基礎知識 年表 徳川斉昭 藩士列伝 水戸学 本国寺党 HPトップ

いろはに幕末水戸藩

【かけあし事件簿】
前史 文政12(1829) 9代藩主斉昭の就封
水戸8代藩主斉脩(なりのぶ)には子どもがいないため、世継をめぐって、藩内は、斉脩の異母弟斉昭(なりあき)擁立派と将軍家慶の子で清水家当主の清水恒之丞(斉脩夫人峰姫の弟)擁立派に分かれて激しく対立した。恒之丞派門閥・保守派であり、斉昭派の多くは新進・尊攘改革派でもあった。文政12年、斉脩が死去し、その遺言で斉昭が9代藩主に就いた。
天保
年間
天保1〜13(1830〜42) 天保の藩政改革
藩主に就くと、斉昭は藤田東湖・戸田銀次郎ら軽輩出身の尊攘改革派を登用し、天保元年(1830)より藩政改革を断行した。財政逼迫と対外危機意識の高まり(英国船の水戸領大津浜接近等)を受けたもので、幕府や諸藩の天保期の改革に影響を与えた。

幕府に改革建議
幕府に対しては綱紀刷新、山陵修復、蝦夷開拓、大船解禁等の建議を行った。 関連:「開国開城−天保年間:開国前夜(1)」
弘化・
嘉永
年間
弘化元(1844) 斉昭の失脚、10代藩主慶篤の就封
寺社改革は仏教排除色が強いもので僧侶の反発を呼び、僧侶と門閥・保守派とが連携して斉昭の失脚を画策した。弘化元年(1844)、斉昭は「驕慢」を理由に隠居・蟄居謹慎を命じられ、長男の慶篤(13歳)が10代藩主に就いた。尊攘改革派は失脚し、藩政は結城寅寿ら門閥・保守派が握った。領内士民による雪冤運動により、同年末、斉昭の謹慎は解かれたが藩政への関与は禁じられた。
嘉永6(1853) ペリー来航、斉昭の幕政参与 
斉昭は隠居の身ながら度々幕府に海防を建議した。ペリーの浦賀来航後、幕府から海防参与に任じられると、斉昭は和戦一決と大船建造を主張した。安政元(1854)年に日米和親条約の締結されると、海防参与を辞任したが、海防に関する建議は続け、また軍制改革、幕政改革には参与した。関連:「開国開城−開国勧告とペリー来航予告」 「ペリー来航」
安政
年間
安政1(1854)〜 安政の藩政改革
海防参与辞任後、斉昭は藩政の実権を握った。尊攘改革派が復帰し、藩政改革が行われた。しかし、安政2年(1855)10月の大地震で腹心の東湖・戸田が死去し、水戸藩政に大きな打撃を与えた。また、門閥・保守派が弾圧され、結城寅寿は処刑された。一方、斉昭は新任の老中・開国派の堀田正睦とは合わず、安政4年(1857)7月、参与を退いた。

将軍後継・条約勅許問題と斉昭の蟄居
この頃、13代将軍家定の後継をめぐって、一橋派(斉昭の実子一橋慶喜を推す幕政改革派)と南紀派(紀州藩主慶福(のちの家茂)を推す保守派)の対立が激化し、前後して日米通商条約勅許問題も起った。安政5(1858)年5月、将軍後継には慶福(家茂)が指名されて一橋派は敗北し、6月、幕府は勅許なしで条約に調印した(違勅調印)。斉昭は慶篤や一橋派諸侯とともに登城して大老井伊直弼を詰問した。しかし、逆に、不時登城を理由に斉昭は蟄居、慶篤・慶喜は登城停止に処せられた。関連:「開国開城−将軍後継問題と条約勅許問題

安政5〜6(1858〜59) 戊午の密勅と安政の大獄
条約調印に激怒した孝明天皇は安政5年8月、水戸藩へ幕政改革を求める密勅(戊午の密勅)を下したが、井伊はこれを水戸藩(斉昭)による幕府転覆の陰謀とし、水戸藩に密勅返納を命じるとともに、密勅降下関係者と一橋派の徹底弾圧にのりだした(安政の大獄)。まず斉昭派の執政(武田耕雲斎・大場一真斎・岡田徳至)らを隠居させ、翌安政6年(1859)8月には、家老安島帯刀を処刑し、斉昭に水戸永蟄居、慶篤に差控を命じた。慶喜は隠居・謹慎を命じられた。藩政は再び門閥・保守派が握り、尊攘改革派は弾圧された。関連:「開国開城−戊午の密勅と安政の大獄」

