如何なる地位も名誉も、まして夢も希望も。
例えば本当に欲しいものが既に喪われているとしたなら、それほど虚しく惨めなことはなかった。
満たされた気になる度に思い知る。そうではないのだ、と。
否、分かってはいる。それが如何に贅沢な悩みであるかも理解した上で、なおこの胸の裡の最も深い部分が上げる慟哭は、しかし青年には耐え難くに過ぎたのだ。
惰弱と罵るのならそうすれば良い。無様と笑うのであっても。だがお前は真にこの葛藤を侮辱出来ているのか。
誰しもが望み、誰しもが諦め。そうして哂うに過ぎないのではないのか。
例えば空腹に耐えかねても、金が無ければ食いはしないだろう。
だが本当はほんの僅かだけ、良心の呵責や後先を考える躊躇さえ捨ててしまえば、好きなだけ欲しいものを腹いっぱいに食うことだって出来るはずだ。そう、簡単なことだ。盗めばいい。奪えばいい。
それを人は罪などと言うが、一体何の枷も無いとしたら、どれだけがその理不尽極まりないルールに従おうと言うのだ。
怖ろしいから、力が無いからに過ぎないのだ。
しかし、今現実に青年はある領域においては絶大な力を持ち、禁忌を犯す程度に躊躇いは無い。
ならば恐れる必要は無く、存分に力を揮い、貪欲に欲すればよい。
そうしてこの最低にして最悪にして最上の試みは為された。
――が、それでも叶わぬものはある。
なんと世界は残酷と言うべきだろう。
必然、彼は目的を達するべきであったと言うのに、代価を支払い、求めるものを手にするべきであったと言うのに。
何も無い。
得たものは何も無かった。
あるとすればただ絶望と。
その、求めなかったもの――まがい物への凄烈な憎悪だ。
「いやはやいやはやいやはやいやはや、これはこれはこれはこれは。ははぁ、真っ黒に、いや、見事に真っ黒に塗りつぶしたものだねえ、マスタア? 酷いなぁ、酷い。全く、非道い。俺はね、貴方に作られたただの人形だ。いわば貴方は我が神だ、マスタア。そりゃあ貴方にお味方はしましょう。だけども、これは幾らなんでもあんまりじゃあないかね?」
猫が哂う。笑みもせずに。
「何を。こんな物は要らない。違う。こんな物は在ってはいけない。違う。僕は認めない。違う。赦さない。違う。一体どうしてなんだ。僕は代償を払ったはずだ」
「ははは、そりゃあ当然じゃないか! 間抜けなことを言わないでおくれよ、マスタア。パンを一斤買ったなら、その分腹は満たされる。だけどマスタアが買ったのは富くじだ。外れたらただの紙切れと、それから空しさが手元に残るだけさ!」
また猫が哂った。
そもそも見合う代価でなかったのだと。
最早如何ともし難くなって、一縷の望みに賭け夢破れただけなのだと。
等価交換? 何と喜劇的な言葉だろうか。
笑わせてくれるな。そんなもの、この世のどこに実在するのか。
そもそも等価じゃないから交換するのだ。本当に等価ならば、替えるまでも無く満たされている筈だ。
パンは食えるが、金は食えない。
その”異価交換”が成功であるかどうかは、つまり自身にとって益があるかどうかだ。
そうした意味では、猫の言うように、これは全く射幸心の賜物と言える。分の悪さを代償に、不相応のものを望んだ結果に過ぎない。
ただ、非常に残念なことに、目的のために犯した罪も、達成するために積んだ努力も、何もかもは泡沫と消えた。
人生をかけて修練を積み、修羅と化した復讐者が、全く赤の他人を誤射して逮捕されたような、そう言う滑稽さに哂うのだ。
まさに悲劇。ただし、他人にはどうしようもない喜劇だが。
「ふざけるな。黙れ、化け猫。いいさ、富くじで結構だ。でも買い続ければ当たる。こんなことで、諦めるわけには行かないんだ」
「ははは、ははは、馬鹿だね、そりゃあ、あれだ。典型的な破滅へのショオトカットってやつだよ。ははは、ははは。ああ、余り笑わせないでくれたまえ」
「黙れと言っただろ。全く、ふざけてる。馬鹿げてる。まあいいさ、化け猫、とにかくこれは廃却だ。どこへなりと棄てて来い」
「はははははは……ふうふう、ああ苦しい。それで、何だって? 棄てるだって? それは幾らなんでも――」
