短編集1                  
 
  三つの願い  
                 
 
 

 

 俺は今、死のうとしている。
 何故かって?
 俺は――俺は、失恋したのだ。
 こんな事を言えば、世の良識ある人々は、みな口を揃えて言うだろう。
「何と愚かなことを! 君はまだ若い。たかが失恋くらいで命を粗末にするんじゃない!」
 だが、俺はそんな言葉に屈しない。第一、たかがとは何だ、たかがとは。そりゃ、人生を適当に生きてる奴は、そんな言葉も吐けるだろう。あいつみたいに――。
 大体、美鈴はどうしてあんな男になびいてしまったんだ? あんな奴、俺よりちょっと金持ちで、顔がいいだけじゃないか!
 いや、もうよそう。あんな奴の事を考えているとむしゃくしゃしてくる。俺は今、死を目前にして、静粛且つ厳粛な精神を保たなければならないのだ。でなけりゃ、ただの行き当たりばったりの、発作的な飛び降り自殺になってしまう……。
 俺はそこで一歩足を踏み出した。もはや後は無かった。冬の訪れを予感させる、冷気を含んだ風が頬を撫でた。
 大体において生きている者は――もっとも俺もまだ生きているのだが――自殺する者を弱者とみなし、人生の敗者だと笑う。確かに人生の敗者かもしれない。ドロドロとした憎悪や不誠実、虚飾に彩られた人生のだ。
 知らず知らずのうちに、あるいは意識的に、その矛盾だらけの世界の中で毒されていく。そうなってしまうことを勝者と呼ぶなら、俺は敢然と拒否をする。死はむしろ、誇り高き清き者の、必然的な到達点なのだ!
 俺はそこで大きく深呼吸をした。
 そして、ゆっくりと目を閉じると、おもむろに最後の一歩を踏み出した。
 ふっと、全身の力が抜けて、俺は宙を飛んだ。
 どんどん、落ちていく。いや、むしろ昇っていくような感覚だ。
 俺は堪らなく恍惚とした幸福感に包まれていた。
 ――俺は死ぬんだ……そう、死ぬんだ――。


「なあ」
 かったるい声がした。
「なあ、おまえ。いつまでも寝とらんで、起きてくれへんかあ」
 うるさいな。俺は寝てるんじゃなくて、死んでいるんだぞ。
「なあ、おまえ。起きて〜や〜」
「…………」
「なあ、なあ、なあ、なあ――」
「うるさい!」
 俺は思わず怒鳴り声を上げた。と、目の前に、ころころとよく太った素っ裸のガキが、素っ頓狂な顔をして立っている。
「お前……誰だ?」
「わいは天使や〜」 ガキが答えた。
 天使――?
 よく見るとそのガキの背中には、小さな白い羽根が生えている。
 ということは、ここは天国か――?
 俺は起き上がって辺りを見渡した。そこは小さな部屋だった。床には古びた畳が敷いてあり、半開きになっている押入れの襖は破れていた。薄暗い中では何もかもがはっきりとはしなかったが、そこは確かに見覚えがあった。
「ここは――ここは、俺の部屋じゃないか?」
「そや」 天使が言った。
「何でまた、こんな所に――」
「わいが連れて来たんや」
 パタパタと嬉しそうに羽根を動かして、天使が答えた。
「一つ聞きたいんだが」
 俺は、何故か流暢に関西弁を喋り捲る小さなガキ天使に疑問を持ちつつも、とにかく自分にとって一番聞きたい質問をした。
「俺は、死んだのか?」
「いや、まだや」 天使は大きな目をくりくりさせた。
「おまえが死のうとしてた時、ちょうどわいが通りかかったんや。そいで、ひとまずちゃんと話し合おう思て、おまえの部屋に連れて来たんや。そいでな」
 ――なるほど、そういう事か――。
「そいで、話しっちゅうのは――」
「悪いが俺の決心は変らんぞ」
 際限なく回り続ける天使の口を封じるように、強い口調で俺は言った。
「どんな説教されたって、俺の気持ちは変らん。止めても無駄だ。俺は死ぬ。訳など聞くな。他人にこの苦しみは解らん。特に――」
 俺はちらりと横目で天使を見た。
「お前のような子供にはな」
 この最後の一言が、その小さな天使のプライドを、俺の予想以上に傷つけた。彼は――そう、外見上は紛れもなく彼なのだ――その彼は、頬をあっという間に目一杯膨らませると、いきなりふわりと空中に浮かんだ。そして顔を真っ赤にしながら、よく肉のついた短い手足をばたつかせた。
「おい、おまえ、馬鹿にすんな〜! わいは天使やどー。何でも知っとるんや〜。おまえが見事に振られたのも、全部お見通しじゃい!」
 今度は俺が傷ついた。
「じゃかましい! 天使だと思って下手に出ていたが、お前のようなガキにつべこべ言われる筋合いはない。お前がどんなに止めても俺は死ぬ! え〜い、そこをどけ!」
「ちょっと、ちょっと待ってぇや〜」
 天使を押し退けようと伸ばした俺の右腕に、貼り付きながらガキが言った。
「おまえ、何か勘違いしとらんか〜?」
「勘違い?」
「そや。言っとくが、わいはおまえが死ぬのを、止めるつもりはあらへんで〜」
「何だと?」
「わいがおまえに話そうとしてるのは、生命バンクのことやねん」
「生命バンク?」
 俺は耳慣れない言葉に興味を覚えた。
「よーし、聞いてやろう。話してみろ」
「えっへん」
 天使は、さも勿体ぶって咳払いをすると、話し始めた。
「生命バンクが出来たのは、つい最近のことなんや。それまでは生命放棄者、つまりおまえみたいな自殺者のことやけど、まだ寿命が残ってるのに使われなかった生命は、そのまま捨ててしまってたんや。でも、それじゃあ勿体ないゆ〜ことで、生命バンクを設けることにしたんや。つまり、そこに使われなかった生命、残りの分をいったん預けるっちゅう訳や。預けられた命は神様の判断で、人間界にとって有益と思われる人物に継ぎ足して使う。人間界にはよくあるこっちゃろ〜。憎まれっ子ばかり長生きして、真に美しい心を持った者や賢人達が早死にするっちゅうのが。朱に交われば赤くなるゆ〜て、アホで愚かな人間ばかり多い世界では、まともな人間までがおかしくなってしまう。このままじゃ、最後の審判の時に人間はほとんど残らんことになる。要するに、今現在の人間界はバランスが悪いんや。生命バンクと言うのは、それを良くする効果もねらった、一石二鳥のアイデアゆ〜訳や。わかったかあ、おまえ」
「大体の所はな」 俺は答えた。
「で、結局お前が言いたいのは、俺の命――つまりこれからの分の生命を、バンクに預けろということなんだろ?」
「そやそや」 天使はパタパタと音を立てた。
「なかなか解りが早いなあ。どうせ使わんのやったら構へんやろ?」
「まあな」 俺は言った。
「しかし、バンクと言うからには、なにがしかの利息がつくものだと思うが……」
「もちろんや。ただとは言わへん。利息はちゃんとあるで。今日からぴったし三ヵ月の命と三つの願い――」
「三つの願い?」 俺は尋ねた。

 
 
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