呪いの花は漆黒。
邪悪と言う名の彩は咲き誇り、悪徳と言う名の蜜で清浄を誘う。
悔恨と言う名の水を吸い上げ、絶望と言う名の光を浴びて、破滅と言う名の風に揺れる。
灰色の草原にぽつと一輪、涙雨に濡れて、根も茎も葉も花弁も全ては黒一色。それでいて怖気がするほど美しい。
そんな花が実在するならば、きっとそれで間違いはない。
薄暗いこの部屋は、久しく使われていなかったことも相俟ってか実際の気温よりも随分寒々しい。入口から差し込む一筋の光が不気味に姿見を照らして、別世界へと誘う扉はぼんやりとほの明るい。
皓々と紫色に燃え上がる古びた白い布地を前に、呪いの花――黒曜と名乗ったその人形は無感情に佇んでいた。
何かが決定的に間違っているような雰囲気がそこにある。
適当な言葉は見当たらないが、その違和に気が付いたなら、例えば喉の奥のかゆみのようにもどかしい。
「これは一体――」
ジュンの叫ぶ声も耳に入らず、真紅は辛うじてそれだけを口にしていた。
何が、と言うことは難しい。強いて言うならばその在り得なさが、だ。
これは一体、どんな冗談か。
薔薇乙女達と比すれば随分と飾り気の少ないゴシックドレスに、背中まで覆う鴉の濡れ羽色の髪は真っ直ぐにさらさらと流れている。閉じた瞳は却って彼女の神秘性に拍車を掛け、僅かに歪んだ赤い唇には幼さと妖艶さを等分に湛えていた。
そうして彼女は、その全てを否定するような禍々しさを纏い、暴力的な”力”でもって炎を遣っていたのだ。
断言しよう。彼女は狂っている。
「も、燃えてる! 火事だ! しょ、消火器はどこに……ないっ? くそ、どうすりゃいいんだよ」
ジュンは焦燥と恐怖に震え、吐き捨てるような声を上げる。
同様に、自覚なく真紅は震えていた。
「な、何だ? 消えた?」
「……全く、物覚えの悪い下僕……ね。あれはこの子――黒曜が……白布の”在る力”を飲み乾した……のだわ」
そうだ。震えていたのだ。そのおぞましさと滑稽さに。
ミーディアムの無知を罵る言葉すら、その意味する事実の現実味のなさに切れ切れになった。
白布が邪魔ならば単純に避ければ良い。乱暴な方法であっても、切り裂くか、或いは普通に燃やしてしまうだけで良いはずだ。
それを黒曜はあろうことか”喰った”のだ。
先ほど真紅自身やジュンがそうされたように、意思無きものも人形も人間も等しく、意地汚い餓鬼のように。
真紅は震えていた。
恐怖などでは決してない。生理的嫌悪でだ。
悪食にも程がある。殆どカニバリズムに近い。在り様を喰うと言うことは、人形にとっては命そのものの生食に等しい。
許せない、と改めて思ってしまう。こんな気味の悪いものが、誇り高きローゼンメイデンと非常に似通った存在であってしまうことが。
最早これが彼女の魔眼に操作された感情であるかすらどうでも良かった。それほどまでに、これは決定的に認め難いことなのだから。
まるで天使像の精巧なレプリカに、黒い蝙蝠の羽を取り付けられたような嫌悪感。作者の意図がどうあれ、敬虔な信徒にとって挑発以外の何者でもない。
(性質が悪い――なんていう生易しいものじゃないわね)
尚のこと真紅が遣り切れなく思うのは、しかし黒曜本人はまるで自らのおぞましさを当然のこととして受け止めているように見える点だった。つまりそれこそが、彼女がどうしようもなく狂っている証左であるのかも知れないが、同時に余りに無邪気とも思える。
だからこそ彼女は酷く苛々した気持ちになり、気を落ち着かせるために軽く双眸を閉じてふうっと大きく息を吐いた。
(まるで薔薇乙女達に憎まれるために生まれて来たような子)