安政5〜(1858〜)密勅返納問題と尊攘派の分裂 
一方、密勅の返納をめぐって藩内は動揺した。門閥・保守派は幕命に従う返納論を採ったが、対する尊攘改革派も朝廷返納派(鎮派)と返納反対派(激派)に分かれて対立した。

安政6(1859) 密勅返納阻止の長岡屯集
安政6年12月、激派は返納を実力阻止するため、水戸と江戸の間にある長岡に屯集した(長岡勢)。翌万延元(1860年)、藩庁(門閥・保守派/鎮派)激派鎮圧にのりだし、蟄居中の斉昭も返納阻止は君命に背くと説得したので、2月、長岡勢は解散した。
万延1
(1860)
桜田門外の変と斉昭の死 
万延元(1860)年2月、長岡勢激派)の主だった者は江戸に向けて脱出し、同志と合流して、3月3日、薩摩藩急進派とともに大老井伊直弼の暗殺を決行した。実行者は江戸で井伊を倒し、薩摩兵を京都に迎え、朝廷を擁して幕府に改革を迫ることを期待していたが、薩摩藩の自重で連携は実現しなかった。井伊の死後、幕府をリードした老中安藤信正・久世広周は公武合体策を推進した。それから5ヶ月後の8月、斉昭は蟄居処分を受けたまま水戸で病没した。関連:「開国開城−勅書返納問題と桜田門外の変」

水長盟約
7月、激派西丸帯刀らと長州藩士桂小五郎ら数名が、幕政改革を目的とする盟約を長州藩船丙辰丸上で結んだ。水戸藩は「破」(破壊=刺客を放って国政の奸を除く)にあたり、長州藩は「成」(成就:藩侯を動かして在野の賢を国政に奨める)にあたるというもので、「成破の盟約」ともいう。関連:「開国開城−水長盟約」

三十八浪士薩摩藩意見書提出事件
斉昭の死後、激派が次々に行動を起した。8月、長岡勢残党の竹内百太郎・岩谷敬一郎・林忠左衛門(のち天狗争乱に参加)、吉成恒次郎、鯉沼伊織(香川敬三・のち陸援隊)ら激派38人が、「天下浪士」と称して江戸の薩摩藩邸に駆け込み、攘夷の先鋒を務めたいとする意見書を提出した。しかし、薩摩藩邸は彼らを拘留し、翌年7月、水戸藩邸に引渡した。

玉造騒動
さらに11月、長岡勢の残党のうち、横浜における外国人襲撃(攘夷)を計画する大津彦五郎ら激派が玉造・小川・潮来に屯集した(玉造勢)。幕府は関東東北諸藩に命じて騒動に備えると同時に、水戸藩庁も説得を試みた。玉造勢は文久元年に入って郷校文武館を本陣とし、隊伍を組んで近隣から金穀を徴収した。水戸藩では激派の信望厚い尊攘改革派三執政(武田・大場・岡田)を藩政に復し、説諭に当たらせた。日ごろ武田を尊敬していた玉造勢は解散を承諾し、首謀者は自首した。水戸藩は彼らを捕縛して水戸城外細谷村に拘禁し、他の同志を捜索・逮捕した。水戸藩の彼らに対する扱いは苛酷で、また、武田らの建議が藩庁に容れられず、大津は抗議のため食を断って獄死した。捕縛された同志も多くが文久元〜2年8月ごろまでに亡くなっている。(なお、壬生浪士の芹沢鴨の本名とされる下村継次の名が玉造勢にみられる)。
文久1
(1861)
■.(第一次)東禅寺事件 
文久元(1861)年5月、激派の浪士らが江戸・東禅寺の英国公使館を襲撃し、館員・警備兵を殺傷した。6月、幕府は尊攘改革派/激派執政の武田・大場・岡田に謹慎を命じた。興津所左衛門ら門閥・保守派/鎮派が藩政を掌握し、激派は投獄されるなど弾圧された。
文久2
(1862)
■坂下門外の変
文久2(1862)年1月15日、水戸浪士(激派)ら6名が江戸城坂下門外で老中安藤信正を襲撃し、負傷させた。安藤暗殺計画は水長盟約に基づくものであったが、長州側は藩情によって自重したため、水戸と宇都宮の急進派の提携によって実行された。関係者が変名を使って身元を隠したこともあり、水戸藩に対する処分はなかった。関連:「開国開城−坂下門外の変」

