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1866年11月4日(慶応2年10月30日)
篠原、近藤・土方に分離を認めさせるという(疑問あり)

慶応2年10月29日夜、。篠原は昨日にひきつづき、近藤・土方と分離について激論し、ついに分離を承知させたといいます

篠原の後年の手記(三木三郎と共著とも、篠原の息子の手になるともいう)「秦林親日記」によれば

「翌日夜、わたしはまた妾宅へ行き、今夜彼らが説得されなければ、首と足を別々にさせてやる(斬ってやる)との怒髪天をつく勢いで議論したが、彼らはなお分離を承知しなかった。彼らは徳川の成敗を知らず、勤王の趣意も理解しなかった。唯一武道をもって人を制するのみであって、これゆえ、ついにわたしの術中におちいり、分離論に賛成した」(現代語訳はヒロ)

<ヒロ>
有名なくだりですが、わたしはこの激論のすえ分離を認めさせたという点には疑問をもっています。

@この時期、孝明天皇(光明天皇はあやまり)は在命であり、衛士になることはもちだすのは不可能。
A分離をこの時期に激論のすえ認めさせたとしたら、近藤がその後、伊東を九州出張に行かせるのは不自然。
Bこのときから実際の分離まで5ヶ月近くもかかっている。

このように、分離話がでるには時機が早いという気がします。

た、篠原は、伊東と篠原は尾張藩隠居の徳川慶勝の上洛を説いて帰京した直後にこの会談をもったとしていますが、市居氏の調査によれば、伊東と篠原が尾張の重臣と会ったのは御陵衛士時代の翌慶応3年の10月のことだそうです。「秦林親日記」には記憶違いが散見されますが、これもその例です。

分離をめぐる劇論があったとしても、もっとあと、たとえば、伊東と新井が九州より戻った後のことだった可能性もあると思います。また、たとえ慶応2年10月29日という日付があっていたとしても、分離論まではいたらず、時勢をめぐって意見をたたかわせたが一致をみなかったというのがいいところではないでしょうか。

さて、さらにいえば、実際の分離に関する同時代記録(伊東の日記)では、伊東は近藤・土方と酒をくみかわしたり、会津藩や所司代にもあいさつに行っており、円満な分離だったという印象を受けます。伊東らはただ分離が目的ではなく、分離して政治活動を行うことが目的だったわけですから、新選組と敵対することはなるべく避けたかったはずだと思うのです。

史談会速記録によれば、元衛士の加納は、分離は「伊東は近藤と熟談の結果」としています。同様に元衛士阿部も「到底近藤勇に反対いたしましては京阪地方は徘徊できませぬので近藤を説きました」と証言しています。

実際、衛士となってからも新選組や会津藩との接触はあったようですし・・・篠原のいう激論の末の分離というのは、後年の記憶違いなのかもしれないと思っています。

ただし、分離にいたるまで苦労があったことは加納や阿部も証言しています。

なお、阿部の史談からは、分離のきっかけは、新選組が幕臣にとりたてになることだったことがわかります。これは、西村兼文の『新撰組始末記』とも一致します。

<参考>『新選組史料集コンパクト版』(新人物往来社)収録の史料
2000.11.4

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