脳裏に閃いたのは、そんな妄想じみた想像だった。
しかし、意外に荒唐無稽と言う訳でもないかも知れないと、真紅は思わず皮肉気な微笑を漏らしていた。
その様が眼前に映し出される。
そこで漸く、彼女は彼女の求めるものに気が付いた。
「それよりも見なさい。ここからなら繋がる」
「ったく、何だよ。……鏡?」
「そうよ、私の探し物。黒曜が見つけてくれたわ」
呑み尽くされた白布の下から現れたのは鏡だ。
通常の家庭には珍しいほど装飾の施された大きな姿見に、ジュンは訝るような声を上げる。
これが真紅の探し物だと言う。確かにこんなものもあったが、しかしこれが何だというのか。
「……探し物って、これが? そういや、こんなのあったな。でも、鏡がどうしたんだよ」
「いいえ、鏡でなくてもいいのよ。けれど、ただの鏡ではいけない」
ジュンの疑問に対する真紅の答えは、やはり彼にとって要領を得るものではなかった。
ジュンはもう何度目になるかも分からない溜息を吐くと、軽く髪を掻き毟りながら視線の先を漆黒の少女人形の方へと向ける。
真紅に輪を掛けて分からない存在は、その鏡の向こう側を閉じた双眸で睨み据えていた。
その先に何があるというのか。ちらと覗き込んでみるものの、取り立てて不可思議なものはない。
この薄暗い部屋で鏡を見ると、どうにも不気味な心持になるとは言え、それだけだ。
「それは――」
どうも判然としない彼の胸中を無視するように真紅は更に説明を重ねる。
否、重ねようとして、底冷えのするような重苦しい声に塗り潰された。
「認めない」
「! ……黒曜? あなた何を」
「……おぞましい」
直後、甲高い悲鳴のような風音が響いて。
「やめなさい!」
悲痛とも言える真紅の声は届いたのかどうか。
蛇足ながら語るが、黒曜石(オブシディアン)はパワーストーンとしても有名である。
宝石言葉は摩訶不思議、完璧さ、そして心眼。
また、邪気を吸う守護石でもあり、人の無意識を映し出し、潜在能力を引き出す強力な魔石ともされる。
要するに【鏡】としての力を強く示す類の宝石であると言えるが、訳の分からなさ、得体の知れなさといった意味ではまさしくではないだろうかと、真紅は眼前の光景にそう強く思った。
(――だなんて、つまらない言葉遊びかしら)
黒曜の伸びた爪が禍々しくも鋭い剣と化して今にも水銀燈の喉を貫かんとしたまま、辛うじてぎりぎりの位置で止まっている。
正確に言えば止まったというより真紅が止めたのであるが、彼女自身何故そうしたのかの明白な理由は分からなかったし、まして黒曜がそれに従った理由も一層に不明だった。
「……今日は本当にどういう日なのかしら。ねえ、水銀燈」
疲れたように呟く。
「あら、お久しぶりねぇ、真紅」
真紅の問いかけに、水銀燈が何事もなかったように返す。
ただ、良くも悪くも付き合いの長い真紅にとってみれば、それが僅かではない苛立ちを含んでいることを見て取ることは容易だった。
相変わらず、黒曜はそのままの姿勢でぴくりとも動く気配はない。
その表情も同様に、何の感情も見て取ることは出来ない。
だが。
(「認めない」と、「おぞましい」と、そう言ったのだわ)
彼女は間違いなくそう吐き捨て、そして間違いなく殺意を持って水銀燈を攻撃しようとしていた。
それが酷く奇妙であり、真紅の混乱を助長させている。
何故なら、黒曜は真紅に敵対などしなかったし、まして具体的な攻撃など何一つしようとしなかったのだから。
だからこそ真紅は黒曜を敵ではないと思ったのだ。