■東西挙兵計画?
一方、桜田門外の変において水戸浪士との連携を自重した薩摩藩は、一藩をあげての国政進出を画策していた。3月、薩摩藩父島津久光は公武合体による幕政改革の断行をめざして、率兵上洛(最終的には東上)の途についた。これを討幕挙兵の機会だと期待した尊攘急進派は京阪に集った。4月の寺田屋事件により、京都挙兵計画は未然に阻止されたが、当初、江戸の薩摩藩急進派は水戸の同志(激派)を糾合して関東に挙兵し、京都挙兵に呼応する計画だったという。関連:「開国開城−薩摩の国政進出-島津久光の率兵上洛と寺田屋事件」

慶喜の将軍後見職就任と激派の復権
久光は安政の大獄で処罰された一橋慶喜(藩主慶篤の弟)の登用こそ幕政改革の鍵だと考えていた。久光は慶喜登用の朝命を得ると勅使大原重徳護衛の名目で藩兵を率いて江戸に入った。7月、幕府は一橋慶喜を後見職に任命した。水戸藩内では激派が勢いづき、11月には幕命により、激派三執政(武田・大場・岡田)が復権した。また、幕府が朝命を奉じて行った大赦により、投獄されていた激派が順次釈放された。
関連:「開国開城−勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革

慶喜と慶篤に上京の幕命
久光が勅使と東下中、京都では長州・土佐を中心とする尊攘派の勢力が伸張した。結果、幕府への破約攘夷督促論が盛んになり、第2の勅使三条実美・姉小路公知が東下することになった。 幕府は一時は慶喜上京・開国奏上方針だったが、結局、将軍上洛・攘夷奉勅と決めた。12月、幕府は攘夷を奉承し、策略・期限は協議の上回答すると約束した。しかし、実際は公武合体派大名・公家が連携して公武一和の国是(開国)を決定する心積もりだった。将軍に先発する慶喜は、上京にあたって実家の水戸藩から武田・原市之進ら(激派)を借り受けた。慶篤には当初、将軍留守中の江戸守衛が命じられたが、朝命によって上京となった。【関連:「開国開城」「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」「幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策」】

勅書(戊午の密勅)の奉承
また、12月、幕府は安政の大獄を引き起こした勅書(戊午の密勅)を公表し、慶篤に奉承することを認めた。慶篤は勅書奉承を藩内に布告し、一件に関連して処罰された長岡勢残党ら激派を赦免した(★)
文久3
(1863)
■慶篤、水戸藩激派(本国寺党)の上京
文久3年3月、朝廷の要求により将軍家茂が上京したが、それに先立って。1月、後見職の一橋慶喜が入京した。一橋家当主で固有の家臣の少ない慶喜に、実家の水戸藩士に随従が命じられた。随従の水戸藩士は激派である。将軍は3月4日に入京し、慶篤も藩士・郷士ら(激派)を率いて翌5日に入京した(後に天狗党武田耕雲斎、藤田東湖の子・小四郎などもこのとき上京)。長岡勢残党ら激派29人も長州藩伊藤俊輔に連れられて入京した。慶喜は開国論だが、激派は破約攘夷論で、長州藩桂小五郎・久坂玄瑞など在京尊攘急進派とも頻りに行き来した。しかし、慶篤は、25日、生麦事件賠償問題で英国との開戦の可能性が高まる江戸の守衛のため、将軍目代として京都を出立した。京都守衛には、弟昭訓が藩主名代として残った。昭訓とともに京都に残った激派本国寺党と呼ぶ(水戸藩が本国寺を本陣としていたため)。

■生麦事件償金&横浜鎖港問題
慶篤は4月11日に江戸に到着。14日には将軍滞京中の交渉全権を与えられた。21日、幕府はまず償金を交付し、その上で横浜鎖港交渉を始めると決定した。ところが、京都では幕府は攘夷期限を5月10日と布告し、攘夷実行を名目に慶喜が攘夷主義の武田を連れて東帰の途に着いた(小四郎も帰府)。道中、慶喜は江戸の老中に攘夷・償金交付不可を達したため、江戸は混乱したが、5月8日、老中格小笠原長行が独断で償金を支払った(慶喜の真意は償金支払いで、攘夷はジェスチャ)。翌9日、慶篤は武田・大場(激派)を伴って老中に鎖港交渉の実行を迫ったが、幕府は動かず、19日、将軍目代の辞表を提出した。【関連:「開国開城」「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」】

