度を過ぎさえすれば人は死ぬのだ。

 そうして淡々と脳内でリストアップした方策の数々に、実はこれがとても異常な思考なのだと気が付くのには二分ほどを要した。

(何を……下らないことを)

 けれどそう言う殺意も一瞬の後に醒め、酷く遣り切れない種類の諦めの溜息へと変わる。
 今更言っても意味が無いことは、最早嫌と言うほど知らされてはいたから。
 そんな事をしてみても、この男は狂っているのだというどうしようもない事実を、ただ改めて突きつけられるだけだから。

 激昂して殺意を抑えられなくなるほど、オレは冷静さを失えなかった。
 元々そう言う性格だったし、本当の性別が分かってからはそれにもより磨きが掛かっていた。
 もしかすると、ただ只管憎むには目の前の男が余りに憐れに思えたからかも知れない。

(本当に……下らない)

 何を憐れむと言うのか。
 何を赦すと言うのか。

 それでも殺せない自分は本当だった。
 とても美味しそうに食事をする目の前の男の笑顔に、こんなに殺意は募ると言うのに。






 今にして思う。
 もしこのときにオレが父を殺せたのなら、また違う未来が待っていたに違いない、と。

 それから、もう一つ。
 ふと脳裏に過ぎった、先生の言葉。

 ──アンバランスなのよね。あなたの歳でそこまで考えられるのは、凄く立派。でもね、陳腐な言い方をすればあなた、泣くべき時に泣けてないのよ。






 そうしてある日のこと。
 何かが壊れたその日。


「…………ふぅ」


 深夜。就寝の準備をしながら思わず再びの溜息を一つ。
 今日もまた、他人から見て微笑ましい、当人にとっては呪わしい一日が終わる。
 本当にオレは何をしているのかと、とても悔しく、虚しい気持ちになった。

 何も変わらない。いや、それどころでなく、日に日に歯車はかみ合わなくなっていく。
 この先に待つのは一体何なのだろうか?
 狂った世界では、狂わずにいる人間こそが狂っているのだ。
 ならオレもいつかは……。

 そんな事をふと思った矢先だった。


「本当にどうした? 最近随分と溜息が多いな。矢張り堪えているのか、祐一を亡くしたことが──」


 気遣う口調で吐き出されたその言葉に、だから思わずオレは眼を見開いた。


「それは……っ」


(……オレは、死んでなどいない)


 叫ぼうとして、言葉を飲み込む。
 意味が無い。何も変えられない。今までだって何度叫んでもどうにもならなかったのだ。
 今更オレに何が出来る? この狂った世界で、オレが何を訴えられる?

(でも……でも、オレは……)

 けれど。
 意味がないからといって叫ぶことをやめたら。

(死ぬ? 死んでしまう)

 そうだ、”自分で自分を証明し続けない限りは、人間はきっと生きてはいけない。”
 目の前の壊れた男が、まだ尊敬できる父だった頃の、彼自身のその言葉が、とても皮肉な響きを持って耳朶を打った気がした。
 それは同時にオレの、殊更押し込めていた幾つかの感情を無理矢理引っ張り出すには充分な力を持っていた。

 そうだ、今度こそ本当にオレは。
 それこそオレが死んでしまう。消えてしまう。いなくなってしまう。

 自分が女だと知らされたときの気持ちとよく似ていた。
 自分で自分を、相沢祐一と言う人間を見失った時と。
 実は、人間の証明というのはとても儚いものだと理解した時から、それがオレにとっての真理になったというのに。

(このまま演じつづければ、オレは消える)

 だからそう結論した。
 その恐ろしい考えに至って、オレは思わず頭を抱えて震える声を絞り出していた。


「違うっ」

「? 何だ、いきなり大声で」


 とても憎いと思った。
 我慢できなくなった。

 オレはこの男の、ヒステリーを起こした女性の機嫌をとるような声に。
 あくまでも幸せな夫婦を演じ続けようとするこの男の汚らしさに、いっそ泣きたい位の憎悪をぶつけていた。