けれど現実に彼女はその名と同じ黒曜石の刃を水銀燈へ向けていた。何事もなかったように無感情な――否、いつの間にかその閉じた眼差しには、哀れみすら浮かべている。
(一体何を哀れんで――)
そのことに気が付いて、真紅は僅かに眉を顰める。
「……それに、そちらのあなたもね。随分なご挨拶――……っ!!」
水銀燈が視線を向けたその刹那に。
轟、と怖ろしげな風鳴りと共に黒羽が舞っていた。
それは切り裂くと言うより掻き裂く刃。
充分に鋭利でありながら、わざとらしいほどに無造作な挙動は、敢えて苦痛を与えるための嗜虐性を思わせる。
咄嗟に跳ぶも僅かに間に合わず、黒曜の薙いだ爪が水銀燈の頬を掠め、数本の解れ髪が切れ落ちる。
それはきらきらと銀に輝いて、直後、容赦もなく執拗に返す刃に細切れと化した。
「……いや、失敗」
小ばかにするように、黒曜が哂う。
挑発するようにその閉じた眼差しを向けられ、今度こそ水銀燈の相貌を明白な怒りが染め上げた。
「――どういうことかしら? 有無を言わさずなんて、随分と好戦的ねぇ。……それは、宣戦布告と受け取ってもいいのかしらぁ」
「……それは、」
応えは、紫焔。
向けたままの黒爪の先から勢いよく迸ったそれが水銀燈を呑み込まんとして、果たせずに燻って消える。
水銀燈の背中から黒翼が生えると、そこから黒羽が殺到して爪を覆い隠してどうにか消し止めたのだ。
その勢いのまま黒曜の全身に群がるのを、彼女は一層の激しい焔を纏わせた爪で切り刻んだ。
余裕すらにじませる、そのある意味で優雅な所作に、水銀燈の頬が思わず引き攣れる。
「私ね、お馬鹿さんも、話の通じない子も嫌ぁいよ。――その”目”、気に入らないわぁ」
真紅には信じがたい光景だった。
何故ならば、彼女にとって水銀燈とは戦いと言う点では間違いなく最強であったのだから。
無論、真紅とて戦えば負ける積りはない。しかし、正面から力押しで挑んで勝てると断言出来るほどには平和な頭の構造はしていない。
要するに彼女は強い。
もとより、彼女たち姉妹は戦いのための存在ではないのだが、水銀燈だけは特別に強かったのは認めざるを得ない。
だと言うのに、今その彼女は新たに登場した不気味な闇色人形の前にまるで手も足も出ていないのだ。
繰り返すが水銀燈は強い。
ならばその彼女を相手取って余裕すら見せる黒曜は何者か。
(化け物め)
心中で水銀燈は詰っていた。
(黒曜、と言ったかしら。気に入らない……その目は、気に入らないわ。いつか何処かで見た、その哀れむような目は)
何者なのかは知らない。そんなことは重要ではない。
それよりも。
馬鹿にしている。気に入らないのはそこだ。
ああ、そうだ。認めよう。この化け物がその気なら、自分は既に本物のジャンクと成り果てていただろう。
水銀燈は自分が”引きずり出された”のだと言うことも自覚していた。
鏡越しに掛けられた重圧に耐え切れずにこちら側へ引き込まれ、あまつさえ必殺の剣を眼前で寸止めされる屈辱も味わわされた。
誘われるままに交わす刃も僅か数秒数合にして、この苦さは明らかな現実に違いない。つまり彼女は全力で攻撃したのだ。それを遊ぶようにかわされた。
確かに彼女とて未だ本気とは言えない。本気で闘いをするならば、如何なる条件においても負ける積りなど微塵もない。しかし、現時点で圧倒的に自分が不利である事は否みようもない事実。油断と言い訳をする前に、壊されてしまっては意味がないのだから。
だと言うのに、だ。
その眼差しは何だというのか。勝ち誇るでもなく、嘲弄でもなく、まして殺意でもなく、無関心ですらなく、それは哀れみなのだろう。
何を哀れむ? この私を? よりにもよって、私を!?
