会津藩と海防

藩主 海防に関する会津藩のできごと
文化4
(1807)
7代
容衆
−会津藩士野村忠太郎、蝦夷視察の堀田摂津守に同行。
文化5
(1808)
−幕府、会津・仙台藩に蝦夷警備を命じる。
−会津藩、宗谷及び樺太に出兵(家老内藤信周と北原采女が指揮)。
−年末には帰国。
文化7
(1810)
−幕府、会津藩に江戸湾(西側相州)警備を命じる。
文政3
(1820)
−会津藩、警備免除を願い出て許可される。
弘化4
(1847)
8代
容敬
−房総警備の幕命
−藩士一瀬大蔵に江川太郎左衛門から洋式砲術を学ばせる
嘉永1
(1848)
−浦賀奉行浅野、房総警備の川越・忍・彦根・会津に意見を求める。
嘉永2
(1849)
−幕府、川越・忍・彦根・会津藩に外国船入港の際の処置を協議させる。
−容敬、英国船来航時、幕府に対して沿岸警備を上申。また異国船打払令復活を海防不十分を理由に否とする
嘉永4
(1851)
−江川太郎左衛門に大砲鋳造を依頼し、砲台に設置。
嘉永6
(1853)
容保 − ペリー来航。会津藩、幕命により久里浜に船を出し、警戒
−幕府、会津藩に品川砲台を警備させる。
安政1
(1854)
−幕府、会津・川越・忍・彦根藩の内海警備を免じ、会津・川越・忍藩に砲台守備を命じる。
安政6 −幕府、会津(・仙台・盛岡・弘前・秋田・庄内藩)に蝦夷に領地を与え、開拓・警備をさせる。会津藩の品川第二砲台管守を免ず。


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