「もう、限界だっ」


 妻を亡くし、全てをも無くしたと勝手に思い込んでいるこの憐れな男の創り上げてささやかなこの理想郷は、けれど何処までも歪みに満ちていた。
 確かにそこまで母さんを愛していたのだろうこの男の憐れな純真さにも、普段は情の薄いと思っていたこの男の妻への深い労りにも、少しの同情はあったのだ。
 それを思えば、この男の全てを否定する気にもなれはしなかった。

 けれど、この狂った世界で、もうこのままではオレさえも狂ってしまいそうで。
 本当にこれ以上はもう、限界だったのだ。


「おいおい、何が不満なんだ?」

「全て、何もかも、だ。吐き気がする。我慢できない。こっちまでおかしくなりそうだ。だからもういい加減にしてくれ」

「な、何だ? どう言う意味だ?」


 そう言う意味だ。
 この男は、惚けている訳でも、冗談を言っているわけでもなく、本当にオレの言葉を理解出来ていない。
 そもそもは、その視線の先に映っているのは、オレじゃないだろう?


「死んだのは、誰だ?」

「……お前、本当に少し休んだ方が良いんじゃないか」

「いいから、答えろ」


 有無を言わせない口調と、射すような眼差しに気付いたのか、けれど彼は軽く眉を顰め、諭すようにのうのうと言ってのけた。


「……祐一、だろう。俺達の息子だ」

「オレが祐一だ」

「何?」

「死んだのは母さんだろう? あんたが認められないだけで」

「お前は──そうか」


 オレの言葉にも、さほどは途惑った様子もなく、彼は却って痛ましいものを見るような目でこちらを見つめ返す。
 まるで、愛するものを失った哀しみから、正常な認識を曲げてしまった狂人を見るように。

 よりにも拠って、この男が。
 そんな目で、オレを見たのだ。


「……祐一は死んだんだ、もう」

「違うっ。オレは、ここにいる」

「いい加減にするんだ。お前は祐一じゃない。そう思い込もうとしているだけだ」

「違う!!」

「勘弁してくれよ、こっちまでおかしくなりそうだ」


 本当に、そうだ。
 もう狂いそうだった。


「母さんはっ、相沢夏奈未はこの世にはもう──!?」


 決定的な真実を告げようとした唇を、嘗て経験したことのない感触が襲った。
 それが何なのかを脳が正常に理解する前に、最近段々と柔らかさと丸みを帯び始めたオレの体は、男の腕の中に抱き締められていた。

 もう離さないとばかりに、執拗に。
 オレは実の父親に、口付けをされていた。


「む……んっ。なに、をっ」


 抵抗は意味が無かった。
 男の力は、思ったよりもずっと強く、ささやかなオレの抗いは、彼にとって僅かな身動ぎ程度にしかならなかったに違いない。

 漸く膨らみ始めた胸を乱暴に愛撫され、首筋をナメクジを這わせるように舐め上げられ、白々しい愛の言葉を囁きながら耳たぶをあま噛みされ。
 慣れた手つきで着衣を剥がされ、露出した肌を隠そうとする手を軽々と拘束され、強く壊れるほどに抱き締められ。

 おぞましさと、恐ろしさがオレの思考を支配し始める。
 余りにも生々しい、男の体臭が今はっきりと知覚され、この後起こるべき事態を、否応なく連想させる。
 ここは自宅の寝室。時刻はもう日も落ちて大分たつ。この男にとってオレが息子のなれの果てではなく、自分の妻でしか無いのだとしたら。

 呆然とする内に男は自らも服を脱ぎ、すり合わせるように覆い被さっていた。
 その指先が、まだ自分でも見慣れないオレのその部分へと触れ、静かな円運動の後にゆっくりとそこを穿った。