「いいから棄てて来い」
「全く人形師って言うのは酷い連中だ。気に入らないからと娘に殺し合いをさせるものもいれば、マスタアは棄てろなどと言う。ああ、酷い、何と非道い!」
「僕は、棄てて来い、と言ったんだ」
「はいはい、分かりましたよ。全く、娘を棄てて来いなんて、酷い父親もいたものだ」
猫は一頻り愚痴をこぼすと、今度は不貞腐れた顔になって散乱した鞄の一つを取り上げた。
命令した側の青年は、最早その様を見届けるつもりも無いのか、さっさと背を向けて、その広い部屋の扉を開けていた。
さて。
この何も無い、あるとすれば幾つもの鞄だけの部屋は、差し詰め人形部屋とでも言うべきだろう。
青年は人形師。その名を知るものはそろって最上級のマエストロと断言するに違いない程の。
現代の魔術師と呼ぶものもある。かのローゼンと並び称されるものとして。
猫は化け猫。本人は、猫妖精(ケット・シー)を名乗るが。
人形師の秘書という位置付けの筈が、近頃は専ら廃棄処理担当だ。それも、人形師の娘とも言うべき命ある少女人形たちの。
猫もまた人形であったので、これはまさに妹を棄てて来いなどと言う暴挙かも知れない。
多分、そうした理由も含めて愉快ではない。
しかも、特に今回は非道と言えた。
いままではまさに廃却。失敗した人形の抜け殻を棄てるだけで、言い方は悪いが死体処理のようなものだ。
だが、今猫が棄てようとしている少女人形は決して人形としての出来に不備があったわけではなく、ただ青年の拘りによって不良とされたに過ぎない。まして、人形は心ある人形。生まれた矢先、生みの父から不要の烙印を押された娘の悲しみはいかばかりか。
鞄の中から零れるくぐもった泣き声の悲痛さは、如何にも遣り切れない。
何とも憐れ。
だから猫は迷い、結局は奇跡とやらに頼ることに決めた。
「願わくば、幸多からんことを、シスタア。もっとも、俺もマスタアもそう願う権利は無いだろうがね」
その鏡は入り口。
行きたい場所。此方から彼方へと
誰もが望み、誰もが否定するその深遠に向けて。
猫は鞄を――少女人形を詰めたトランクをnのフィールドへ放り込んだのだ。
せめて希望を、と。
その身勝手にして傲慢な願いに、自身苦笑を浮かべながら。
だけど最後の最後で人形が思ったのは。
死にたい、と言うただそれだけの諦観。
それはつまり、人形にとっては死と同じことだった。
ゆらゆらと揺れる。
ゆらゆらと揺れて、ゆらゆらと揺れた。
箱舟に乗って少女人形は長い長い旅をする。
刹那の、そして永久の。
時空すら越えて流れ着いたそこには。
果たして安らぎはあるだろうか。
誓って言おう。
今の水銀燈を恐ろしくないなどとは強がりにも言えないが、それでも姉妹なのだと言う認識があった。
つまりは、真紅にとってやはり同様の存在でもあり、相互理解は困難であろうが不可能でないと信じてはいるのだ。故に未知のものへの怯え等は感じていない。否、むしろ同じであるからこそ怖い。判らないはずがないのに判らないことが。
だが、この目の前の真っ暗な人形は全く未知の恐ろしい存在だった。
色が無い。姿形の話ではなく、その閉じた瞳が由でもなく、纏った空気の全てが本当に底が見えない不気味さを醸すのだ。
例えば妖魔を目の当たりにしたような。昆虫の無感情な瞳に見つめられるような。そんな想いに頭を振りつつも、事実我が身の神経の全てが打ち震えている。
分からない。判らない。解らない。
ここは様々な魂の欠片が雑多に交差するカオティック。
入口を探して見たものは望んだものを大きく外れ、幻めいた光景だ。
扉を開けて、まず真紅の目を捕らえたのは見慣れたはずの、そして見慣れない新品のトランクが一つだった。
薔薇乙女達の寝所でもあるそれは、確かに真紅自身が一つ所有している。だから、それが何かは良く知っていた。
問題は、それが誰の、と言うことだ。
此度の目覚めから、他の姉妹とはまだ見えてはいない。
そうすれば他の誰でもある可能性はあったが、だがしかし、と真紅は己の想像を否定した。
だとするならば、どうして鞄は新品なのだ。