「――っ」
必要以上なまでに苛む。
痛い。
(ふざけるな、私は、可愛そうな、子なんかじゃ、ないん、だから)
じくじくと痛む。胸の深い部分が、悲鳴を上げてしまいそうなほどに。
憎しみの源は真紅。それは明らか。けれど、何故か目の前の人形が同様に腹立たしい。
ぎりと無意識に奥歯をかみ締めていた。
「し、真紅。どうなってるんだよ、こいつら急に殺し合いを!」
真紅のミーディアムが悲鳴のような声を上げる。
殺し合い? 馬鹿馬鹿しい、この一方的な、戦いですらない喜劇を殺し合いなどとは。
けれど、殺さなくてはならない。壊さなくてはならない。全身全霊を賭けて、眼前の存在の何もかもを否定しなければならない。
何故なら水銀燈は、初めて自分以外の人形を怖いと思ってしまったのだから。
彼女のその閉じた瞳はまるで、絶対に触れてはいけない部分を容赦なく弄い、見たくもなかったものを眼前に突きつける。
それを指して黒曜【真実の瞳】とでも言うのか。
返す返すも馬鹿馬鹿しい。
何がと言えば、こんな化け物と出会ってしまったことが。そして、そんな事を認めてしまう自分自身の弱さが。
だから彼女は決意した。
直感したと言って良い。この化け物の全てを奪い、手にすることが出来たなら、きっと私は完全に近づける、と。
(だって、黒曜【完全の導】なのでしょう?)
それはとても馬鹿らしいとしても、何故か馬鹿に出来ないように感じたのだ。
「――これは、いえ、止めなさい、二人とも。これはアリス・ゲームではないわ。水銀燈、この子は、黒曜はローゼンメイデンシリーズではないのだから」
「っ……そう。それが本当だとしても、先に仕掛けたのはその子の方よ。何よりどうして私が真紅の指図を受けなければならないのかしらぁ?」
そこへ割り込んだ真紅の言葉に、水銀燈は思わず失笑しかけた。
何を馬鹿馬鹿しい。そんな当然すぎることを、改めて指摘されると滑稽でしかない。
相変わらず真紅は馬鹿だ。
馬鹿なくせに、姉妹の誰よりも知った風な口を聞きたがる。
水銀燈に言わせれば、真紅こそが全くアリスには程遠い。少なくとも雛苺と同等に相応しくない。
アリス・ゲームではない? ローゼンメイデンシリーズではない?
そんなことは、議論の余地もない。一瞥すれば分かること。まさかこんな悪趣味な化け物を、お父様が作ったとでも言うのか。
あり得る訳がないだろう。ローゼンメイデンとは、例え不完全であったとしてもお父様のアリスなのだから。
そんなことも分からないなんて。
否、そんなことは百も承知であろうに、そんなことを言えてしまうなんて。
「本当にお馬鹿さぁんね、あなた」
だからこそ、軽い口調とは裏腹に、水銀燈の胸中は腸が煮えるような怒りに満ちていた。
そしてそれが逆説的には、いつもの忌々しい真紅を再認識させてくれる役割を果たし、彼女に冷静さを取り戻させる。
「何ですって? 誰がお馬鹿よ」
「お馬鹿はお馬鹿よ。そんなことも分からないお馬鹿さんの真紅」
ああ、本当に。
何も変わらない真紅。何時までも変わることなく馬鹿で、憎々しい真紅。
「っ、馬鹿って言った方が馬鹿なのよ」
「うふふふ、相変わらず怒った顔も――ブサイク」
「な、ブサイクですって? どこが、私のどこがブサイクなのか説明しなさい」
「ぜんぶ」
何もかも。
それに気付いていないのだから、とても罪深い。
「!!!! きーー、ジュン、私の鞄を開けなさい。早く!」
「え、いや……ハ、ハイ」
茶番のような口論は終わりを告げ、真紅が決定的な決別を口にした。
何故ならそれは、彼女たち薔薇乙女にとって己の全身全霊を掛けて行う戦いの合図。
アリス・ゲームの始まり。
最早後には引けないという意味であると、少なくとも水銀燈はそう認識していた。
尤も、真紅にとってそれがどの程度に軽はずみな気持ちなのかは、理解したくもないところだったが。
真紅に命じられ弾かれたように走り出す少年へ、水銀燈は視線を合わせる。
人工精霊を出されては面倒。
そうした実利的な理由とは別に、単純な真紅への苛立ちからミーディアムの少年の心を縛り付けた。