「──っ」


 処女膜などはなかった。男から女になるための手術で、その感覚にもある程度慣れてはいた。
 女性の生理についても一通りのレクチャーは受けた。身体を傷つけないために、その意思が無くても確かにその部分は濡れる。

 ──だから女性は時として男にとって都合よく犯される。より屈辱的に。


「やめ……や……いやだっ、め、ろっ。この、へん、たいっ」


 けれど男は無言でオレの体を求めた。
 逃れようともがく手足を押さえつけ、頬を伝う涙を舐め取り、罵る声を黙殺し。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 痛い。苦しい。気持ち悪い。けれどそんな事は問題じゃない。
 これは肉体的暴力であって精神的隷従の強要であり、最悪な形での人格否定だ。
 奪うものは、大抵確信犯ではなく、だから悔しくて涙が出た。

 キス。


「ん……む、はぁ……ふぅ……」


 貪られる。

 ただ快楽と満足の為に身勝手にオレの体に指を這わせ、おぞましい事にこの男は酷く興奮している。
 荒い息が聞こえる。早鐘のように打つ鼓動が聞こえる。直接触れ合った体温がとても熱い。
 段々訳が分からなくなる。意味のない抵抗は、心も身体も疲弊させ、何時の間にかオレはただ泣きじゃくるだけだった。


「……うぅ……ひっ……ぅく──!?」


 気の萎えたその刹那に、股間に熱いものが押し当てられた。
 その正体に気がついて、オレは何かを叫ぼうとして、結局。


「──っ!!」


 その衝撃は、言葉にはならなかった。






──嬉しくないかも知れないけど、セックスは普通に出来るわよ。多分、子供も問題なく産める。でも、自暴自棄になったとしても絶対に軽はずみにしちゃダメよ。断言してあげる。その時、あなたは壊れるから。あなたはあなたを見失う。もし子供が出来たりしたら、あなたはその子を殺してしまうかも知れない。きつい言い方だけど、自覚はあるでしょ? まあ、あなたに好きな男性が出来て、セックスをしたいと思えるようになるまでの話。……勿論、それ以外にもいろいろ問題はあるけど、まずは言っておくから。肉体は耐えられても、精神が耐えられない、そう言う話。分かった?

──男とするなんて、気持ち悪くて考えられません。

──だから、よ。例え相手が好きな人でも、そう感じるうちは絶対にしちゃダメ。

──しませんよ。男なんか好きになれるとも思えません。

──恋愛感情がなくても、好きになった相手が異性なら、セックスに行き着く、ということはあり得るわ。それは同情だったり、罪悪感だったり、劣等感だったり、色々ね。あなたには、想像したくない世界かも知れないけど。

──なんか……嫌です、そう言うの。

──クス、そうね。尤も、本来的なセックスは物理的ではなく精神的接触であるべきなんだけど。現実は貪りあうだけね。……と、ごめんなさい、少し意地悪だったわね。でも、まあ、あなたにも生理がくる、ということを言っておきたかったの。それが幸せ、とは、間違っても今のあなたには思えないかもしれないけど。

──……はい。






 外科手術はうまく行っていたらしい。
 オレの体は、男性を満足させることが出来るみたいだから。

 乱暴に揺さぶられながら、そんなつまらないことを考えた。






 その禁忌に満ちた交わりの後で、オレはベッドに力なく横たわったまま、ただ泣く事も叫ぶことも出来ずに真っ白な天井を見上げていた。
 隣で静かな寝息を立てる男の首へ手を掛けようとして寸前で止め、結局その指先で力なく自らの剥き出しの肩を掴んだ。不思議と現在進行形の殺意はなかった。
 難いとは思う。殺してやりたいとも。でも、殺そうとは思えなかった。
 とても空虚な気持ちだったのは多分、この想像だにしなかった暴虐への怒りでも憎しみでも哀しみでもなく、もっと辛いことがあったからだと思った。

