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『高台寺党の人びと』(昭和52年)の第一部第一章を、著作者の許可を得て掲載しています。
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見ぬ世の友ー序にかえて
(『高台寺党の人びと』より)

by 市居浩一氏

見ぬ世の友-序にかえて

高台寺党というのは、後世の人がつけた通称であり、正式の名称は、孝明天皇御陵衛士または禁裏御陵衛士である。御陵衛士が、東山高台寺の塔頭月真院に宿泊していたので、高台寺党の名が生まれたのである。

高台寺党は、新選組の参謀だった伊東甲子太郎を中心に結束した十数人の壮士によって構成されていたが、これらの人々には、二つの明白な共通要素があった。一つは、彼らが全て新選組出身者であったこと、もう一つは彼らが尊撰論者であったことである。要するに、境遇と思想の一致が、彼らを団結させたといえよう。

高台寺党の歴史は、厳密にいえば、彼らが孝明天皇御陵の衛士を拝命して、新選組を去った慶応三年三月二十日に始り、伊東子太郎ら四人が、新選組によって撃殺され、彼らが御陵衛士としての任務を続けられなくなった慶応三年十一月十八日を以て終ったといえる。僅か八カ月問の短い歴史である。しかし、歴史には前史と後史がある。高台寺党の歴史も、その前史をなす御陵衛士の新選組入隊前後の事蹟と、その後史をなす彼らの戊辰の役における活動を併せてみるべきであろう。

高台寺党の人々は、勤王派の志士ではあるが、佐慕派である新選組に籍をおいた経歴があるため、その勤王活動のパターンは非常に変則的なものにならざるを得なかった。

佐幕的武力集団である新選組を脱退して、勤王活動に従事することが、どれ程危険なことであったかを、彼らが知らなかった筈がない。しかし、敢て彼らはその危険を冒したのである。

僅か十数人の御陵衛士が、たかだか八カ月の志士活動を通じてなし得たことは、当然ながら微々たるものであり、彼らが幕末の政治変革について行い得た寄与が、大きいものでなかったことは認めなければならない。しかし、彼らの志士としての経歴の変則さと、志士活動を行うに当って、彼らが冒さなければならなかった危険の大きさは、彼らに対する私の興味と関心をそそるに足るものであった。

高台寺党は、幕府の没落が殆ど決定的になった段階で、新選組を捨てて、勤王派へ走った変節者だ、という人がある。皮相なみかたであるといわざるを得ない。彼らは志をもって新選組に入ったが、組にいてはその志を遂げられないのを知り、新選組を去ったのである。初志に忠実であった者は、私の定義に従えば変節者ではない。

初めて伊東甲子太郎とその同志の事蹟に関心をもちだしてから既に三十数年になる。高台寺党の人々は、私の心の中ではもはや古くからの友人のような存在になっている。私はこの〃見ぬ世の友たち"が、動乱の幕末維新史の片隅に残していった足跡を、できるだけ忠実に記録しておきたいという願にかられて、この小著を書いたのである。

(2007.5.24UP)

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