ただ一輪の花が在ったとして。
それはとても綺麗だけれど本当の本当に孤独だったとする。
どれだけ咲き誇ったところで誰からも無視をされて、そのまま枯れて行くような。
そうした花が在ったとして。
その花が猛毒を持つとしたら、私は悲しいと思う。
無造作に置かれた調度は破れ壊れ割れ、弱弱しい外の明かりを浴びて寂しげに佇んでいる。積もった埃が宙に舞い上げられていて、彼女のミーディアムが苦しげに咳を繰り返していた。
その声がやけに大きく響いて、黒い嵐が去った後は不気味なほどに静かだ。
踏みしめた床が高い声を上げて鳴いた。
今更ながらに、この部屋が久しく主を持たなかったことに気が付く。
大げさに言って、この狭い部屋は既に廃墟にも近かった。
しかしそんな中にあって彼女の周りは不自然に小奇麗なままだった。
そしてその事には気付いていたので、真紅はそっと目を伏せた。
(泣きそうな顔をしていたわね)
痛ましいと言うべきなのだろうか、遣り切れないと言うべきなのだろうか。
少なくとも悲しいことだとは思った。
子供の癇癪にも似ている。
本当に伝えたいことを伝える能力が足りず、ストレスを適切に処理出来ないが故に荒れ狂うしかない。
勿論、そんな事をしてみてもどうしようもなく、ただ虚しさと惨めさが後には残るだけ。
それがまた苛立ちへと姿を変え、また最低の悪循環は巡る。
(分からなくなった。いいえ、分からされてしまった、かしら)
最初は怒り、それから嫌悪。
それらはもしかすると偽物だったかも知れないが、偽者でしかなかった筈はない。
とても馬鹿げた、おぞましくも呪わしい、まさに薔薇乙女達に憎まれるための存在に思える。そのこと自体は、勘違いなどでは決してない。
彼女の感じた怒りも嫌悪も、疑いなく本物で、まだ胸の内にはそれが燻り続けている。
彼女のしたことを肯定することなど決して出来ない。同じことを繰り返されたならば、ついには赦せなくなるのかも知れない。
それは知っている。それは知っていて、それでも迷うのだ。
ただ、彼女を支配する最大の感情が何かと問われるならば、一言で「憐憫」と言う外はない。
(そう――泣きそうな顔をしていた)
黒曜石の嵐を操る彼女の瞼がぎゅっと強く閉じ合わされていた事に気が付いてしまった。
最後には焦るようにその手を下ろし、水銀燈へ向ける閉じた眼差しには怯えすら感じ取れた。
制御しきれない巨大な力に呑まれ、もがき苦しんでいるように見えた。
そして、何よりも。
彼女が這い出た鞄は新品同然だった。
その何処までが真実かは知らず、真紅の願望が多分に含まれていたかも知れないにせよ、一度そう思ってしまえばこれまでの黒曜の行いが違って見えてしまうのだ。
彼女はきっと、何一つ知らず。
彼女はきっと、何一つ邪悪ではなかった。
無垢で愚かな子供のように。
誰もが誤解とすれ違いの中で生きているのだ。
そんな事は誰もが承知しているからこそ、幾重にも言葉を語り、必死に行いを示そうとする。
どうか分かって欲しいと。誰も分かってくれないと嘆きながら。
けれど、真に分かりあうことなど誰にも出来ず、誰かを信じきれずに悲劇は起こる。
それはきっと、今この瞬間にでも、であろう。
事実、水銀燈が黒曜に向けた苛烈な眼差しと言葉はどう考えても呪いに満ちて思えたのだから。
それが思い過ごしであれば良い。ただ、現実は大抵の場合残酷だ。
その結果として待つであろう怖ろしい未来を予感して、真紅は反射的にホーリエに追跡の命令を下していた。
冷静になってみれば、最善ではなかったかも知れない。
しかし、後悔の前には幾らでもやるべきことはあるだろう。
例えば――。
「……真紅」
「っ……なに、かしら」
唐突に掛けられた声に、物思いに沈んでいた真紅はびくりとして応えた。
見れば、いつの間にかそばに来ていた黒曜が痛ましげに彼女を見下ろしている。
正直に言えば、黒曜の閉じた眼差しは相変らず怖ろしい色で彼女を苛んで来ていた。
ただし、その更に奥にある悲しみは本物だと信じられる――信じることにしたのだから、最早それは真紅にとって邪悪ではない。
