慶応3年10月7日、晴れ。薩摩藩大久保一蔵・長州藩品川弥二郎は、岩倉具視・中御門と会い、王政復古の詔勅と職制案について密議をしました。 慶応3年10月7日、晴れ。新選組は陸援隊への間者村山をいったん誤認捕縛し、釈放するという奇妙な行動をとりました。大政奉還まであと7日。 この日にしたためられた土佐藩宛の新選組書簡はつぎのとおりです(差出人は「当番」となっています) <六条新地米市場で金策したお尋ね者に大小衣服背格好が似ていた人物を松原通りの大丸にいたので、隊の密偵が屯所に同行させて尋ねたところ、そのようなお尋ね者ではなく、御藩(注:土佐藩)の村山謙吉どのという方とうけたまわり、人違いの段、まことに恐縮であります。とはいえ、御当人の風俗言語等が少々御藩とちがうようにも思われますので、一応、お問い合わせいたします。御藩にまちがいなければ即刻お返しいたしますので、貴意をおしらせください>(意訳はヒロ) <ヒロ> 村山がどのような経緯でいつから陸援隊に潜入していたのかは不明です。新選組との情報交換のためにわざと屯所に連行したのか、あるいは陸援隊内部での村山の信頼性を高めるためにわざと捕縛したのかもしれません。大政奉還が差し迫り、土佐の動きに敏感になっていた新選組(近藤)ですから、屯所でじっくりと土佐の事情をきく機会がほしかったのかという気もします。村山は坂本龍馬の暗殺後、間者であることが露見して捕縛されていますが、このときの工作があやしまれるきっかけになったのかもしれません。 ちなみに、公表されている新選組隊士名簿に村山の名前がみあたりません。村山が偽名である可能性はもちろんあるのですが、どういう人物なのか特定はできないでいます。 <参考>『新選組日誌』(新人物往来社)収録の書簡 |
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