一方、京都では、8月18日に孝明天皇・中川宮が会津・薩摩と組んだ政変が起り(8.18の政変)、長州藩及び急進派七卿が京都から追われた。しかし、孝明天皇の攘夷の意思は変わらず、幕府は9月に横浜鎖港交渉を開始し、12月に鎖港交渉使節を各国に派遣した。【関連:「開国開城」「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変

■激派と長州藩の密約(東西挙兵?)
長州の七卿は水戸藩に頼って素志を実現しようと使者を激派に派遣した。江戸に赴いた桂小五郎も藤田小四郎に軍資金を渡して盟約を結んだ。東西呼応して尊攘(破約攘夷)の挙兵をしようというものだったという。武田は自重して藩の力を蓄え、時機を待つべきだと説得したが、小四郎は聞き入れず、水戸に下って有志を勧誘した。
元治1
(1864)
禁裏守衛総督一橋慶喜の激派取り込み
元治元年1月、朝廷の要求で、将軍家茂が再度上洛した。将軍に先立ち上京していた慶喜は、朝廷参豫会議の一員となったが、横浜鎖港を強く主張して、他の参豫諸侯や幕閣と衝突し、参豫会議を崩壊させた。さらに後見職を辞して禁裏守衛総督・摂海防御指揮に就任すると、一橋家当主であり、独自の家臣団・兵力をもたないため、在京水戸藩士原市之進・梅沢孫太郎(激派)を側近に迎え、江戸の武田耕雲斎に水戸藩士200〜300名を上京させることを依頼した。在京水戸藩士の慶喜への期待は高まった。

天狗党の筑波挙兵
一方、破約攘夷はおろか横浜鎖港も一向に実現しない状況をみて、藤田小四郎は、幕府に攘夷実行(具体的には横浜鎖港)を促すために、3月27日、激派の同志とともに筑波山に挙兵した。彼らを天狗党(筑波勢)という。総帥には水戸町奉行田丸稲之右衛門を迎えた。天狗党は、斉昭の神位を作って輿中に安置して軍の中心とし、自分たちは斉昭の素志を継ぐのだと表明した。彼らはまず、日光を占拠して諸藩を説き、幕府にも建議して、天皇の意思である攘夷を実行させようと考えた。しかし、宇都宮藩等の兵が続々と集結したため、東照宮に参拝しただけで大平山に移った。この頃には天狗党は400名近くになっていた。

■幕府と水戸藩(激派政権)の対立
幕府は、鎖港使節を各国に派遣している上、将軍が上洛中で江戸を留守にしている折に親藩の家臣らが騒乱を起すとはもってのほかだと水戸藩に天狗党取締りを命じた。

当時、激派の武田らが執政だった江戸藩邸では、田丸に使者を送り、<列公の遺志を継ぎ尊攘の実効を挙げることは、もちろん藩としては天下に率先し、尽力するつもりだが、徒党を組んで集会し、烏合の衆を集めて布陣し、幕憲に触れて徒に失敗するのは得策ではない>と諭したが、田丸は<一死報国の赤心をもって尊攘の急先鋒たらんと欲するのみ、成敗・利鈍はもとより顧みるところではない>と応じなかった。

水戸藩は、天狗党(筑波勢)説得を続ける一方、横浜鎖港断行以外に鎮定することはできないとの認識から、留守老中に鎖港断行を申し入れるとともに、京都の慶喜らに頼って朝廷に鎖港断行を入説した。

■攘夷の挙兵から水戸藩内部政争に
・反天狗派の江戸藩邸掌握
幕府は再度、水戸藩に天狗党の解散を命じ、江戸藩邸の武田らをけん責した。門閥・保守派の市川三左衛門らは、争乱を機に幕府の力を借りて政敵である激派の勢力をそごうと考えた。鎮派が主流の藩校弘道館の諸生とともに反天狗の一派(「諸生党」)を成した。市川は水戸郊外千束原で<筑波挙兵は尊王・攘夷を標榜するが実は長州に応じるものである。心ある水戸藩士は傍観できず、暴徒を制し民害を除いて、烈公の遺志を遵奉せよ>と檄をを飛ばすと江戸に向って南上を開始した。5月28日、激派の武田耕雲斎らは罷免され、江戸藩邸の重職には門閥・保守派の市川・朝比奈・佐藤らがついた