妄想? そう笑うのならばそうすれば良い。しかしその妄想こそが人を信じると言うことに他ならない筈だ。
心が読める化け物でもない限り、誰しもがそれ以上に信じる術はないのだから。
「くそっ、何がおかしいんだよ! お前、自分が何をしたのか分かってるのかよ」
真紅の眼前に守るように立ち、ジュンが声を荒げた。
安心させるようにぎこちなく笑んだ黒曜のそれを馬鹿にされたとでも思ったのかも知れない。
このままではいけない。
「止めなさい、ジュン」
出来る限り落ち着いて声を出したつもりが少し冷たい色を宿してしまった。
そのせいかジュンは一層興奮して、今度は真紅へ怒りの矛先を向ける。
「真紅? 何を言ってるんだ。こいつは僕を、お前も殺そうとしたんだぞ!」
「違うわ、それは。だって私もあなたも、誰も死んでなどいないのだから」
「それは、結果としてはそうかも知れないけど。だからって!」
上手く伝えられないもどかしさに歯噛みしそうになる。
そうではない。そうではないのだ。
確かに今の真紅はドレスも裂かれボロボロのように見える。
けれどあれだけの猛威に晒され、しかもジュンを庇ったためにその場を動けなかった状態で、致命的なダメージはまるで負ってはいない。
あの攻撃は、その気があれば彼女を一瞬でジャンクにしてしまう事も出来たくらいの怖ろしい威力を秘めていた。
それが意味するところなど、全く明白と言うものだった。
「だから、違うのよ。この子が本気だったなら、私もジュンも、水銀燈だってきっと無事ではすまなかったわ」
でなければ、あんな風に、こんな風に、泣きそうな顔をする筈がないではないか。
「――っ」
その証拠とでも言うように、黒曜は一瞬息を飲み込んで、それから僅かに俯いた。
対照的に、ジュンは有り得ないものを見たように目を見開いて、小さく唸りつつ頭を掻き毟った。
分かり合えないことが、どうしようもなく悔しい。
誰も悪くはない筈であったのに、この滑稽な悲劇は誰によって齎されたのか。
訳も分からず銃を持たされた子供が人を撃ち殺したとして、その子供をどう責めるべきか。責める言葉などあるだろうか。
では、子供は引き金を引いたら弾丸が飛び出すことを知らなくて、それが当たったなら人が死ぬことを知らなかったので、仕方がないのだと死んだ人の大切な人へ告げられるだろうか。
出来る筈がない。
けれど、無自覚の凶行をどうして裁けると言うのか。
断言しよう。彼女は狂っている。
そして世界はもっと狂っている。
誰が子供に銃を渡したか。
だから、真紅は確かめようと思った。
「もう一度問うわ、黒曜。あなたは誰? どうして、ここへ来たの?」
「……分からない」
真紅の唇が皮肉に歪む。
黒曜はやはり何も知らない。
「分からないだと? よくもお前、こんなことをして、それでそんな――」
「ジュン、少し黙っていなさい」
「っく、何だよ。くそ」
激昂しかかるジュンを軽く嗜めつつ黒曜を見遣ると、彼女は何も言わず戸惑うように無音の声で呟いた。
「それじゃ、質問を変えるわ。あなたのお父様――Tarot(タロー)と言ったかしら、その方はどうしたの?」
真紅はついに問うた。
そうだ、それこそが最も真実に近いに違いない。
黒曜は人形なのだから、それを生み出した者がいる。
そしてその者こそが彼女に呪いを掛けた人物なのだと考えられる筈だ。
例えば薔薇乙女達にとってはお父様こそが存在意義。
お父様のために、お父様によって生み出され、お父様のために戦い、お父様のためにアリスを目指す。
それは真紅にしろ、水銀燈にしろ、雛苺にとってすら絶対であって、彼女達の本質はそこから始まっている。
だからTarot(タロー)を知ることが出来たなら、きっと黒曜の真実に近づくことが出来るだろう。
「……それも、知らない」
けれど、現実はずっと最低だった。
そしてもっと最低なことに、黒曜は不思議そうにして答えたのだ。
真紅の歪んだ唇が、更に歪んだ。
ただし、今度は全く別の理由において。
「正確に言えば、知ったことじゃない。僕は気が付いたらここにいたのだし」
何を問われているのかすら知らず、淡々と事実だけが告げられた。
知らない? 知ったことじゃない?