確かに通常のものではなく、長い月日を経てもなお使用に耐える鞄は数十年かそこらで劣化することは無い。
だが、姉妹ごとの性質をよく反映して鞄は凡その見分けが付くほどに、やはり”違う”のだ。
だから分からなくなる。
真紅は殆ど全ての姉妹を知っていて、鞄を見て持ち主に大体の見当を付ける自信がある。
知らない姉妹は無いわけではない。だが、それでも鞄は新品であるわけが無い。
暫くの自失の内に、鞄はゆっくりと開いて中より一体の人形が這い出した。
大方の予想、或いは確信の通り、真紅の知らない闇色の少女人形が。
(やはり……知らないドールだわ。いいえ、と言うよりも――)
――違う。
そう、違うのだ。
何がと言えば全てが。陳腐な物言いをすればエスプリが。
お父様の娘ではない。
その人形の閉じた瞳と、うっすらと三日月に歪んだ唇を見た瞬間に、真紅はそう直感する。
否。こんなものがお父様の娘――そして私の姉妹であってはならない、と。
人形は暫く体の調子を確かめるように動いた後、辺りを観察しながらぐるりと首を回し真紅の方を向いて、そのまま通り過ぎた。
全く意識などしていないと言わんばかりに。
気に入らない。
真紅にしては珍しく、初見の相手をそう断じた。
視界に入っていないとでも言うのか。
この真紅が。
誇り高きローゼンメイデンシリーズの第五ドールが。
冷静ではないと自覚しながら、得も言われぬ怒りに任せて声を上げていた。
「……あなたは、誰?」
僅かの怒りと、それから認めたくは無い過分の恐れに声が震えていた。
人形はそれに気が付いたのか、振り向いたおぞましくも美しいその相貌には何処か揶揄するような笑みを薄く浮かべている。
思わず喉を灼熱が走り――寸前で堪えて深呼吸を一つ。
「私の知らないドールだわ。まさか、だとすれば、七番目の……」
人形が驚いたように、否、呆れたように息を吐いたのが分かった。
全くわざとらしいと。何を惚けたことを言っているのだと。
そうだろう。
分かってはいる。初めから。
我々が相容れるはずも無く、まして同じ親から生まれた姉妹でなどあるはずが無いだろう。
人形はその閉じて見えないはずの瞳を真紅へと真っ直ぐへ向けて、嘗めるように上下させた。
間違いなく、見えているのだろう。
じっくりと観察されている。敵としてか、獲物としてか。
「……呪い……か」
ふと、人形が何かを呟いたのが聞こえた。
呪い?
呪いだと?
一体何が呪いなのか。何が何を呪うのか。
(或いは、この邂逅が……かしら、ね)
暫くの無言の応酬の後、真紅が重い口を開いた。
「あなた、何て目をしているの?」
その目こそが呪いだろう。
何もかもを否むような、在ってはならないような冷たい光を宿して。
「いいえ、見えないのね」
そう、きっと見えている。
「だから、見ないのね?」
ただ、見ないのだ。
知っているぞ、闇色の化け物。
きっと、光が眩しくて、明かりがその目を灼いてしまうのだろう。
「とても虚ろで、怖い目だわ」
ただし、とても悲しかった。
ぽっかりと開いた穴のように、涙すら枯れ果てた何かの残骸にすら見える。
憐れ、と感じると同時にそれは目も背けたくなるような末路を思わせた。
こうはなるまい。ああなっては終いなのだと。
真紅の心中を気取ってか、その言葉に暗い人形は初めて眉をしかめた。
図星であったのか、或いはただ不快に思ったのかは知れないが。
ただ、少なくとも彼女に何らかの感想を抱かせたのは確からしかった。
「……知ったことか。お前など相手にする気はない」
その証拠と言うように、痛烈な、しかし苛立たしげな拒絶の言葉で返したのだ。
よりいっそう皮肉に唇をゆがめながら、何故か寂しげに笑って。
その閉じた眼差しに。
「――っ」
――どうしようもない不明の衝撃を受けた。
何故ならば。
(ああ、これは――どこかで)
真紅はよりによって、似ている、などと思ってしまったから。
(そんなはずは、無い)
そう、そんなはずは無い。在ってはならない想像に、真紅は頭を振った。
彼女と、彼女の姉妹と、誇り高き薔薇乙女達と、こんな紛い物が、似てなどは無い。
似ているわけが無いのだ。
