短編集3                  
 
  銀の鎖  
                 
 
 

 

 すうっと、意識が遠のく。慌てて僕は左手を揺らす。かしゃりと小さな音がして、白い空間が薄っすら歪む。同じ色の中に溶け込んでいった細い鎖が、微かに銀の煌きを含んで揺れる。
 大丈夫。
 僕は自分に言い聞かせた。
 まだ、大丈夫。
 その手の中にある感触に、ほっとする。だが、安心はできない。油断してはならない。一瞬たりとも、気を抜いてはいけない。もしも、そんなことをしたら、そうなった時は……。
 僕はぱっと右手を見つめた。細い、細い、一本の純白の糸。頼りなげに掌に絡みついているその糸を、ぐっと握り締める。それを、額にあてる。
 よかった。手を放してしまったのかと思った。
 涙が零れそうになるのを押さえて、僕は手を元の位地に戻した。
 真っ白な空間。大きさは、分からない。全てが白いから、ちゃんと把握できない。なんとなく、そんなに大きくはないだろうと思う。だって僕の心は小さく、とっても狭いのだから。
 僕は寝そべりながら、左手をまた動かした。上へ続く空間が少し歪んで、鎖の音が響く。
 この鎖が、天井にある小さな穴を伝ってどこへ続いているのか、僕は知っている。昔は、こんな鎖を持っていなかった。小さな穴もなかった。その代りに、大きな扉があった。しかも僕は、しばしばその扉を開けて、恐ろしいことに、そこから出たりしていたのだ。
 その時はまだ、僕はよく目が見えていなかったのだと思う。この場所と違って、いろんな形や色が溢れている外の世界が、面白くて、楽しくて。その表面の耀きだけに、目を奪われて。
 それがいつの頃からか、どんどんと色が濁り、澱んで、何もかもがどす黒く汚れて見えるようになった。様々な形もただ乱雑で、けたたましく、歪に思え、強い嫌悪感を覚える。当然、僕は外に出ることを拒否するようになり、ただ扉をそっと開けて、覗くだけの日々を過ごした。やがて、それすらも億劫になり、気がついたときには、扉は随分と小さくなっていた。
 僕は、少しだけ不安になった。このまま扉がどんどん小さくなったら、僕は外に出られなくなる。いや、それどころか、そっと垣間見ることすらできなくなる。僕の世界は、僕の心の中だけになり、永遠に、僕は僕一人だけと生きていかなければならない。
 いいことじゃないと、虚ろに思った。正しくはないと、漠然と判断する。だけど僕は、無理に外へ出ようとはしなかった。毒々しい、まがまがしい外の世界への恐怖が、その気持ちより勝った。この澄んだ空間の中で、しんしんと降り積もる雪のように意識を沈める心地良さの方が、遥かに強く心を占めた。扉はさらに小さくなり、空間の端へ、隅へと追いやられた。そして……。
 その時の驚きを、一体どう表現したらいいのだろう。全身が総毛立ち、打ち震え、狂ったように泣き喚きながら、やみくもに駆けずり回ったあの日の驚きを。
 僕は見つけてしまったのだ。白い空間の中に、どんよりとした色があるのを。薄く、染みのようなものがあるのを。眺めているうちに、それは見る間に濃く、大きくなっていった。まるで生き物のように、それは蠢き、空間を侵食していく。僕の心を食んでいく。
 それが外から来たものでないことは、確かだった。小さな扉は、ぴったりと閉められていた。
 では、どこから――?

 
 
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  銀の鎖・1