気が付いたらここにいた?
この、何も知らないに違いないまっさらな人形が。
そんなのは――それでは、そんな。
彼女は――。
「っ、そう……あなたは、”どうしてここにいるのかも知らない”のね」
気が付いたなら、見知らぬ場所で子供がひとり。
右も左も分からずに、ただ泣きじゃくるばかり。
子供を無条件に愛し、守ってくれる筈の親はいない。
何故って?
迷子になった? はぐれた?
そうかも知れない。そうかも知れないが、そうじゃないかも知れない。
そうじゃないのだとしたら、それは。
子供は――彼女は、捨てられたのだ。
その手には、使い方も知らない危険な銃を抱かされて。
(……っ、馬鹿馬鹿しい、妄想なのだわ)
(そんな馬鹿げだことは、そんな酷いことはある筈がない)
脳裏に閃いた最悪の想像を打ち払い、真紅はゆっくりと息を吐いた。
(どちらにしても、見捨てては置けないわね)
真実の追究は後回しにする。
黒曜がTarot(タロー)を知らないというなら、そして彼女が何のためにここにいるのかを知らないというなら、結局は同じことなのだから。
これほどの力を持ちながら、それに振り回されるだけの彼女を放って置く事など出来なかった。
ジュンには到底信じられなかった。
黒曜の全てを許そうとするかのような真紅の言動には、裏切られたような衝撃を受けた。
彼女とてこれだけ容赦のない攻撃に晒されたはずだと言うのに、それでも許そうとするのは馬鹿だとしか思えない。
何かに取り付かれたように優しく笑う真紅の横顔は、どこか狂気染みていた。
(何なんだよ、それ)
それが哀惜と決意の眼差しへ昇華するに至っては、最早最低な悪夢を見せ付けられるようだ。
きっと、真紅は何か良くないものに操られている。或いは、危険な妄執に取り付かれているのかも知れない。
まるで黒曜でさえ被害者のように彼女は語る。
糾弾しようとするジュンをこそ悪とでも言うように冷たい拒絶を向けられた。
何を馬鹿なことを言っているのか。
どんな理由があったにしても、黒曜に非がない訳がない。
確かに酌量の余地だってあるだろう。だからと言って、最初から許してしまうような理由はない筈だ。
(だって、あいつは――笑ってたんだぞ)
姿見に掛けられた白布を燃やす直前。
水銀燈の喉元を貫かんと爪を伸ばした瞬間。
そして、怖ろしい黒曜石の雨で部屋を無茶苦茶にしようとしたその時に。
どうしようもなく壮絶に、これ程憎しみに満ちた表情がこの世に在るのかと言うほどに。
あれを見てしまった後では、真紅の言葉に頷けよう筈などはなかった。
しかも、今になって何も分からない様な顔をして平然と佇む黒曜の姿には、救いようのない歪みを思わずにいられない。
(完全にイカレてるんじゃないのか、こいつ)
全て演技ならば却ってマシだ。それはただ最低なだけの邪悪だ。
そうではなく、全てが彼女の本当なのだとしたら、それは最早理解不可能な怪物でしかない。
だからジュンは、きっといつか取り返しのつかない事になると予感した。
「それは……何てこと……まさか」
暫くの沈黙の後に、黒曜がぬいぐるみの足を差し出した。言葉は伴わず、何かを訴えるように真紅へと見えない眼差しを向けて。
殆ど反射的に彼女はそれを両手のひらで救い上げた。
何かを言いたげにしながらも、どう伝えれば分からないようにもどかしげにするその様に、真紅は直感と共に周囲へ視線を彷徨わせる。
そしてついに、それを見つけてしまった。
黒曜の背後、彼女に守られるようにしてバラバラのぬいぐるみの欠片が散乱している。
見るも無残な姿は胴と首、両手足が泣き別れ、その物言わぬ眼差しはじっと天井を見つめていた。
