■ ペリー来航と会津藩の沿岸警備
○会津藩と海防
会津藩が最初に海防に関ったのはペリー来航より50年近く前である。文化元年(1804)、ロシア使節レザノフが長崎に来航して通商を求めたが、幕府の拒絶にあい、不満をもったロシア側がという事件があった(フォヴォストフ事件)。同4年、会津藩は幕府の蝦夷調査団に藩士野村忠太郎を同行させ、同5年には幕府の命令で、仙台藩とともに蝦夷警備に出兵したが、事態の沈静化とともに年末には帰国した。同7年、今度は江戸湾警備を命じられ、相州(三浦半島)に藩士を駐留させたた。駐留が長期に渡るため、藩士の子弟のために藩校日新館の分校を現地に建設した。10年後の文政3年(1820)、警備免除を願い出て許可された。以後、しばらくは海防から遠ざかっていた。(関連:「開国開城(0)開国前夜:(B)対外政策」)
しかし、弘化4年(1847)、アメリカ東インド艦隊司令官ビッドルが浦賀に来航すると、海防強化をはかる幕府の命令により、彦根藩とともに、再び江戸湾防備を担当することになった。8代藩主容敬(容保養父)の時代である。会津藩は、同年には藩士一瀬大蔵を江川太郎左衛門に入門させ、西洋砲術を学ばせた。会津藩は海防には積極的だったが、財政難から幕府に援助をしばしば求めた。
この時期、江戸湾防備についたことは、会津藩が海防問題について中央政局に参加するきっかけとなった。嘉永元年(1848)、浦賀奉行浅野が、江戸湾警備の川越・忍・彦根・会津の四大名に意見を求め、翌2年(1849)、幕府は四大名に異国船入港の際の処置を協議させた。この際、容敬は、異国船来航時の沿岸警備強化を上申すると同時に、異国船打払令復活については海防不十分を理由に否とした。また、会津藩は、嘉永4年(1851)、江川太郎左衛門に大砲鋳造を依頼し、砲台に設置した。(関連:「開国開城(1)ペリー来航:(A)開国の序幕」)
(参照:年表「会津藩と海防-開国前」)
○ ペリー来航時に警備
松平容保が藩主に就任した翌年の嘉永6年(1853)、アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが浦賀に来航して通商を求めた。幕府代表とペリーの会見時、会津藩は幕命により、船を出して警備にあたった。 (関連:「開国開城(1)ペリー来航(B))
○和親の必要性を建言
幕府が和親の是非について溜間詰諸侯に諮問したとき、容保は彦根藩主の井伊直弼らとともに、外国との和親の必要性を建言した。しかし、家臣の中には鎖国攘夷を唱える者もおり、容保はこれを憂えていたという。なお、安政3年(1856)、総領事ハリス来日時にも、容保は和親を主張している。
○品川砲台守備と蝦夷地警備
ペリー来航の嘉永6年9月、幕府は、会津藩に品川砲台を警備させた。翌安政元年、幕府は、会津・川越・忍・彦根藩の内海警備を免じ、代わって会津・川越・忍藩に砲台守備を命じた。さらに、安政6年、幕府は会津・仙台・盛岡・弘前・秋田・庄内藩に蝦夷に領地を与え、開拓・警備に従事させた。
○軍事調練上覧
安政元年(1854)、首席老中阿部正弘が「会津藩は藩祖保科正之以来調練が行き届いていており、老中らの心得のためにみせたい」との将軍命令を伝えた。容保は、駒場にて将軍・老中ら観覧のもと会津藩兵1000余人の調練を指揮した。
■ 桜田門外の変と容保の動き
幕府の日米通商条約無断調印に激怒した孝明天皇は水戸藩へ密勅(戊午の密勅)を下した。これを水戸藩の幕府転覆の陰謀とする大老井伊直弼は密勅降下関係者、及び一橋派の徹底弾圧にのりだした(安政の大獄)。水戸藩は特に厳しい処分を受け、さらに密勅の返納をめぐって尊攘派が二派に分裂して対立した(勅書返納問題)。藩論が返納と決まり、反対派(尊攘激派)への弾圧が始まると、追い詰められた激派の中心人物たちは脱藩し、薩摩藩尊攘激派の一部とともに、幕政批判と直弼弾劾を目的とする大老井伊直弼の暗殺を決行した(桜田門外の変)。事変後の処置に関する容保の建言が適切であったので、将軍に嘉納され、以後、幕府における容保の発言力が上がったという。
○水戸藩武力制圧に反対