・幕府の天狗党追討令
水戸城内で諸生党が激派を圧迫していることを知った天狗党は、5月末に筑波に戻った。前後して、田中愿蔵(げんぞう)の隊などが、軍資金確保のために強要・略奪・殺人・放火などの暴力行為を行った。幕府は天狗党追討方針を定め、6月9日、関東の諸藩に出兵を命じた。水戸藩からは市川が約300名(諸生党)を率いて出陣した。幕軍・諸藩・諸生党から成る追討軍は、7月、下妻で天狗党と交戦したが、敗れてしまった。幕府は、新たに若年寄田沼意尊を総括とする常野追討軍を編成して出陣させた。

・大発勢と反天狗派の水戸城掌握
6月中旬、水戸から、反門閥派の榊原新左衛門らが、江戸の藩庁を刷新しようと南上した(大発勢)。その結果、7月2日、今度は市川・朝比奈・佐藤らが更迭された。このため、天狗党に敗れた諸生党は江戸に戻ることができず、水戸城を目指した。7月23日に入城すると、自派を執政につけて水戸を掌握し、反対派を粛清した。天狗党は、攘夷の前に諸生党を討つことを決め、7月25日に水戸城に迫ったが、撃退されてしまった。

【関連:「開国開城」横浜鎖港・天狗党追討問題と江戸の政変、

■藩主名代松平頼徳の水戸鎮定の出陣
8月4日、幕命により、水戸藩支族の松平頼徳が、藩主名代として藩内の鎮定のために出陣した。頼徳には水戸藩家老榊原新左衛門ら約700名(大発勢)が随従し、途中で武田耕雲斎ら激派も合流した。ところが、頼徳は、諸生党に阻まれて水戸城に入ることができず、那珂湊に後退して諸生党と交戦するはめになった。天狗党(筑波勢)も那珂湊に駆け付け、諸生党と戦った。8月下旬、常野追討軍総括田沼意尊が水戸城に入城し、市川率いる諸生党とともに那珂湊を包囲した。筑波勢と連合して諸生党と戦っていた頼徳・大発勢は、不本意にも幕軍に敵対することになってしまった。頼徳は、9月下旬、田沼に召喚されて事情説明のためにに出頭したが、弁明の機会が与えられないまま、10月1日に官位をはく奪され、10月5日に幕命によって切腹させられた。

■武田耕雲斎・筑波勢らの西上
10月下旬、榊原新左衛門ら大発勢は、追討軍の一部の仲介により、幕軍へ投降して「賊徒」の汚名を晴らすことにした。投降に反対した武田耕雲斎及び藤田小四郎・田丸稲左衛門等の筑波勢ら約800名は、京都の一橋慶喜を頼って、朝廷に攘夷の素志を訴えることに決し、11月1日、耕雲斎を総帥として西上を始めた。彼らは主に中山道を通ったが、美濃で諸藩に街道を封鎖され、北上して、越前を通って京都を目指すことを余儀なくされた。

■一橋慶喜の出陣と天狗党の降伏
天狗党は、12月11日、越前新保(今の敦賀)にたどり着いたとき、前方に布陣する加賀藩から、頼みの綱としていた慶喜が自ら朝廷に願い出、諸藩を率いて追討軍の主将となっていることを知った。彼らは、慶喜の率いる諸藩に抗戦することはできないと、加賀藩軍監永原甚七郎に嘆願書・始末書を提出して慶喜への取次を依頼した。しかし、慶喜はこれを降伏書ではないと退け、17日の総攻撃を通告した。12月17日、天狗党は降伏書を提出し、加賀藩に投降した。
慶応1
(1864)
■天狗党の幕府への引き渡し
主要参考文献:
『徳川慶喜公伝』・『茨城県の歴史』・『茨城県幕末史年表』・『水戸学と明治維新』
『水戸藩末史料』・『清河八郎遺著』・『水戸幕末風雲録』・『水戸藩史料下』・
『天保明治水戸見聞実記』

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