黒曜はそれを掻き集め、胸の中に優しく抱くと、やはり何かを訴えるような表情をしてそれを真紅に差し出す。
そこには悲哀よりも困惑を滲ませながら。
例えば、もう動かない動物の遺骸を不思議そうに弄う無知な純真さで。
(いいえ、それもきっと違う)
ぬいぐるみをそっと受け取りながら真紅は思った。
何故なら、少なくとも彼女はきっとこの子が死んでしまったのだと言うことを知っている。
けれど、だからと言ってそれをどうすれば良いか分からずにいるのだ。
死んでしまったものはもう戻らない。
そんな事は知っている。
知っていたからと言って、何が出来るのかに明確な正解などはないのだ。
最後には自らの意志でそれを決め、自らの責任において納得するしかない。
それが出来るほどには、きっと黒曜は成熟していなかった。
ただ癇癪を起こして暴れまわり、何一つ納得も解決も出来ないでいる。
結果的にはただ水銀燈の怒りと憎しみを買っただけ。
誰もそんな事は、望んでいない筈だと言うのに。
ぬいぐるみが死んでしまったことは悲しい。
それ以上に、どうしようもなく黒曜が悲しくて、気が付けば真紅は涙を流していた。
零れた滴が床に散らかったガラス片を跳ねる。
その滲んだ鏡越しに逆しまに映るジュンの瞳は、しかし何かを訴えようとしていた。
「おい、真紅。それって」
真紅の背中越しにジュンが問う。
その声には戸惑いと苛立ちと、それから警戒とほんの少しの恐怖が潜んでいる。
ぬいぐるみが元は彼を襲った刺客であったことには気付いているのだろう。ただ、それがこうしてバラバラに引き裂かれて無残な姿を晒している理由は全く分からないに違いない。
まして、黒曜がそれを真紅に渡した訳も分かる筈がなく、それが強いストレスとなって彼を苛立たせているのだろう。
訳が分からないことはつまり恐怖であり、不可解なやり取りを交わす黒曜と真紅の姿に、気味が悪い思いをしているのかも知れなかった。
「可哀想に。この子は、迷子になってしまった」
ジュンの質問には敢えて答えず、真紅はまず起こってしまった結果を告げる。
「……死んだってことなのか?」
「いいえ。人形に”死”はないわ。ただ遠くに行ってしまうだけ。全ては観念なのよ」
「ここにいる。ここに生きていると言う想い。それ自体が生きていると言うこと。最早ここは居場所ではないと感じたなら、それは死んでいるのと変わりはないわ」
そしてそれこそが黒曜の不幸でもある。
人形にとっては、何故、誰のために、どうして在るのかを自らに規定することが生きると言うことに他ならない。
何故、誰のために、どうして在るのかを知らないのなら、それは殆ど死んでしまったと言うことに等しい。
そうすれば、如何に薔薇乙女達や黒曜のように自らの意思で動く人形であろうともうお終いだ。つま先から錆付いてしまって、次第に動けなくなるのを待つだけとなる。緩慢に死んで行くだけといっても良い。
「……だからきっと、黒曜は水銀燈を赦せないと思ったのでしょう?」
「え?」
だから――と、都合の良い希望を込めて結んだ真紅の言葉に驚きの声を上げたのはジュンだけだった。
対比して、黒曜の無感情な相貌からは、辛うじて戸惑いしか見て取ることが出来ない。
真紅は気付かない風で続ける。
「この子の為に怒ったのだわ。とても優しい子ね。やり方は少し、乱暴だったかもしれないけれどね」
「そんな、だからいきなりあの水銀燈って人形に――いや、だからってこんな無茶苦茶な! こっちだって巻き込まれたんだぞ!!」
そう、無茶苦茶だ。
何の証拠もなく、辻褄だって合っているかどうかは分からない。
最早祈りにも近い思いで、彼女がそう願っているだけの妄想に過ぎない。