だから、敢えて断言してみせよう。
(これが、きっと、本当のジャンクなのだわ)
それなのに。
「随分な事を言うわね。あなた、アリス・ゲームを降りるのかしら? どちらにせよ戦いは避けられないというのに」
それだからこそ、問うていた。震えそうになる声を必死で抑えながら。
この化け物が、一体何のために在るのかを。
「――あなたが薔薇乙女であり得る以上」
あり得る訳は無い。
「降りるも何もない。アリス・ゲームなど知らない」
応えは、どうしようもなく滑稽であった。
下らないものを聞いたというように、闇色の人形が哂った。
それで、真紅は笑った。
分かり切った答えでしかない。わざわざ問うまでもない当然に過ぎない。
それなのに問うていた事に僅かの苦さを感じながら、理不尽にも怒りがこみ上げることにふと気づく。
何を怒ると言うのか。
何も怒ることは無いというのに。
けれども怒るには充分だったのだ。
――アリス・ゲームを否定されたことは。
口中を灼熱にも似た熱さが走った。再び抑えようとして、失敗する。
ああ何と言うことだろうか。本当に、滑稽なほどに、下らない。
「知らない、ですって? あなたはアリスにならないと言うの? お父様――ローゼンの定めた作法に従うつもりはないと」
自分でも冷静を失っていることは自覚しつつ、真紅は反射的に反駁の声を上げていた。
確かに彼女にとってアリス・ゲームは絶対ではない。水銀燈ほどには拘る積りはないし、蒼星石ほどには思いつめる気持ちは無い。
とは言えそれでも彼女にとってローゼンは絶対であり、アリス・ゲームは神聖であったのだ。
間違っても、こんな化け物、紛い物風情に哂われる謂れは無い。
「……ローゼン? 違う、僕の父はタロゥだ」
「……っ、何、ですって……違う?」
返す声はあくまで平坦。その様子に真紅は一瞬だけ柳眉を吊り上げ、自身でも分からない言葉を飲み込んで、それから気を落ち着かせるように小さく息を付いた。
本当にどうかしている。この人形の所為なのか、今日の自分はどうかしている。
それにしても、タロゥと言ったか。
タロゥ、タロー、Tarot? 聞いたことのない銘だった。
聞いた事はないが、どうにも”らしく”ない銘に思えた。
「Tarot(タロー)……そう、Tarocco(タロッコ)ね。聞いたことのない銘だわ。でも、間違いなく一級のマエストロ。お父様以外にも、まさか」
戸惑うように呟く真紅に、闇色の人形は今度こそくつくつと声を立てて笑った。不思議なことに嘲りの色も無く。
イタズラに成功した幼子が間抜けな大人の姿を見るような”目”をして、とても愉快そうに。
何故かもやもやとした気持ちで、真紅は改めて人形の閉じた瞳を見つめる。
そこに化け物などはおらず、間違いも無く薔薇乙女と同様の少女人形が一体あった。
良くないものに化かされた気分だ。訳が分からなかった。
「イレギュラー……分からない。これもお父様の意思なのかしら。今回のアリス・ゲームは一体――」
「おい、呪い人形! 一体何なんだよ。何を急に……!! な、何だこいつ!!」
そこで。
ようやく真紅のミーディアムが追いついて部屋に辿りつく。開口一番、不満とともに彼女に噛み付きかけて――暗がりに佇む闇色の人形の姿に悲鳴にも似た驚愕の声を上げた。
無理も無い。
真紅は今度は、本格的に大きく溜息を吐いた。
水揚げされた魚のようにぱくぱくと口を開閉する少年の姿にどうにも遣る瀬無さを覚えながら、その視線の先を辿る。
「……怖がることは無かろう。とって食われるわけでもあるまいに」
人形はうっそりと笑みを浮かべて言った。
びくり、と少年の怯えは一層に深まった。釣られるように、人形の笑みも深まったように見える。
「騒がしいわ、ジュン。それと、あなたも私の下僕を脅さないで欲しいわね」
「……下僕?」
「そうよ。ジュンはこの私――ローゼンメイデン第5ドール、真紅の下僕。ミーディアムなのだわ」
「……ミーディアム、か」
人形は何故か驚いたように呟いた。
相も変わらず不可思議な反応をする。ローゼンメイデンがミーディアムを連れている事など当然――ああ、そういえば彼女は違うのだったと思い出す。
