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4.開国と幕府瓦解(1)開国による経済混乱

このサイトは幕府瓦解にいたる政治的プロセスをメインにしているのですが、経済面も重要なファクターですよね・・・。経済は苦手なのですが、ちょっとずつ勉強していこうと思います。


安政6年(1859)、通商条約に基づき、横浜・長崎・箱館が開港した。ペリーの浦賀来航から6年後のことである。このときの貿易相手は英・米・仏・蘭で、文久3年(1863)に露・普が加わった。

開港は、国内経済に大きな影響を与えた。開港後、輸出入はともに拡大し続けたが、生糸・茶・などの原料品(一次産品)を中心とする輸出超過が続いた。輸出品目は、当時の日本人の生活必需品だったが、急激な輸出需要に対して生産体制が追いつかず、国内の品薄を招き、価格は高騰した。

従来、これらの商品には江戸・大坂の問屋による流通システムが確立し、株仲間を通して幕府が市場を統制していた。しかし、通商条約では自由貿易が定められたため、問屋筋とは別の地方【じかた】商人が進出し、問屋を通さない産地直送による貿易が始まった。統制型の国内流通システムは乱され、品不足と価格高騰に拍車がかかった。特に、生糸を原料とする織職は原料価格の高騰と品不足から休業状態に陥り、生糸商に対する西陣暴動や、貿易中止の嘆願運動も起った。


表1:幕末の貿易額

出所:『日本開国史』の数値より作成

このような経済混乱に対し、幕府は、貿易の制限・統制を通して国内経済保護をはかろうとした。自由貿易を原則とする通商条約違反は承知の上である。

開港から10ヶ月後の万延1年(1860)閏3月、幕府は五品江戸廻送令を公布した。生活必需品5品目(生糸・雑穀・呉服・水油・蝋)については、産直による横浜貿易を禁止して江戸の問屋への廻送を義務付け、府内の需要を満たしてから輸出に向けるという法令である。

しかし、廻送令は、産直による貿易で利潤を上げていた新興横浜売込商の反発を生み、既得権保護をはかる問屋筋との対立を招いた。両者の妥協の結果として、廻送令は空文化してしまった。


<参考>
『日本開国史』、『日本歴史大系12 開国と幕末』、
講談社版『日本の歴史18 開国と幕末変革』






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