こう在って欲しい、こうでなければいけない。そうして身勝手に思い込んでいるだけだ。
これも黒曜の魔眼によるものだろうかと自問して、強く否む。そんな筈はない。
(いいえ、もしもそれが事実だとしても、何も変わりはしない)
何故ならば、そうでなければ悲しすぎる。
だから真紅は気付かないフリで、少しだけ微笑んでみせた。
「だったら、それだったらもっと他にやりようが……っ」
噛み付きそうな勢いで怒鳴るジュンの視線の先には、矢張り不思議そうに小首を傾げる黒曜の姿が見えた。
或いは、呆れたようにすら見える。
真紅は胸元に抱いたぬいぐるみの傷口を撫ぜた。まるで、鋭利な刃物で切り刻まれたようなその部分を。
訳が分からなかった。
決定的に何かが間違っていて、誰もがそれに気が付いていながら、気が付かないフリをしてぎこちない演技を続けているようだった。
水銀燈がぬいぐるみをバラバラに引き裂いて、それに怒った黒曜が戦いを挑んだ。
成る程。話としては辻褄が合っているようにも聞こえる。それに、それはきっと優しい結末へ繋がっているだろう。
そうであったらいいとはジュンだって思う。その方が誰だって幸せになれる。
けれど、それは黒曜が真紅の信じるほどに純真な存在であると言う前提に基づいている。
ジュンにとっては、到底考えがたい前提に。
ぬいぐるみを抱いて涙を流す真紅を、黒曜は小馬鹿にするかのように観察していた。
その上で何も口を挟まず、恰も自分の都合の良いように勝手に解釈をする真紅に呆れ果てていたように思えた。
彼はそれに気付いていて、けれど真紅の悲痛な声に抗えず言葉を飲み込む。
何が本当かは分からない。
彼女たちが何を考えているのかも知らなかった。
彼の勝手な思い込みなのかも知れない。けれど、何かが引っかかる。
それが故に、もどかしい思いが拭えなかった。
(……何だってんだよ、くそ……)
口中で舌打ちを一つ。それからぬいぐるみを見る。
どちらにしてもバラバラのままのぬいぐるみは可哀想だ。
訳は分からないが、これのせいで一層雰囲気が重くなる。
「くそ、どいつもこいつも何て勝手な……おい、ちょっと待ってろ」
「ジュン、どこに行くの?」
苛立たしげに吐き捨てると、ジュンは部屋を飛び出した。
「黒曜?」
肩を撫ぜられる感触に真紅は振り返った。
いつの間にか、黒曜が傍に寄っていてまるで腫れ物に触れるように指先を伸ばしている。
とても脆い何かを壊してしまわないように、緊張と焦燥に小刻みに震えながら。
「……ドレスが」
囁いた黒曜の言葉に、彼女の繊細なそれが何をなぞっていたかに気が付いた。
ドレスは掻き裂かれ、直接に黒曜石の槍に触れた部分は喰らわれて黒く煤けている。
改めて観察すると、矢張り肌には傷一つなかった。喰らわれた部分も、一瞬で呑み込まれた姿見の覆いと比べればとても小さい。
だからこれが証明だ。
「……それは、構わないわ。このドレスはただのドレスではないのよ。この程度の綻びは一晩もすれば元通りだわ」
嘘をついた。
ドレスにはそんな機能はない。
史上最高の人形師の手によるものだとしても、このドレスはただのドレスだ。
「……それでも」
真紅の嘘を知っているのか、黒曜は優しく撫ぜることを止めなかった。
真紅にはそれがどうしようもなく嬉しく、かみ締めるように断言した。
「そう、やっぱり優しい」
黒曜は邪悪ではない。
邪悪なのだとしても、優しい。
改めて確信しよう。妄想しよう。
(私は――信じるわ)
もしかしたら最低なのかもしれないこの可哀想な子を。
この決意は最早揺るがない。
ふと、視線を感じた。
窺うように扉の前にジュンが佇んでいる。
「ジュン?」