当時、容保(26歳)は在国だったが、幕府に促され急遽江戸勤となった。当時の幕閣をリードしていた老中久世広周・安藤信正らは御三家の尾張・紀伊に出兵させて水戸藩を制圧することを考えていたが、溜間詰諸侯諮問時に、容保は、朝廷の信頼篤く、列藩にも嘱望され、御三家の一つである水戸藩を武力制圧することに強く反対した(「水戸藩士等の凶暴、実に喩ふるにものなし、然れども水戸藩は朝廷の信ずる所、列藩の嘱望する所にして、且三家の一なり、想ふに今回の事たる、彼藩臣過激の輩、脱藩して此挙に及びしにて、素より水戸家に於ては制御緩慢の責は免かれ難きも、身自ら之を犯ししとは事情大に異なるを以て、宣しく事の顛末を探求し、且は天下の大勢に鑑み、他日の累を遺さざる事、今日の急務ならん」出典:『京都守護職始末』)。しかし、老中は将軍の心は既に定まっているとして容保の意見を容れなかった。ところが、数日後、将軍家茂が直々に容保を召した。将軍は容保の意見を容れて、武力制圧を中止したという。この功績により、容保は左近衛中将に昇官した。
以上は『京都守護職始末』によるが、『徳川慶喜公伝』によれば、桜田門外の変が起こった日、幕府は有事にそなえて会津・桑名・庄内・小田原藩に出兵の準備をさせたという(『慶喜公伝』のソースは「公用方秘録」)。尾張・紀伊だけでなく、会津藩も武力制圧の当事者として目されていたようだ。
○幕府と水戸藩の間を調停
翌文久元年3月、容保は幕府と水戸藩との間を調停しようと、藩士外島機兵衛と秋月悌次郎に水戸藩の実情を探らせた。外島と秋月は、館林藩や笠間藩を訪問して水戸藩に詳しいとされる者から事情を聞いた後、水戸藩に入り、斉昭派の武田耕雲斎・原市之進に面会した。武田や原は藩内の過激派が問題を起こして主家に迷惑をかけている事態を憂慮し、外島・秋月らに内情を話して調停を求めたとされる(武田はともかく、この後も坂下門外の変に関与した原が過激派の動きを憂慮していたかどうかはちょっと疑問・・・)。外島・秋月から報告を受けた容保は、幕府に働きかけると同時に、家臣を水戸に往復させて恭順するよう努めさせたという。
○水戸藩の勅書返納問題と会津藩
なお、『京都守護職始末』では、文久元年3月以来の容保の尽力で水戸藩は無血で勅書(戊午の密勅)を返納したとしている。将軍は容保の調停を褒め称え、幕府内での容保の発言力は増し、この結果、文久2年5月に容保は幕政参与に任命されたとなっている。
勅書返納問題については少し、事実と違う。
桜田門外の変以降も、勅書返納(勅書は安政6年12月に藩主慶篤の指示で水戸領内の祖廟に納められていた)をめぐって幕府と水戸藩は勅書返上をめぐって対立していたが、万延1年5〜6月頃、争乱を予期してまで幕威を立てることの愚を悟った幕府は方針を一転させ、むしろ尊攘論者の崇敬する徳川斉昭らの処分を緩和することにより、公武一和の一助にしようと考えたという。10月には幕府は還勅猶予の許可を出していた。勅書が江戸の慶篤の手に返ったのは、時勢がかわり、慶喜が後見職に任命され、水戸藩尊攘激派の大赦も行われた後、文久3年12月である。このとき、幕府は勅書を公表し、慶篤に奉承させているので朝廷に返納はされていない。容保が幕府と水戸藩の緊張緩和に尽力し、これにより幕府内での発言力を増したことが事実だったとしても、容保が外島と秋月を派遣したのは、還勅をめぐって幕府と水戸藩の対立していた万延1年4月頃の可能性があると思う。また、文久1年には東禅寺襲撃事件が起こり、再び幕府と水戸藩の間が緊張したので、このときにも奔走したのかもしれない。
<ヒロ>
ところで、水戸藩救済というが、水戸藩主徳川慶篤は在府であり、容保の動きとこの慶篤の意向はどうなっていたのかも気になるところ(調査中です)。容保が幕府と水戸藩の仲介に奔走した背景として、記録されている以外に、容保と水戸藩の血のつながりもあったのかもしれないです。容保の祖父高須9藩主松平義和(よしより)は水戸6代藩主徳川治保の次男であり、容保は徳川治保の曾孫に当っていた。また、前藩主容敬(松平義和の兄弟)は治保の孫であり、水戸9代藩主斉昭とは従兄弟にあたります。さらに、実父の正室は水戸徳川家出身で、斉昭の姉なのです。ただ、容保は同じ溜間詰として井伊直弼とも親しかったようですが(容保と井伊についても調べ中^^;)
■ 農村の疲弊と財政危機
容保が藩主となる以前から会津藩の財政は赤字状態だったが、襲封の翌年、嘉永6年、会津地方を旱魃が襲った。米価は高騰し、領内の経済は破綻に瀕したという(『会津藩の崩壊』)。そこから立ち直れまいまま、安政6年には会津藩、大暴風雨と大洪水に襲われ、農民強訴が起こった。翌7年にも農民強訴・一揆・打ちこわし起こっている。農村が荒廃しているところに品川砲台警備・蝦夷地警備と出費もかさんだ。京都守護職就任前夜の会津藩財政は、累積赤字でどうにもならない情況にあったといえる。 |