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2.養子諸侯の時代?:一会桑は養子&水戸徳川家の血筋 (2002/3/1)


調べてみると、幕末有力諸侯には他家からの養子が多いことに気づきます・・・。例をあげると

将軍 徳川慶喜 水戸藩主徳川斉昭7男。一橋家に養子へ
尾張藩主 徳川慶勝 高須藩主松平義健2男
尾張藩主 徳川茂徳 高須藩主松平義健5男
会津藩主(守護職) 松平容保 高須藩主松平義健6男
越前藩主(総裁職) 松平春嶽 田安家徳川斉匡8男
桑名藩主(所司代) 松平定敬 高須藩主松平義健7男
因幡藩主 池田慶徳 水戸藩主徳川斉昭5男
備前藩主 池田茂政 水戸藩主徳川斉昭9男
備中藩主(老中) 板倉勝静 桑名藩主松平定永8男
宇和島藩主 伊達宗城 旗本山口直勝(宇和島藩主伊達宗紀の従弟)の子
土佐藩主 山内容堂 一門の南屋敷からの養嗣子
長州藩世子 毛利定広 徳山藩主毛利広鎮の子

一見して水戸徳川家と高須松平家の養子が目立ちますよね(わたしのソースが偏ってるせい^^;?)。

水戸徳川家関係では、徳川慶喜、池田慶徳、池田茂政が実は兄弟です。池田の両名は斉昭の影響を強く受け?攘夷信奉者で慶喜と幕府を支えたとはちょっといいにくい人たちでした。(慶喜の長兄の水戸藩主徳川慶篤は、藩内の抗争も抑えられず、慶喜の後ろ盾とはなれなかったですし)

高須松平家関係では、徳川慶勝、徳川茂徳、松平容保、松平定敬が兄弟です。容保は守護職拝命後、慶勝を頼りにして、上洛を度々呼びかけています。慶勝に将軍名代として大坂城にいてもらおうという案もあったほどです。慶勝は藩内の抗争を鎮めるためとして早々に帰国し、京都の容保を支えることはできませんでしたが。また、定敬は所司代として上京、容保を支えますが若干20歳。難局にある兄を政治的に補佐するということはできなかった感じです。

ところで、実は高須藩主松平義健の父義和は水戸藩主徳川治保の子で、高須松平家に養子に入っています。また、義健の正妻は水戸藩主徳川斉昭の姉(規)なので、高須松平家には水戸徳川家の血が流れています。義健と斉昭は従兄弟になりますし、慶勝・茂徳・容保・定敬は徳川治保の曾孫になります。

一会桑の慶喜・容保・定敬は三者とも養子であったし、それぞれ水戸徳川家の縁者だったのです。やっぱり、「すべての道は水戸につながる」(笑)?

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