元治2年2月9日(1865年3月5日)、土方は佐藤彦五郎宛に書簡を出し、将軍上洛を促すための京都守護職会津候松平容保の東下に同行したいと願い出たが却下されたこと、永倉新八の謹慎などを伝えました。 「・・・ 一小子へ仰せ聞かされ委細承引奉り候あいだ、御安心なされくださる候よう願い上げ奉り候。なお永倉君もらされるこの義別状なく候。ただただ行軍記のみぎりは少しさしひかえこれあり候あいだ、右様(注:行軍録から名がもれていること)にござ候。当今御再勤にあいなりい候あいだ、左様ご承引くださるべく候。 一此の頃の内、会津君公御下向相成るやもはかりがたく、よって御下向に相成り候はば天下一大事の事に候あいだ、会君関東の御様子相分かり候えば、一国もお急ぎお知らせ下さるべく候。天下分けめこの一時にこれあるべくと恐察奉り候。 実はお供申し上げるべくと存じ上げ奉り候ところ、御前おいて帝都義ひとえに願い候とおおせきかされ、余儀なく京師に相止まりまかりあり候あいだ、なにとぞ肥後守様(注:会津候のこと)御役お引きにても相成り候はば、別飛脚にても願いあげ奉り候。まずは右申し上げたく、愚礼をもってかくのごとくござ候。恐々不備」。(原文漢文調:読み下しbyヒロ) 容保の東下は、長州処分を議するために諸大名を京都に召集しようという動きに反対して将軍上洛を促すもので、元治元年2月1日には勅許が降りていました。しかし、会津候が不在の間、反幕派の公卿や浪士が跳梁するのを恐れた肥後藩士の周旋で、朝議が一変し、同月4日、関白は「老中阿部と本庄が一両日中に入京するのでそれまで東下はやめるべし」との内旨を出していました。 <ヒロ> 土方との対立が原因だったともされる山南敬介の切腹までわずか2週間余。土方が会津候と東下することになっていたら、山南の死もなかったかもしれないし、新選組の行方も違ったものになっていたかも・・・そんな思いがふとよぎりました。 ★行軍記★ 前年の11月下旬以降に策定され、佐藤彦五郎に送付された征長戦の行軍録に永倉が欠けており、そのことへの佐藤の疑念に答える内容となっています。永倉がもれているのは「少しさしひかえ」・・・これは前年7月の近藤批判をめぐる謹慎処分のことだろうと言われています。 ところで行軍記は征長戦に備えたもので11月下旬策定とされますが、わたしには合点がいかないのです。土方(新選組)はこの時期、本気で新選組が征長に参戦して活躍する機会があると思っていたのでしょうか。11月下旬といえば、すでに長州は禁門の変の責を三家老に負わせて自刃させていました。征長戦は終息に向かっていたといえます。 それに、そもそも新選組を預かっている会津藩は征長軍からははずれていました。これはもちろん京都守護という責務があったからでもあります。しかも、実は、対長州強硬論を唱える会津藩は、寛大な処分を考えていた征長総督である尾張藩前藩主徳川慶勝(会津候松平容保の実兄)にうとましく思われていたようなのです。大阪進発のとき、会津藩は藩士3名を総督に随伴させようとしていましたが、慶勝はそれを謝絶したほどです。新選組が会津藩に代わって征長軍に加わる可能性もまずないと思えるのです。 本気で参戦できるのだと思っていたらあまりにも情勢を読み違えており、これは机上の案でしかなかったのではないかと思うのですが・・・。 ★容保の東下への随伴★ 土方は会津候を「会津君公」と呼んでいます。容保を自分の主君だとみなしていたのでしょうか。だとすれば、武士階級出身で脱藩者(二君に仕えず)の隊士とは意識に大きな隔たりがあったことだと思います。 確かに容保の御前にでて直接言葉を賜り、「京都はまかせた」といわれたらしいころには会津藩における新選組副長の勢力を感じさせられます。この手紙では、彦五郎にそのことを自慢しているのでしょう。 しかし、土方は容保の上洛勅許撤回の内旨を知らずに同行を願い出たことになり、容保との謁見時にも内旨のことは知らされなかったことになります。土方が容保を「君公」と慕っているほどには、容保は土方を家臣(並)として深く信頼していたわけではないこともわかると思います。「京都はまかせるので残れ」というのは内旨を明かさずに東下随伴を断る口実だったとも思えます。 ところで、この時期、会津候は「朝廷寄りで幕府を困らせる存在」として幕閣に忌避されていました。幕府は前年9月から守護職在任中の費用(一月一万両)を差し止めており、容保の東下について伝えきくや、東下すればすぐに守護職を罷免させようと言っていたそうです。文末の「肥後守様御役お引きにても」はこのことを指していたのではないかと思います。会津候が守護職を罷免になれば新選組にとっては一大事です。だからこそ土方は随伴したかったのかもしれませんが、逆に会津藩の方では、このような微妙な状況での東下に、武闘派の新選組副長の同行は政治的プラスにはならないと踏んだのではないでしょうか。 <参考> 『会津松平家譜』、『京都守護職始末』・『徳川慶喜公伝』・『昔夢会筆記』、『土方歳三、沖田総司全書簡集』 |