 オレはぼんやりとした思考のまま、何故か母さんの事を思い出した。
 こうして同じようにあの男に抱かれたのだろう女のことを。

 記憶の中の母さんは、ただ幸せそうに笑っていて。その傍らには矢張り幸せな家族の肖像がある。
 現実にあったかどうか分からない風景で、そこにはただ本当に穏やかな日常があった。
 この風景は何だろう? 何故こんなことを思うのだろう。

 けれど始末の悪いことには、そんな母さんの姿を、殺してやりたいほどに憎く思ってしまったことだった。
 誰かにここまでの憎悪を抱いたのも初めてだった。それも、とても理不尽なのだと自覚する理由で。

 でも許せなかった。
 あの狂った男も、それを狂わせた母さんも。


「オレは……オレは……あぁ」


 知らず、オレは意味の不明瞭な呻き声を漏らしていた。

 ”……祐一は死んだんだ、もう”

 あの男の言葉が、何故か聞こえてきた気がした。


「…………っ、ぁ」


 その刹那に。
 天啓のように唐突に悟ってしまったその真理に、オレは肩を抱いて蹲り、涙を流してがちがちと歯を鳴らしていた。

 ”いい加減にするんだ。お前は祐一じゃない。そう思い込もうとしているだけだ”

 再び、声。

 怖かった、とても。ただ、怖かった。
 実の父親にレイプされたのだという単純な事実よりもっとそれが怖かった。

 最後には屈してしまったから。
 あの男の狂気に飲まれ、結局はあの男の望む人形を演じてしまったから。
 自らあの男の背に腕を回し、媚びるように甘い声で──。


「あ……あぁ」


 だから、もう、全部ダメなんだ。


「……んだ」


 そう、オレは。


「死んだ、オレが、死んだ」


 何故なら、今このときに、誰が相沢祐一を証明するだろう。
 最早あの男にも、そしてオレにもそれが不可能となったこの時に。

 両の手の平で顔を覆って歯を食いしばって、そこで指先に付着した精液のぬるりとした感触に気がついた。
 その生臭さと、何よりも生々しさに嘔吐感を覚えて、オレは嗚咽を堪えて蹲る。


「ぅうあぁ……あああぁあああ……あぁ……ぁあああああああああああああっ!!」


 相沢祐一は殺されたのだ。
 父の狂気の生み出した、母の幻によって。

 この白いねばねばは、間違いなくこの自分に向けて吐き掛けられたもので、オレはこれと同じものを胎内で受け止めたのだ。
 恐らくは、きっと、これからも、ずっと。いつか痕跡すら残さず、オレを塗り潰してしまうほどに。


「……て。た…け、たす、……けて。誰かッ、ダレカ、だれか……あぁぁあぁ」


 ここは嘘で塗り固められた偽りの楽園。
 夢の中の住人が、大罪を犯して得た幻のような。

 身を委ねてしまえば、忘れてしまえば楽になれるのかも知れなかったけれど。

 オレはかすれ声で見知らぬ誰かに救いを求め、嗚咽を洩らしながら、その始まったばかりの悪夢の中、そのまま何時の間にか肩を抱いて眠りについていた。





 ぱりん、と。
 酷く脆くて綺麗なものが壊れたのは、確かこの時だ。






 ただこの現にあって尚、一人悪夢を彷徨っていた。
 そこに見える現実は、いつか母さんの腕に抱かれ声を上げて泣いたあの悪夢よりももっと。
 ずっとおぞましく、恐ろしかった。

 オレと言う存在が世界から死んで消えたのはその時。
 それから、玖堂葉月として新生するその時までは、オレという存在はきっと何処にもなかった。






「……生徒会室」


 プレートを確認して、深呼吸を一つ。
 オレはそっとドアを開けた。







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後書き by XIRYNN

うぅむ、書いてて自分でもかなり可哀想、葉月。(汗)
というか、お弁当……。(苦笑)
嘗てないまでの展開の遅さです。
感想のメールは[xirynn@amail.plala.or.jp]まで