「……ミーディアムなど。僕はレアでいい」
「レアでいい?」
更に奇妙なことを言い出した人形に、真紅は今度こそ困惑の声を上げていた。
レアとは一体どういうことなのか。ミーディアムを否定するのならば、レア(希薄)と言うことだろうか。
思わず、ミーディアムを持たない姉妹のことを思い出しかけて、決定的な違いに思い至った。そうではない。彼女の場合、必要の無いだけに過ぎない。レア(希薄)などと言うものを望みはすまい。
考えてみても、結局答えは出なかった。
「分からないわ、あなた。それだけの存在感をもってして何故」
「……わからない」
真紅の困惑は、それ以上の困惑に封殺された。
その閉じたまぶたをぎゅっと力を入れて、そこで奇妙な沈黙が降りた。
本当に、分からない事ばかりだった。
ジュンにしてみれば、真紅に輪をかけて分からないことだらけだった。
そもそも真紅自体が訳の分からないことの塊であった上に、それが訳の分からないことを言ってこんな所まで連れて来られたと思えば、極め付けがこの怖ろしい闇色人形だった。
(冗談じゃ、ない)
とてもまともではなかった。
その閉じた瞳も、奇妙に歪んだ唇も、何処か少しだけ真紅に似た魔的な妖しさの漂う白皙の美貌も。
この薄暗い部屋の雰囲気も相俟って、まるでこの世のものではない風にさえ思えるのだ。
或いは自分は既に狂ってしまったのだろうか。そう考えてしまえば全てに説明が付きそうで、だから怖くなる。怖くなる、と言うことだけがつまり、自分は狂ってなどいないと証明するのかもしれない。
ふと隣に視線を向けると、硬い表情で睨むように人形を見据える真紅の横顔が見えた。
その口元が何かを呟きかけて、結局ぎゅっと引き締められるのに気づく。
(……ったく、何なんだよ)
それが、奇妙なまでに苛ついた。
本当に、一体何が何だというのか。
分からないことばかりで、いい加減にしろ、と思った。
(ああ、もう!)
苛々する。
「おい、お前ら、僕を無視するなよ! 真紅、これは一体何なんだよ。説明しろよ、それにこいつは一体……お前の、仲間か何かなのかよ?」
「……うるさいわ」
「な、何だと!?」
押し殺した声と共に絶対零度の眼差しを向けられ、その理不尽に反駁する。
それは、確かに真紅にとっても色々と分からないこともあって思うところもあるのかも知れないが、幾らなんでもそれは無いと言うものだ。
ジュンの立場からは至極当然の疑問なのだ。
それを――。
「私は、まだこの子に聞きたいことがある。それに、私はこんな子は知らない。お父様の子ではないというなら、なおさらよ」
ああ、まただ。
さっぱりだ。
「お、お父様って何だよ。さっぱりだ、いい加減に――」
「……煩い」
苛立ちが限界を超え、思わず大声で怒鳴り散らしかけたところで、今度はもう一方の当事者から無機質な否定の声が掛かる。
無理に激昂を飲み込んで、思わず眩暈がするのを抑えつつ視線だけをずらした。
「――ひっ」
絶句。
気が付けば、力の抜けた膝が体を仰向けにしそうになって後退りをしていた。
(な、何だこれ、何なんだよ)
イヤダイヤダイヤダ。違う、これはそうじゃない。駄目だ。
コンなのは違ウ。駄メだ。良くなイ、決定的に駄目なので、だから在ってはならない。
何だこの眼は。
閉じている。
そうじゃないな、閉じていないと駄目なんだ。
多分そうしないと殺してしまう。
何を? 人間を、それだけじゃなくて何もかもを。物であってもきっと死ぬ。枯れる。腐る。
大切なものはもう殺した。死んでしまったのだから。
ああ、そうか、だからこいつは化け物だ。
赦さな……コのマガ……の――。
「取り込まれては駄目なのだわ、ジュン」
「――っ、真紅?」
「そうよ、眼を瞑りなさい。こんなものを直視してはいけない」
いつの間にか目の前には真紅が立っていて、視界を塞ぐように小さな手のひらを翳していた。
「……それでいい。あなた、危ないところだったわ」
「い、一体何が?」
「魔眼の一種、かしら。私にも分からない。ただ、あの眼はとても良くないものだわ、特に、あなたのような人間には」