「え、いや……ったく、おい、ちょっとそれ貸してみろ」
いつの間にか戻っていたらしいジュンが、真紅の腕からぬいぐるみを取り上げた。
不貞腐れたような顔で、ジュンは手にしていた裁縫箱を開けると、針に糸を通す。
ジュンが真紅へ向けていた苦い視線の理由は、良く分からなかった。
「言っとくけど、完全に元通りとは行かないからな。だけど、これじゃあんまりだから、気休めみたいなもんだけど」
ジュンは自分でも何を言っているのか分からなかった。何をしているのかも分からなかった。
このぬいぐるみを直すことは、彼にとってはそう難しいことではない。
確かにこうもバラバラだと完全に元通りにすることなど出来はしないが、それでも針と糸、それから替えの布と綿があれば何とでもなる。
それは問題ない。それは問題ないが――苛々する。
ぬいぐるみの修繕に没頭しながらも、心中では悪態を吐き続けていた。
何に対する悪態かも曖昧で、自分が一体何に憤っているのかも良く分からなかったが。
(何なんだよ、真紅の奴)
黒曜を優しいと言った時の表情には見覚えがあった。
あり過ぎた、と言ってもいいかも知れない。何しろ毎日のように見ている。
(ああ、そうか)
気が付いてしまって、歯噛みする。
――ジュンくん。
不意に脳裏を掠めたイメージに、ジュンは大きく頭を振った。
気分が悪い。気を抜けば吐き気を催しそうだった。
――ねえ、ジュンくん、また一緒に……。
頭が軋むように痛い。
煩い。黙れ。
――ジュンくんなら、きっと大丈夫。
本当は諦めた欺瞞の瞳。
もう知っているくせに、気付いているくせに、まだ大丈夫だと根拠もなく繰り返す。
もうとっくに駄目になってしまったのに。駄目にしてしまったのに。
責める事もなく、ただ優しい。
(気持ち、悪い)
もう一度大きく頭を振る。
馬鹿げた考えだと思った。
(……ったく)
手元へ視線を向ける。
気が付けば、作業は無意識にでも滞りなく進んでいた。
自覚したときにはもう最後の針を通し終えて、糸切バサミで最後の仕上げをする。
時間にして僅か五分。ぬいぐるみはあっという間に完全な姿を取り戻していた。
手を止めると同時に、ジュンの心も幾らか平静を取り戻し始める。
元通りとなったぬいぐるみの手足を軽く引っ張って、特に問題ないことを確認して、何故か呆然としている真紅へ手渡した。
「これは……凄いわ、ジュン。こんなことが出来たなんて」
「そ、そんな大した事じゃない」
必要以上の賞賛を受けた。
ジュンは動揺を隠しきれずにそう応えて、苦い記憶に顔を顰めた。
「……昔、ちょっとやっていただけだよ」
真紅はジュンの表情には気付くことなく、心ここに在らずといった様子でぬいぐるみを見つめている。
ジュンは、複雑な気持ちになって小さな溜息を吐いた。
(……何なんだよ、僕は)
これ程の業を見たのは、何時以来だったろうか。
まして少年に過ぎない若さの人間が為しえるなど、思いの外どころの話ではない。
「……もしかして」
繋ぎ合わされたぬいぐるみへ力を通すと、”彼”は見事に宙を躍って見せた。
「すごいわ。呼び戻したんだわ――迷子になっていた魂が、あの子に戻った」
ジュンはその驚愕すべき事態を理解することなく、ただ訝しげに見つめ返した。
真紅はその様に身勝手な呆れを感じ、彼の指先へ視線を這わせる。
最上級と呼ばれるような職人が何十年と言う研鑽の末にたどり着くべき境地へ無自覚に至ったこの手の持ち主は、いずれお父様にすら匹敵するかも知れないと言うのに。
「……あり得ない」
思わず漏らしかけた感想を先んずるように黒曜の声が遮った。
その閉じた瞳はぬいぐるみへ釘付けになっている。
