(1) 斉昭の失脚・保守門閥派の復権 (弘化1/1844)天保14(1843)年5月、将軍家慶は斉昭を謁見し、藩政改革を賞した。しかし、その一方で、藩内では改革路線を喜ばない門閥・保守派や、仏寺破却などの寺社改革や毀鐘鋳砲に反発する領内の寺院が、斉昭の失脚を画策していた。弘化元(1844)年4月、幕府は水戸藩藩政に不審があるとして、家老を呼び出して訊問を行った。水戸藩は弁明を行ったが、幕府は納得せず、5月、斉昭(45歳)に対して、「気まま」「驕慢」を理由に到仕謹慎を命じた。家督相続は世子慶篤(13歳)に命じられた。斉昭側近の尊攘改革派藤田東湖・戸田銀次郎らは失脚して、門閥・保守派結城寅寿らが藩政を握った。ここに、天保藩政改革は挫折したのである。
*斉昭失脚時の幕閣責任者は新任の首席老中阿部正弘であった。訊問は(1)常盤山東照宮を神仏混交から唯一神道に改めたこと、(2)蝦夷地国替を願い出たこと、(3)財政難にも関わらず土木事業を拡大したこと、(4)弘道館の土手を高くしたこと、(5)寺院を破却したこと、(6)浪人を召し抱えたこと、(7)鉄砲揃打をしたことである。 (2) 改革派の雪怨運動と斉昭の復権弘化元(1844)年5月、門閥・保守派(結城寅寿派)らの画策で、9代藩主斉昭が幕府から致仕謹慎処分を受けると、猛烈な雪怨運動が起った。尊攘改革派(斉昭派武田耕雲斎・吉成又衛門(信貞)らや領民が相前後して無断出府し、幕閣や御三家の尾張藩・紀州藩に上訴した。その結果、同年11月、斉昭の謹慎は解かれたが、藩政は門閥・保守派が掌握したままだった。尊攘改革派は斉昭親政を求めて越境歎願を行ったが、門閥・保守派は首謀者を蟄居・投獄して対抗した。しかし、処分を免れた尊攘改革派の茅根伊予之助・鮎沢伊大夫・高橋太一郎・住谷寅之介らの粘り強い運動もあり、嘉永2年(1849)3月、斉昭は藩政への参与が許された。その後、門閥・保守派(結城派)は要路から一掃され、尊攘改革派が再び実権を握った。*改革派の復権により失脚した結城寅寿・十河祐元は、安政3年4月、死罪に処せられた。(余話:「結城寅寿」)。相前後して連累10余名も投獄・減禄などに処せられた。党派抗争は鎮静することはなく、却って激化した。結城派の残党のうち、市川三左衛門・朝比奈弥太郎らは、のちの天狗争乱で尊攘激派と対立することになる。 |