「あっ……か、はあ。ああぁ」
乾いた土の上でのた打ち回る魚のようだ。
苦痛に喘ぐ少年の姿を見ながら、水銀燈はそんな事を思った。
嗜虐趣味は自覚していたが、今日は何時になく愉悦の度合いが大きい。
壊していることを強く実感できて、思わず声を上げて笑い出したいほど。
何と無様な姿だろうか。
そして何と脆く、つまらないのか。
水銀燈はその身勝手な激情に身を任せようとして。
「……くだらん。醜い争いを止めろ」
――神聖な闘いを穢された。
アリス・ゲームは始まらない。
「……っ」
言葉を失う感覚というものを、初めて味わわされた気がする。
何を言うべきか、何を思うべきかすら忘却する。
全く持って心地よくなどない忘我の一瞬。
そして直後に、余りにやりきれない巨大な感情が彼女を支配していた。
(ああ、なんて。なんて最低なのかしら)
何もかもを滅茶苦茶にしてやりたい衝動に駆られそう。
何故なら、言われるまでもない。
とても大切なものを哂われたのだから、つまりそれは意義の無い殺し合いの合図。
「falso【マガイモノ】!!!」
水銀燈が背中の羽を広げ呪いの言葉を口にしたと同時に、黒光が薄明かりを灼いた。
まるで出来の悪いオーケストラ。
黒曜の指揮に合わせ、煌く宝石がちぐはぐな悲鳴を奏でる。
大小あわせて数十。それはさながら黒い雨のように。
その黒曜石の剣は、純粋な破壊力において絶大だった。ただし、精緻さには欠ける。
しかしそれを補って余りあるほどに鋭く速く、しかも貪欲に暴食する。
纏った紫色の焔は実は焔ではなく、存在を喰らわれたモノがこの世界から消滅するときに上げる苦痛と憎悪と絶望の現れだ。
実に大雑把な攻撃ではあったが、触れるだけで致命傷になりかねない威力は水銀燈に避けることを強要し、それがどうしようもなく彼女を苛立たせた。
とは言え、これほどの力の行使は黒曜の身をも苛むだろう。
何時までも続けられる類のものでもなく、恐らくはもって数十秒。
その間隙を突けば水銀燈の勝利自体は難しくない。
必然的に水銀燈としてはまず回避に徹しつつ黒曜の隙を伺う戦術を取らざるを得なくなる。
彼女には、それが誘導されたように思えて面白くなかったが。
どちらにせよ、ほんの少し先の未来には彼女にはつまらない勝利が齎されるだろう。
黒曜の思惑が何であれ、少なくとも水銀燈にとってそれは確信と言えた。
――彼女がそれを目にする前は。
瞑目して淡々と指揮を続ける黒曜の二歩後ろ、戯れに水銀燈が操った熊のぬいぐるみが串刺しにされていた。
その背中の左右にまるで天使の翼のように黒曜石を生やし、地に浮いた短い手足をばたつかせる様は見苦しいを通り越しておぞましい。
その黒曜石は他と違って天井へ向けて枝のように広がり、骨の翼を思わせた。
グロテスクなカリカチュアを背後に従え、黒曜の閉じた眼差しが挑発するように彼女を射抜く。
水銀燈が何かを返そうとした刹那、数十の剣がぬいぐるみを掻き裂いた。
皮膚を破って腸が飛び出す。
もとより小さな体は更に細かくなって散乱する。
未だにらんらんと輝く眼が、胴と泣き別れた頭部の中心で天井の染みを睨んでいる。
黒曜が掲げた腕を下ろす。
そしてそれが同時に、演奏の終焉をも意味していた。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
打って変わって静寂が訪れる。
水銀燈は動かない。
機は完全に逸していた。
しかし、そんな事はどうでも良い。
ぎちぎちと昆虫の鳴き声を思わせる音を立て、地面を縫いとめていた黒曜石はふっと空気に溶ける。
呼応するように、水銀燈が地面に降り立った。
何か言葉を発しようとして、結局は閉口する。
飲み込まれたのは恐らく、罵倒の類だったろうが、何故かそれは相応しくないように思えたのだ。
軽く頭を振って一歩を踏み出す。そこで彼女は、何か柔らかいものを蹴り付けたのに気が付いた。
見れば引き裂かれたぬいぐるみの足が一本、狙い済ましたように彼女の足元に弾き飛ばされて来ていた。
彼女はそれを拾い上げて、ぎゅっと強く握り締める。
