短編集2                  
 
  至福の時  
                 
 
 

 

「お父様」
 エヴェリンはその細く白い腕を、私の肩に回した。微笑に少し翳りがあるように思ったが、気のせいだろうか。
「それでは、至福の時を」
「ああ、今日はありがとう。ダンも」
 私はそう言うと、義理の息子と堅く握手をした。背が高く、表情に嫌味のない好青年だ。普通、父親というものは、娘がどれほどの男を連れてきても決して満足しないものだが。私は彼を一目で気に入った。ずっと心の奥で息子が欲しいと思っていた、そのせいかもしれない。そんな私の気持ちを察してか、初めて家にダンを連れて来た日、「どう? 今までで最高の親孝行でしょ?」と、エヴェリンは囁いた。その横で妻は、ハンナは、娘を気遣い、大げさに私のことを嘆いてみせた。
 言うまでもないが、私は娘を愛していた。我が子が息子ではなく娘であるのを、悔いたことなど一度もない。
 今、世の中は人が飽和状態にある。文明の力で居住区域は広がり続けているが、歩みは遅い。子供の数は一人と決められている。だから大方の者は、子供の選択に慎重となってしまう。身体的、精神的欠陥の有無はもちろん、男女の別、性格傾向など、胎児の遺伝子検査で知り得る情報の全てを検討し、その子をこの世に誕生させるか否かを決めるのが常だ。
 しかし私達は、最初に授かった子供を育てようと決めていた。たとえなにがしかの障害があったとしても、生きることに困難を極める子供だとしても、その命の火を私達の手で消すようなことはしまいと堅く約束した。それが人として、生きる者として、ごく自然であるように思ったのだ。人はあまりにも、自然の流れから離れ過ぎた存在となってしまった。せめてそのくらいは、と考えたのだ。
 結果、私達はエヴェリンを授かった。親の贔屓目を抜いても、彼女は知性に溢れ、心根が優しく、それが自然と美しい表情となって現れる娘だ。これほどの恵みを賜りながら、不満などあろうはずがない。私は幸福だった。
「十一時半、まだもう少し時間があるな」
 私は腕時計を見て呟いた。
 ほとんど趣味らしいものを持ったことのない私だが、なぜか腕時計にだけは固執し、少しずつ集めたそれらは、今ではちょっとしたコレクションとなっていた。オークションにかければ、かなりの値がつくような物も中にはある。だが、今はめている時計は、他人から見るとがらくた同然の価値しかない。しかし私にとっては、この時計が最も貴重なものであった。
 まだ若かりし頃、そう、四肢に流れる血の熱さを十二分に感じることができた時代、妻が初めて私にくれたプレゼントがこの時計だった。当時は、どこへ行くにもこれをはめていた。貧しかった時代がすっかり思い出に変わるまで、私の時計はこれであった。やがてさらに多くの時が流れ、いつしか机の引出しの隅に置き去りにされていたのだが、妻の死をきっかけにまた引っ張り出したのだ。もう動かぬのものと思っていた時計が修理屋の手で見事に蘇った時、まるで妻が戻ってきてくれたかのように感じて、とても嬉しかった。以来ずっと、肌身離さずつけている。妻と共に、私はいる。
 ハンナの死は、私の人生の中で最も強い衝撃だった。その時のことは、うろ覚えでしかない。仕事場に病院から連絡があった時は、まだ高をくくっていたように思う。病院に着いて、事故があったと説明を受けた時も、まだ。そしてそれは私だけでなく、医者達も同様であった。今の医療技術で人が死ぬことは滅多にない。事故も、病も、老いすらも、容易く人を死に至らしめることは叶わない。だがごく稀に、技術が及ばないケースがある。ハンナは、その稀であった。
 覚えているのは、やたら慌てふためく医師達の姿。戸惑うもの、意味なく怒鳴るもの、中にはその場から逃げ出す者もいた。そんな混乱の中、ハンナは眠っていた。口元に薄っすらと笑みを浮かべながら。それがいつ死となったのか、私は知らない。知らないうちに、ハンナは死んだ。死んでしまった。

 
 
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  至福の時・1