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篠原泰之進の妻 萩野の場合

慶応3年11月19日-油小路の闘い当日

油小路事件は一般に11月18日と言われていますが、実は18日夜から19日未明にかけてのできごとでした。伊東の殺害されたのが18日夜で、知らせを受けた篠原ら7名が伊東の「血骸」を引き取りに行き、待ち伏せの新選組と戦闘になったのは19日未明でした。篠原は血路を開いて包囲網を突破し、桂宮太夫尾崎権太夫の屋敷に潜伏後、薩摩藩邸に保護されました。

■ 胸騒ぎ

11月19日、萩野はなぜか胸騒ぎがして、朝早くに目覚めたそうです。やもたてもたまらなくなり、床を抜け出して門外に出たところ、御陵衛士隊の小者・武兵衛(油小路まで篠原らに同行し、一部始終を見ていました)が駈けつけてきて、「大変です」とだけ告げて、また駆け出して行きました。驚いた萩野は、5歳になる息子の庄太郎を家来と下男に任せて、単身、衛士の屯所高台寺月真院にまで様子を窺いに出かけました。しかし、月真院は閑散として、誰一人見当たりませんでした。

ところで、萩野は気づきませんでしたが、高台寺には見張りの新選組隊士がついていました。御陵衛士皆殺しをあくまでも企む近藤・土方は、殺害した4名の遺体を辻に晒しものにして残党をおびきよせようとする一方、手を尽くして彼らの行方を追っていたのです。

■ 新選組の追手

篠原の安否も状況もわからず不安な心を抱えた萩野は、帰路、宮川町に立寄りました。宮川町には伊東の妾宅があったといわれていますので、伊東の女(島原の花香太夫)を訪ねたものと思われます。普段から行き来していた仲だったのでしょう。そこへ、尾行の新選組隊士が4〜5名が表口にやってきて、「今、篠原の妻がこの家に入っただろう。早く差し出せ」と厳しい口調で家の主人に命じました。主人が時間稼ぎをしている間に、萩野は、隙を見て裏口から脱出し、川岸を登って追っ手から逃れました。見張りの待ち受けるだろう家へ帰るわけにもいかず、身の置き所のなくなった萩野は、篠原と懇意な桂宮太夫尾崎権太夫の屋敷を訪ねました。そこで、篠原の無事と彼が薩摩藩に匿われていることを聞き、翌日、伊東の女、及び新井の妻・小静とともに、薩摩藩邸を訪ね、ようやく篠原と再会したそうです。伊東の女や新井の妻も新選組の手がのび、身の置き場がなくなっていたものと思われます。大事な男たちが危難に遭ったとき、女たちは身を寄せ合ったのでした。

さて、萩野が高台寺に様子を窺いに出かけた後は、家来と下男が庄太郎を守って留守をしていました。そこへ、新選組隊士5〜6名が現れ、「篠原はどこに隠れているか、白状しろ」と問い詰めたそうです。彼らが知らないとがんばると、新選組は家財をすべて没収した上、表口に見張りを置きました。見張りは三日間続いたそうですが、隙を見て、下男が庄太郎を連れて大坂に逃げたといいます。

萩野は、11月25日に、伏見の薩摩屋敷に移りました。その後、12月18日まで御陵衛士同志とともにあって、食事の世話などをしたそうです。

慶応3年12月18日-近藤勇襲撃当日

18日に篠原らが近藤を撃ちに出かけたときには、萩野は自ら進んで門前まで彼らを見送ったそうです。彼らの武運を祈ってのことでしょうし、これが最後の別れとなるかもしれないとの覚悟の見送りだったでしょう。

結局、篠原らは襲撃に失敗しますが、新選組の追っ手がかかって伏見の薩摩邸には戻れず、京都薩摩邸に潜伏しました。鳥羽伏見の戦いでは薩摩軍に加わって戦い、後に、同志の三樹三郎(伊東甲子太郎の弟)らや相楽総三らと赤報隊を結成し、江戸に向かって進軍しました。

萩野は、篠原らの出立後、薩摩藩水野武一郎宅に身を寄せ、鳥羽伏見の戦いの押し迫った28日には、水野の家族とともに醍醐宮邸に移り、翌年2月までそこで過ごしました。

慶応4年2月下旬-三樹・篠原・新井の入獄

江戸に向かって進軍していた赤報隊は京都より帰還命令を受け、篠原らは独走する相楽らと袂を分かって、兵をまとめて帰京しました。すると、三樹、新井、篠原の3名は議定所まで呼び出され、そこで有無を言わさず、縄を掛けられ、入牢を申し付けられてしまいました。赤報隊の一部(相楽一派)の隊士が勤王と称して強姦・金銀の強奪などを繰り返していたため、幹部であった彼らも嫌疑を受けたからでした。大津の阿州陣屋に護送されて再び投獄された彼らは、しばらくして、薩摩藩預かりとなり、6月には嫌疑が晴れて青天白日の身となりました。その後は、新政府軍に加わり、各地を転戦しました。

篠原ら3名が投獄されて大津に移されたのを聞いた萩野と新井の妻・小静は、愕然として、彼らの助命に東奔西走しました。その苦心に耐えず、思い余った彼女たちは、大津まで出向き、「夫に代わってわたしたちに死をお賜りください」と嘆願し、阿州陣屋に駈け込もうとしたそうです。

萩野の消息

投獄された夫を救うため、阿州陣屋にかけこんだエピソードを最後に、篠原の手記における萩野の消息は途絶えてしまいます。息子庄太郎のその後についても不明です。

篠原は明治3年に、西本願寺内蓮城院東坊の住職・佐々木の娘チマと結婚しました。その後、ニ子を設け、明治25年には東京へ移りました。明治44年没。享年84歳でした。

篠原は萩野の献身を誇らしげに述べており、恋女房であったような感じです。離婚や二重結婚をしたとは考えにくいです。篠原が戊辰戦争を戦っているあいだに、萩野と庄太郎の身になにかあったのではないでしょうか・・・。


篠原と萩野がいつどのように出会ったかは詳らかではありませんが、油小路事件当時の慶応3年(1867年)、庄太郎は数え5歳だったといいます。篠原が伊東とともに上洛したのは元治元年(1864年)ですから、庄太郎はその前年の文久3年に産まれたことになります。庄太郎が萩野の連れ子であった可能性もありますし、篠原が、後から江戸の妻子を呼び寄せた可能性もないとはいえません。ところで、元治元年の伊東派上洛時、篠原は「所用」があって、翌年5月まで大坂に滞在しています。これを、大坂の妻子と暮すためだったとは考えられないでしょうか。篠原は元治元年以前にも関西方面に足をのばしていますし、油小路事件のあと、庄太郎を連れた下男が潜伏したのも大坂でした。関西方面で尊攘活動をしているうちに萩野と知り合って庄太郎が産まれた。伊東らと上洛したのを機に正式に所帯をもった・・・そういう風に想像してみてみるのも、楽しいのではないかと思っています。

<参考資料> 「秦林親日記」、および『新選組遺聞』における引用部分

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