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慶応3年6月10日(1867年7月11日)
新選組総員幕臣取りたて

慶応3年6月10日(134年前の7月11日)、新選組が総員幕臣にとりたてるとの通知がありました。新選組局長の近藤が見廻組与頭格、副長の土方が肝煎格、沖田以下の副長助勤6名が見廻組格、調役6名が見廻組並、その他の隊士は見廻組御抱御雇入という待遇での取りたてです。(『丁卯雑拾録』−『新選組日誌下』引用箇所より)

さて、この幕臣取りたては議論を呼びました。とりわけ強硬だったのは調役の茨木司を含む10名です。「(武士なので)二君につかえずというきもちをもち、浪士の身分で志を立てて今日まで国家につくしてきたのに幕臣となり栄誉をたまわるのは旧君に申し訳がたたない」というのです。彼らのうち茨木、佐野七五三助、富川十郎、中村五郎は、さきに新選組から分離した伊東らの同志でした。彼らは伊東らの分離のとき同行できず、隊に残っていたのです。

伊東や茨木らと親しかった西本願寺侍臣の西村兼文が著した『新撰組始末記』によると、茨木らは伊東らの屯所とする長円寺に向かい、同盟を求めましたが、伊東は「今、こちらに来るのは新選組の恨みをかうことになり、時機がよくない。もうすこし時勢を待ってくれ(隊へ戻れ)」と彼らを説得したそうです。しかし、彼らは近藤の悪行をにくみ、帰隊をのぞまなかったので、伊東もこまりはて、普通の論では除隊は許されないだろうと考え、会津藩に脱退を願えばよいのではないかと策を授けました。

<ヒロ>
伊東らの分離のときも会津藩の承諾を得ていたので、同様に穏便な方法で新選組を分離できるとみたのではないでしょうか。また、新選組と御陵衛士には隊士の相互編入を禁じる約定があったともいいます。

関連:「覚書」「検証:尊王派隊士の会津藩邸横死事件」−1

*田中寅蔵の件については「慶応3年4月15日 新選組田中寅三切腹」
<参考>『新撰組(壬生浪士)始末記』、『新選組日誌下』

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