<大政奉還まであと4日>
慶応3年10月9日(1867.11.4)、大久保一蔵(利通)から前日の薩・長・芸三藩士の会合の結果を聞いた岩倉具視は、中山忠能を通して「王政復古議」を密奏しました。同時に、玉松操に起草させた討幕の詔勅案を忠能に託しました。(詳細はいずれ〜)
慶応3年10月9日(1867.11.4)、長州出兵延期の使者が上洛しました。 (詳細はいずれ〜)
慶応3年10月9日(1867.11.4)、土佐浪士(海援隊)坂本龍馬が入京し、陸援隊屯所を訪問しました。(詳細はいずれ〜)
慶応3年10月9日(1867.11.4)、新選組局長近藤勇は、陸援隊への間者村山謙吉からの情報として、薩摩・十津川挙兵を会津藩に報告しました。この挙兵は土佐に通じていたとして逮捕された水戸人からも拷問によって確認されました。さらに、伊東甲子太郎に確認したところ、村山・水戸人の情報を認めたそうです。
「近藤勇召し呼び、公用方において右次第申し聞き候ところ、そのみぎり同人申し出候には、新撰組の内より土州浮浪(注:陸援隊)の中へ間者に入れ置き候村山謙吉と申す者申し出候には、長州において今般召しに応じ、まかりで候都合に相成り候ところ、薩州より長州へ申しつかわし候には、ただいまたやすく罷り出候てはよろしからず候間、軍装にて登坂いたすべく、左候はば軍装の廉厳命これあるべき、その節は嘆願と号し、おして登京いたし候よう、その図に乗じ、薩州人数にては、二条御城へとりかけ、御役屋敷へは土州浪ならび十津川郷士どもとりかけ、新撰組下宿へは浮浪の徒とりかけ候手配にて、一時に暴発いたし候はずに申し合い、もっとも当15日かぎり、変に応じ候よう心がけるべく旨申し聞き候ところ、右は人気を一定いたしそうろうため、日限を限り候儀にて、長州より登坂いたさずうちに、事を発し候段にはあいいたすまじきとさっせられそうらえども、いずれ容易ならぬ企ての旨申し出、又本国寺にまかりあり候水府人の内、土州浮浪どもへ内通いたしおり候儀、露見いたし、拷問に及びそうらえば、前文のとおり、暴発の陰謀これある旨これ申し、又新撰組より脱走いたし候と唱えおり候伊東甲子太郎と申す者申し候も、右両口に合いおり候。よっては至々極大切なる儀に候間、それぞれ厳重に御手配これありたき旨、かつまた右の儀、謙吉、甲子太郎口より出候杯申す儀、かの方(注:陸援隊など)へ聞こえ候はば、すぐさま殺害いたされ候は差見候儀に候間、極々機密になりくだされたき旨、返す返すも申し聞き候趣、公用人申しで候につき、打寄および評議候ところ、いずれ至重大事件にこれあり、もっとも伊賀様、玄番様辺を御案思遊ばされ、前文の通り御沙汰これあり候については、宰相様御登城御往来も、至極御大切儀に候間、みえかくれに御警衛いたし候よう、新撰組の者どもへ申し聞かせ、その余薩州ならびに土州屋敷の模様探索方の儀、御軍事奉行、学校奉行へ、新撰組、ならびび探索方申し付け置き候ものども、油断なく差し出、厳重に探索いたし候よう申し聞かせ候。なおまた将長の面々へも、前文の次第あらまし申し聞かせ、不安至極の儀、万一の節、手もつれ等これあり候ては決して相すまず儀に候間、いかなる変時到来致し候とも、いささか手もつれなく、急に応じられ候よう十分手配いたし、申すまでもなく玉薬等欠失これなきよう、機密に心がけるべく旨申し聞かせ候儀に候。なお、おいおい申し遣り候えども、今日まで都合申し遣り候」
上田、内藤、諏訪より。 田中、神保、萱野、梶原、一瀬勘、井深、西郷勇、一瀬殿
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(「会津藩文書」:書き下しはヒロ)
<ヒロ>
ところで、この薩摩藩の挙兵・・・計画を示すものは大久保利通の日記などには乗ってないんですけど・・・(薩摩藩に詳しい方に聞いても「そんな計画知らない」とのこと)。薩摩藩はこの時期、国父で最大実力者の島津久光が討幕反対で、挙兵どころの騒ぎではなかったはず。薩摩藩が決起するなんてありえないと思うんですよね。・・・偽の情報だったのではないかと思うのですが・・・。うう・・・もっと薩摩藩のことを調べなきゃ・・・・・・4年後まで待ってくだされ〜m(__)m
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