何故か、恐怖すら滲ませ、唇はわなわなと震えていたのは不可思議だったが。
「こ、黒曜? な、何だよ、あり得ないって。だったらさっさと直せばよかったんだ。お、お前もこんなことで怒ったのかよ」
「違うわ。これは本当にあり得ないことよ、奇跡といってもいい」
そう、これは奇跡だ。
これは、ジュンが言うような簡単なことではない。
黒曜が大きく動揺しているのも無理からぬこと。
彼女の思惑がどうであったにせよ、このような事態は想定していた筈がない。
事実、彼女からは先ほどまでの余裕は失せ、ただ幼い素顔が見て取れるようだった。
「奇跡って、そんな大げさな」
「一度離れた魂は、普通二度と元に戻すことは出来ない。それこそ、一級の腕を持った職人でもなければ。だからこそ黒曜の感想はもっともよ。まさしく、これは普通あり得ないことだわ」
「そ、そう……なのか」
それでもジュンはきっと正しく理解していない。
これは得意であるとか、努力した結果であるとか、そうしたちっぽけなことで為しうるものではないのだから。
「素晴らしいわ、ジュン。あなたの指はまるで、美しい旋律を綴るよう」
陶然として呟いた真紅に、ジュンは怒ったように顔を背けた。
誰が見ても分かりやすい照れ隠しに、真紅は微笑ましそうに口元を緩める。
対照的に、黒曜はとうとう泣きそうな顔をして肩を抱いていた。
ジュンの目の前でぬいぐるみを下ろすと、彼は慌ててそれを受け止めた。
真紅は、意地悪い口調で続ける。
黒曜は戦慄するように、かちかちと歯を鳴らす。
「まあ、私の下僕としては及第点といったところね」
「……悪魔……」
「っく、この――って、おい、お前何を!!」
「”死ね”」
憎悪に歪んだ声と共に、凶悪な黒い爪が伸びだした。
しかし黒い爪は、横合いから生えた茨に弾かれ、辛うじてジュンの頬を掠めて背後の壁を抉る。
余りの事態に、誰も声を発することが出来ない。
一体何が起こったのか。それは知っている。しかし、何故それが起こったのか。それは知らない。
真紅は咄嗟に繰り出した茨の剣を構えたまま、苦しげに息を吐いた。
最早殆ど力は残っていない。
立っているのが精一杯の状態で、ジュンを助けられたことも奇跡に近い。
壁へ爪剣を突き立てたまま、黒曜が真紅を振り返る。
その顔には、何故か断罪を恐れる小さな子供のような怯えを滲ませて。
ぎいんと嫌な音を立てて爪剣が折れる。
黒曜は呆然としたまま、何も分からないと言うように小さく頭を振る。
「……あなた、どうして?」
真紅は、信じた。
信じている。
「わからない、分からないわ。どうして、そんなことをするのよ」
何故、何を信じればいいのかは知らなかった。
黒曜を信じた。
「分からない。あなたは、どうして、そんな……っ」
「し、真紅?」
力を使い果たした人形には、暫しの眠りの時間が訪れる。
彼女の身を案じるジュンの声が遠くに聞こえた。
黒曜を信じている。
信じると決めたのは、彼女が泣きそうな顔をしていたから。
今も、泣きそうな顔をしているから。
苦しくて苦しくて、どうしようもなくて助けを求めているから。
けれど彼女は明確な殺意を持ってジュンを殺そうとした。
これは誤解でもない。”死ね”と言ったのだから。
例えば子供が訳も分からず渡された銃であっても、殺意を込めて引き金を引いたなら、何の言い訳の余地もなく罪でしかない。
分からない。
分からなくなった。
黒曜を信じたい。
ならば。
あの時、邪悪に歪んだ殺意の持ち主は――。
助けを求めるように、黒曜の指がこちらへ伸ばされるのが見えた。
「そんな……どうして」
どうしてこんなにも酷いことが在るのだろうか。
「悲しい」
”あなた”は、だあれ?
