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藤堂平助をめぐる人々

伊東甲子太郎(いとうかしたろう)
★藤堂は「伊東氏の門子」(伊東・藤堂と親交のあった西本願寺侍臣城兼文(西村兼文)編纂の「近世殉国一人一首伝」 )
★藤堂は「伊東の寄り弟子」(元御陵衛士加納通弘談『史談会速記録』104より)

★藤堂は「伊東の左右の手」となって尊王活動をした(小山正武談『史談会速記録』104より)
★藤堂と伊東は「長年の親友」(永倉新八の実歴談をもとにした『新撰組顛末記』より)

藤堂といえば、やはり、師であり、同志であり、親友であった伊東である。

伊東は常陸志筑藩出身の水戸尊王派で、国事に尽くそうと江戸に上り、深川に北辰一刀流の道場を構えていた。伊東の道場に出入りしていた加納の証言によれば、藤堂は伊東の弟子である。藤堂が伊東道場に入門した時期は不明だが、二人には長年の親友だという永倉の回想が残っており、藤堂が少年の頃からの付き合いなのかもしれない。藤堂には、千葉周作門下の目録という永倉の記録(『同志連名記』等)もあるが、千葉が亡くなった年には藤堂は若干12歳であり、目録をとったとは考えがたい。最初は千葉道場にいたが、千葉の死後、伊東道場(当時は甲子太郎の義父の精一郎の時代で、甲子太郎は師範代か塾頭だった可能性がある)に紹介され、そこで目録をとったという見方もできるのではないか。

学問のあったといわれる藤堂は、伊東の剣だけでなく、思想・人物にも傾倒していたようである。佐幕化(幕権強化志向)する新選組を本来の尊王攘夷的政治集団に立ち返らせるのに伊東を頼み、わざわざ東下して、新選組に勧誘したほどである。御陵衛士の新選組離脱には当然、同行し、その後は伊東の片腕として政治活動を行った。伊東らと連名で長州寛典の建白書を朝廷に提出したり、伊東の坂本竜馬訪問にも同行したとされている。

伊東殺害の報を御陵衛士屯所で聞いた藤堂は、居合わせた同志とともに、おそらく罠を覚悟しつつ現場に急行した。油小路では囮として放置された伊東の遺骸を駕篭に収容する役目を担当したが、待ち伏せの新選組に襲撃され、一番に斬られて討死した。

<ヒロ>
伊東はいわば藤堂の願いに応えるかたちで新選組に加盟しました。しかし、伊東は新選組に入ったため、尊皇派の一部から嫌疑を受け、尊王活動を展開する上で苦労した様子がうかがわれます。また、藤堂は新選組創設来の幹部である上、池田屋事件では尊王派を斬るなど「近藤の四天王」として有名を馳せた時期があり、その存在が尊王派に好意をもって見られたとは思えません。藤堂のしたことが、尊王家としての伊東のハンディとなっていたともいえるでしょう。

伊東は、同志を「友」、「誓いある人」と呼ぶタイプの人間でしたし、藤堂の新選組における経歴が自分に及ぼすマイナス面には少しも頓着しなかったようですが(でなければ池田屋で同志を新選組に殺された坂本竜馬のところに、池田屋で名を馳せた藤堂を連れていきはしなかったと思う)、そうであればあるほど、藤堂には、伊東の厚誼に応えたい、伊東となら生死をともにできるという思いがより強くなったのではないでしょうか。伊東殺害の報に油小路に駆けつけ、新選組に退路を断たれたとき、藤堂の心に浮かんだのは「血路を開いて生き延びる」ではなかった気がするんです。「できるだけ多く道連れにして伊東への香華にする」と腹を決め、最後まで戦いぬいたのだと思えてなりません。そういう意味で、彼の死は、志半ばに散った伊東への無意識の殉死だったとも思えてくるのです。
山南敬介(さんなんけいすけ)
★藤堂は北辰一刀流千葉道場目録。山南は北辰一刀流千葉道場免許。(永倉新八『同志連名記』他)

藤堂と山南は熱烈な尊皇攘夷だったという点、さらに伊東甲子太郎に敬服していたという点からも、思想的に非常に近かったことは簡単に推測できる。

しかし、記録に明確に残る山南と藤堂の接点は意外と少ない。

浪士組上洛直後、近藤・芹沢らが清河八郎暗殺をはかったとき二手に分かれて待ち伏せをしたが、山南・藤堂の二人が、近藤組ではなく芹沢組に入っていたという永倉の回想(『新撰組顛末記』)があるくらいである。

確かに永倉の後年の記録(『同志連名記』)によれば、藤堂と山南は北辰一刀流千葉周作門下。同流同門である。藤堂が上洛することになったきっかけは、同門の山南の縁だという見方もある。ところが、実は、両者とも千葉周作道場にいたという事実を示す確実な史料がない。しかも、藤堂は伊東の弟子だったという証言があるし、山南には小野派一刀流だったという新史料も出ている。ただし、山南が小野派一刀流門下だった記録は18〜20歳頃のものであり、その後、北辰一刀流を修めた可能性は十分ある(たとえば、伊東も神道無念流を学んだ後、北辰一刀流を修めている)。藤堂と山南が最初に出会ったのが千葉道場(あるいは北辰一刀流道場)だった可能性はないとはいえない。

永倉が同流同門としているところにも注目したい。二人には同流同門によく見られるような親密な雰囲気があった(当時、そうだったらしいです)からこその間違いなのかもしれない。
近藤勇(こんどういさみ)
藤堂は近藤に師事していたが、伊東にたぶらかされて御陵衛士として分離したというのは誤解というより、中傷といってもいいと思う。藤堂は徹頭徹尾尊皇派であり、周りに流されず、自分の思想信条を貫いただけである。第一、藤堂は伊東の寄り弟子であり、近藤の弟子だったということを示唆する記録はない。浪士組上洛前に、藤堂と近藤にどのような接点があったのかも不明。藤堂は永倉のように試衛館道場に剣術道具を置くこともなかったし(近藤書簡)、多摩の新選組後援者の記録(『両雄士伝』)による試衛館からの参加者にも含まれていない。

上洛後、騒動のおりには真っ先に飛び出す藤堂は「魁先生」との異名をとり、「近藤の四天王」に数えられた。しかし、これは外部の目からみた表面的な姿でしかなく、藤堂が、尊皇攘夷集団・新選組の指導者としての近藤を飽き足らず思っていたのは確実で、伊東を新選組に勧誘している。永倉の回想を基にした伝記の『新撰組顛末記』では、近藤を殺害して伊東を指導者に迎えようと計画していたとされるほどである。藤堂の近藤殺害計画自体の信憑性には疑問があるが、伊東上洛前後の藤堂の近藤に対する態度が、後年、永倉に殺害計画の存在を想像させるものであった可能性はある。

永倉の回想では、油小路の前に、近藤が、藤堂は有為な若者なので助けてやりたいと言ったとされるが、裏付けはない。

<ヒロ>藤堂一人をを助けたとしても、感謝するどころか必ず伊東の復仇に近藤を襲撃にやってくるはずでです。残党をおびきだすという名目で、伊東・藤堂らの遺骸の埋葬をすぐには許さず、数日間、通りに放置するほど御陵衛士を憎んでいた新選組トップが、そんな甘い考えをいだくとも思われにくいです。
これからの予定
永倉新八、沖田総司、土方歳三、斎藤一、芹沢鴨、水野弥太郎、山浦鉄四郎、
南部与七郎、加納鷲尾


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