いつの間にか無意識に笑みを浮かべていた。
「つまらなぁい」
口を突いて出たのは、ただそれだけ。
他に何を言うべきかは分からない。これほど醜悪な存在を、かつて見たことはなかったのだから。
「つまらなぁい。面白くなぁい。情けない真紅も、役立たずの人間も、何より、黒曜だったかしら? あなたが一番嫌ぁいよ、私。決めたわぁ、アリス・ゲームとは別に、あなたのローザ・ミスティカは、私が貰う。有効活用してあげる」
申し訳ない気持ちにすらなった。
ローザ・ミスティカは、もっと正しく使われなければならない。
こんな化け物のために、在るべきではないのだ。
ぬいぐるみの足の切断面を爪で掻くと、綿がこぼれた。
ぼろぼろ、ぼろぼろ。
「今日は帰るわ。興ざめだものね」
ふと真紅の方へ視線を向けると、ドレスの破れた惨めな姿があった。
けれども決して膝を屈することはなく、ミーディアムを守ったつもりなのか、両腕を大きく広げたまま黒曜を真っ直ぐに見つめている。
何処か複雑そうな、哀しみすら湛えた眼差しが何を意味するのかは知らなかったが。
或いはこの化け物に同情でもしているのか。それは余りに馬鹿馬鹿しいが、偽善者の真紅ならばあり得ないとは言い切れない。
真紅の背後には真紅のミーディアムである少年が尻餅をついて呆然としていた。
今になっても恐らく、一体何が起こったのかすら理解していないような顔をしている。
黒曜はただ静かに、傷ついた水銀燈の翼を眺めていた。
再び爪を動かす。また腸がこぼれた。
ぼろぼろ、ぼろぼろ。ぼろぼろ。
何もかも、面白くない。
「……じゃあね、真紅、それから黒曜。また逢いましょ。今度はnのフィールドでね」
その言葉に、真紅ははっとして水銀燈へ向き直った。
「ま、待ちなさい……っく」
「お、おい真紅」
けれど、最早遅い。
水銀燈は再び真紅を顧みることなく、その手の中のものを黒曜へと投げ返した。
漆黒の人形は動じた風もなく、それを受け止める。
「それ、あげるわぁ」
これは手袋ではないが、まあいいだろう。似たようなものだ。それに重要なのはそこではない。
水銀燈は投げつけ、黒曜はそれをしっかりと受け止めた。
古臭い作法ではあるが、つまり決闘の契約はここに成立したのだ。
アリス・ゲームではなく、神聖なものではないとしても、この水銀燈が全身全霊を掛けて戦うことを誓おう。
「うふふふふ」
軽く居住まいを正すと、水銀燈は自分でも病んでいると自覚する声で笑って姿見の前に立つ。
最後に一度、鏡越しに黒曜と見詰め合って、そのまま中に沈んで消えた。
本当に今日は何と言う日だろうか。
「ふふふ、ふふふふふふふふふふふふふふ」
避けきれず、貪り食われた翼が今になってじくじくと疼いている。
痛くて痛くて、おかしくなってしまいそうだった。
「あはっ、あははぁ、ふふ、ふふふふ、ふふふふふふふふふふぅ」
無限に湧き出す泉水のように、笑いが止まる気配はなかった。
思考は千々に乱れ、一体如何なる感情に因るかすら曖昧になっている。
唯一つ、確かであるとすれば。
「ふふふふふふ、ふふふふふふふ……そうね、化け物は殺さないといけないわ……壊さないと、駄目よね……ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ……ああ、本当に、何てことなのかしら。あんな、あんな化け物が……ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふっふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ……痛い…………痛いわぁ……ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふっふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふっ――殺、してやる」
それは、殺意、だ。
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