「真紅!」
ジュンの絶叫と同時、真紅は怖ろしい想像と共に眠りに就いた。
黒曜の指が真紅の額へ向けて伸ばされる。
直後、糸の切れたマリオネットのように、力を無くした彼女は倒れ臥した。
「真紅! 真紅! くそっ、しっかりしろよ、おい!!」
自分でも冷静を失っていることを自覚しながら、彼女の体を揺さぶった。
知っている。分かっている。人形相手にこんなことをしても意味は無いだろう。
けれど、他にどうすることも出来ない。
(だから、やっぱりこうなったじゃないか)
最初から嫌な予感はしていた。
真紅の優しげな眼差しに危険なものを感じていた。
その瞳の先に映るものが何であったかを、正しく捉えられないでいた結果がこれだ。
黒曜はどうするでもなくただこちらを見ていた。
何故か、無実を訴えるような白々しい演技をしながら。
いや、演技ではないかも知れない。だとしたら、それはもっと最悪だ。
馬鹿馬鹿しい。
ふざけるな――怪物め。
「くそっ、お前! 黒曜、一体真紅に何をしたんだよ!!」
――被告人は心神喪失状態であり――。
一家四人を殺害した凶悪犯に対する弁論をニュースで聞いたのを思い出した。
あの弁護士も死刑にすればいいと思った。
「……別に、何も」
「――お前!」
彼女は何も覚えていないとばかりに答えた。
ジュンは頭に血が上りきって、自覚せずに涙を流していた。
悲しいのではなく、悔しい。
どうしてこうなるのか。どうしてこうならなければならなかったか。
「何だよ! 少しは見直したのに、こんな、酷いことを。 お前は、あの水銀燈って人形と一緒だ。いや、それより酷い。分からないよ、だってお前、この、プーさんのぬいぐるみをバラバラにされて怒ったんじゃないのかよ! それに、真紅はお前なんかを庇ったんだぞ! それを、それをお前は――!!」
「……」
「何とか言えよ! おい!!」
誰が悪いのか?
そんなものは決まっている。
――故に、被告人は責任能力に欠けると言わざるを得ず――。
一度も遺族に目を合わさなかった凶悪犯に無罪判決が出た。
あの裁判長も死刑にすればいいと思った。
黒曜の戸惑うような閉じた眼差しが気に入らない。
まるで罪を自覚することがなく、自分は悪くないと全身で訴えている。
そんな馬鹿なことはない。
どんな理由を持ってしても罪は罪だ。
憎悪すら込めてジュンは黒曜を睨んでいた。
気圧された訳でもあるまいに、彼女は一歩下がって足元のトランクへ飛び込んだ。
あっという間もなく蓋が閉じる。
「逃げるのかよ、お前! 最低だろ、それじゃ!!」
彼の言葉には答えず、トランクは浮き上がって水銀燈が飛び込んだ鏡の中へ沈んでいく。
「確かに、お前にだって理由はあるのかも知れない。何もかも嘘じゃないのかも知れない。真紅が信じたことを、僕だって信じられれば良かったさ。だけど、それじゃあ何でお前は――お前は、結局……一言も――」
伸ばした手は届くことはなかった。
「一言だって、謝らなかったんだ!!」
今更ながらに違和感の正体に気が付く。
だから、ジュンには信じられなかったのだ。
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