「? 何だよ、それ」
「分からなければいい。ところで」
そこで一旦言葉を切ると、真紅は苦虫を噛み潰したような声を上げる。
「だから、私の下僕を脅さないで、と言ったわ」
案の定、闇色の人形が哂った。
その通りだ。今まさに真紅のミーディアムは魅入られ掛けていた。
この真紅の目の前にあって。ただの一瞥だけで。
屈辱にぎりりと歯をかみ締める。
それをすら楽しむように、人形は惚けた声で問いを重ねた。
「……欺瞞を。食餌なのだろう?」
「何ですって?」
「……ミーディアムと。糧とすると言ったのだから。それとも、家畜は大切にする性質か?」
「――なっ」
糧、と言ったか。
この人形はよりにもよって、水銀燈とこの真紅が同じだというのか。
馬鹿馬鹿しい。馬鹿にしている。
大体にしてこの人形は、許可も無く、誇り高きローゼンメイデンのミーディアムを”盗み食い”した。
そうだ、そう言うことなのだ。
原理も分からない。理由も分からない。
しかし確実にジュンは魅入られ、何かを貪られた。この卑しい紛い物風情に、だ。
そんなことはあってはならないし、許されはしない。
つまり。敵だ、と確定するには十二分に過ぎるというものだった。
「しょ、食餌? 家畜って何だよ!」
「違うと言ったでしょう。ミーディアムを食い殺すなんてあり得ないわ、真紅の名に賭けてね」
だから、下らない事を心配するジュンの問いに吐き捨てるように応えた。
全くこのミーディアムは自覚が足らない。覚悟が足らない。
この契約はもっと尊く、故にこそ儚く、そして脆いもの。
それを知ってか、人形が哂う。
吐き気を催すような、おぞましさで。
ああ、本当に。
こんなものを、一瞬でも似ているなどと思ったことが赦せない。
この、真紅の●●●●風情が――っ。
「……ふぅん」
「っ、何、かしら?」
「……いや?」
人形がもう一度、意味ありげにほくそえむ。
気持ち悪い。気分が悪い。ああ、苛々する。
何故かは知らないが、赦しがたい。
この閉じた眼を見ると、どうしても。どういう訳か。
「……っく」
そこで。
唐突に、真紅は衝撃を覚えた。
(……これは……私は、何を――っ、しまった)
何としたことか。
ああ、そうか。
これが、そうなのだ。
漸く、真紅はこの闇色の人形と対峙してからの自分のおかしさを自覚するに至った。
そう言うことなのだ。つまり最初から魅入られたいたのは……ああ、なんてこと。
冷静にならなければならない。
(そう、こんなものに、取り込まれては……けれど、なんて)
寂しい。
気付いてしまえば、その事実にきりと胸が痛んだ気がした。
「そう、それよりも大切なことに答えていないわね。あなたは誰? そして、一体何のためにここへ現れたのかしら?」
今度こそ冷静に、真紅は深い息と共に問いかけた。
対する闇色人形は、彼女が漸く”気づいた”ことを悟ってか、何処か呆れたような声で返した。
「黒曜」
ああ、本当に馬鹿馬鹿しい。
「……黒曜。そう、それがあなたの名前ね」
そして何て悲しい。
真紅はそっと眼を伏せて、彼女――黒曜の、その本位ではないはずの呪いに抗う。
黒曜は、だから見ないのだろう。
「喪服のような黒衣。鴉の濡れ羽色の髪。閉じたままの瞳。そして切り付けるような鋭さも。そうね、確かにあなたは黒曜なのだわ」
時に眼球を切り刻む為のメスとして利用される黒曜石の名を持つことは、彼女の父――タロゥと言ったか――のいやらしい皮肉なのだと考えるのは、深読みに過ぎるか。
ただ、どちらにしてもまともな人形師ではないのは分かった。
もとより人形とは慰め、癒すもの。
真紅はもう一度、黒曜の閉じた眼差しを睨んだ。
どんな魔術か呪いかは知らないが、自らの娘にこんな力を与えるなど、正気とはいえない。
(尤も、私たちのお父様も……いいえ、そんなはずは無い)
もう少し冷静になる必要があるだろう。
なぜならば最初から、黒曜は真紅に”敵対などしていない”のだから。
真紅は今度こそ、盛大な溜息を吐いた。
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