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1. 会津藩と彦根藩(1)安政の大獄と容保の意外な関係 (2001/12/21)

(2001/7/4の井戸端投稿より)

安政の大獄関係の本を読んでいたら、びっくりしたことが・・・。

日米修好通商条約を無断調印した井伊はその説明のために老中間部詮勝を京都に派遣して、この間部が長野主膳と一緒に安政の大獄を始めちゃうわけですけど・・・実は、井伊は、最初、間部ではなく、「如才ない」松平容保を京都に派遣するつもりだったんですって。なぜ容保から格下の間部になったんでしょうねえ。容保ががもし京都に派遣されていたら、安政の大獄はもしかしたら違うかたちになっていたかもしれないと思うと興味しんしんです・・・。

井伊は大老に就くと、老中の入れ替えをやったんですが、そのとき間部が起用されているんです。で、間部が入京した翌日には水戸藩京都留守居役の鵜飼が逮捕されてます。長野主膳の提案どおり。もし、間部ではなく容保だったら、守護職拝命から上洛当初の方針に鑑みても、京都(朝廷・浪士)弾圧はしなかったろうし、水戸の重臣を逮捕するなんてことも絶対反対した・・・長野の言うとおりにはならなかったと思うんですよね。もしかすると、だから外されたのかな・・・。当初の幕府の方針を説明するだけではなく、京都大弾圧を行うことに決めた井伊にとっては、主膳のいうがままになるような人物のほうが好ましかったのかしら・・・う〜ん。

もうひとつ不思議なことは、これっって、旧臣によって書かれた会津藩の通史(「七年史」「京都守護職始末」「会津松平家譜」)にはのってないんですよ〜。というか、安政の大獄の起ったころの容保の動き自体が抜け落ちているんですよ(江戸にいたと思うんだけどそれも不明確)。気になるなあ・・・。会津藩の史資料は会津を正当化してるところもあって、他の史資料と見比べないと鵜呑みは禁物・・・なところがあるんですけど、こんな重要なことがまるで抜け落ちてるなんて・・・なぜ???井伊に気に入られていたことを隠そうとしたのか???なんて疑惑が次々に・・・・・・。

そもそも井伊(彦根)と会津は溜り間の常詰大名同士だし、両家は縁戚関係もあったようだし?、直弼は会津藩先代藩主(容保の養父)に目をかけてもらったようだし、容保と直弼はごくごく近しい関係にはあったはずだけど・・・。容保が井伊寄りだったとしたら、一橋派の慶喜・慶永からはあまりよくは思われてなかったのでは?一会桑政権をつくっておきながら慶喜とうまくいかなかった容保だけど、安政の大獄に遠因があるのかも???彦根藩と会津藩とは京都守護をめぐる因縁もあるし(会津藩の前には彦根藩が京都守護の役に就いていた)、う〜ん・・・気になります。

というわけで、地道にておいかけていきたいと思います。なにか情報、コメントのある方、井戸端へお願いします!

参考:『安政の大獄』(吉田常吉)

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