志士詩歌トップ HPトップ

無断転載・引用・複写はお断りします。
やおい作品への利用(悪用)は絶対にやめてください。前例があり、深く傷ついています。

安政の大獄編

安政の大獄とは

<詩歌>

−勅涕和歌集(慶応3年12月)、殉難前章(明治元年4月)より−
安島帯刀 
あじま・たてわき

水戸
家老
<安政6年8月27日江戸幽囚先にて切腹 48歳>
述懐
「今更に 何をか言はん 言はずとも 我が真心は しる人ぞしる」
「国を想ひ 世を歎きての 真心は 天にも地にも あに恥ぢめやは」
「しひて吹く 嵐の風の はげしさに 何たまるべき 草の上の露」


八月二十三日心にて世を辞したり
「武蔵野の 露とはかなく 消えぬとも 世にかたりつぐ 人もこそあれ」
「玉の緒の たゆともよしや 君々の かげの守りと ならんと思へば」
「草に置く 露の情けも あるものを いかにはげしく 誘ふ嵐ぞ」
「無き人の その言の葉も 繰りかへし 見る我さへも 袖ぬらすかな」
鵜飼吉左衛門
うがい・
きちざえもん
水戸
藩士
<安政6年8月27日江戸にて刑死 62歳>
雪満山野
「野や越えむ 山路や越えむ 道わけも うづもれはてて ゆきぞわずらふ」

或人大石良雄が手植の桜花一枝を贈りけるに
「願はくは 此樹のもとに 旅寝して 花のあるじと まみえてしがな」
鵜飼幸吉
うがい・こうきち
水戸
藩士
<安政6年8月27日江戸にて刑死・獄門 30歳>
述懐
「世にもありて 数ならぬ身も 国のため つくすこころは 人に変わらじ」
茅根伊予之介
ちのね・
いよのすけ
水戸
藩士
<安政6年8月27日江戸にて刑死 36歳>
辞世
「ふりすてて 出でにしあとの 撫子は いかなる色に 露やおくらむ」
梅田雲浜 
うめだ・うんぴん
若狭
小浜
<安政6年9月14日江戸獄中にて病死 45歳>
捕はれて某の邸に籠められたるが、
病重きに養のことなど人の云ひたりけるに
「君が代を おもふこころの 一筋に 我が身ありとも 思はざりけり」
橋本左内 
はしもと・さない
越前
藩士
<安政6年10月7日江戸刑死 26歳>
「さみだれの かぎり有りとは しりながら 照る日をいのる こころせはしき」
「二十六年夢裡過。顧思平昔感滋多。天祥大節嘗心折。土室猶吟正気歌」
頼三樹三郎 
らい・みきさぶろう
儒者 <安政6年8月27日江戸刑死 35 歳>
「我がつみは 君が代おもふ 真ごころの ふかからざりし しるしなりけり」
吉田松陰 
よしだ・しょういん
長州
藩士
<安政6年10月27日江戸刑死 30歳>
「終にゆく 死出の旅路の 出立は かからむことぞ 世のかがみなる」
「人のため うたれし人の 名はながく のちの世までも かたりつがまし」
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも とどめ置かまし やまとだましい」
「親をおもふ こころにまさる おやごころ けふの音づれ 何ときくらむ」

辞世
「今我為国死。死不背君親。悠悠天地事。感賞在明神」

 <参考文献>『勤皇文庫 第五編 詩歌編』(大正10年)、『維新志士勤皇詩歌評伝』(昭和13年)、『志士詩歌集』(昭和17年)
佐幕派もとりあげたいのですが、手持ちの資料からアップしているので当分、尊皇派が中心になると思います。

次回のアップは「桜田門外の変」関係者です^^。


<小伝>

安島帯刀(文化9〜安政6):水戸藩では斉昭派。弘化元年、藩主斉昭が幕府より江戸にて隠居謹慎の命を受けると、処分撤回に向けて奔走し、謹慎処分を受けた。安政3年に藩政に返り咲き、安政5年7月には家老に任ぜられた。将軍継嗣問題では一橋慶喜(徳川斉昭の実子)を擁立するため運動した。しかし、水戸藩に公武合体を促す勅書(戊午の密勅)降下問題に関連し、同年9月、帯刀宛の鵜飼吉左衛門の密書が幕府に押収されて安政の大獄の発端となった。帯刀は翌6年4月に評定所に召喚され、8月27日、切腹に処せられた。 享年48歳。 ページトップへ

鵜飼吉左衛門(寛政10〜安政6):水戸藩では斉昭派。京都留守居役。在京中は斉昭の意を受けて公卿に攘夷を入説し、安政5年に老中掘田正睦が条約勅許を求めて上洛したときには、阻止の運動をした。さらに、将軍継嗣に一橋慶喜を擁立するため朝廷に働きかけた。同年8月、水戸藩に公武合体を促す勅書(戊午の密勅)を受け取ったが病だったので息子の幸吉に江戸藩邸に勅書を届けさせた。このことが原因で9月、幸吉ともども捕縛され、江戸に檻送されて、翌6年8月27日、死罪に処せられた。享年62歳。 ページトップへ

鵜飼幸吉(文政11〜安政6):水戸藩士鵜飼吉左衛門の子。安政4年に京都留守居役助となり、父を補佐した。安政5年8月の密勅降下のときは、父の代理として江戸藩邸まで勅書を届けた。同年9月、父とともに捕縛され、江戸に檻送されて翌6年8月27日、死罪・獄門に処せられた。享年30歳。 ページトップへ

茅根伊予之介(文政7〜安政6):水戸藩。藤田東湖・会沢正志斎に学んで、藩校弘道館の舎長を務めた。弘化元年、幕府による斉昭の隠居処分とともに藩内抗争が激化し、正志斎とともに辞職した。安政元年、斉昭が国政参与に任ぜられるとともに弘道館に復帰し、藩政にも参画するようになった。安政5年には斉昭の意向を受けて一橋慶喜の将軍継嗣擁立に奔走し、また条約勅許問題では不可の運動を行った。このため、翌6年4月、家老の安島帯刀とともにに評定所に召喚され、8月27日、死罪に処せられた。享年36歳。  ページトップへ

梅田雲浜(文化12〜安政6):儒学者。小浜藩士で京都・望南軒で講義をする著名な学者だったが、嘉永5年、藩政や海防について藩主酒井忠義(京都所司代を2度つとめた)に建言をしたのが批判と受け取られて士籍を剥奪され、浪人となった。翌6年の黒船来航後は、水戸・越前・長州などを訪れて攘夷を遊説した。京都では志士の中心人物として尊皇攘夷を指導した。門人に、朝廷で大きな勢力をもつ青蓮院宮(中川宮)家臣がおり、安政5年の条約勅許問題では、条約不可を入説し、将軍継嗣問題では一橋慶喜擁立運動を行った。安政5年8月に水戸藩に降下された勅書(戊午の密勅)も青蓮院宮に雲浜の提出した意見書が参考にされたという。このように反幕的尊皇活動から、幕府から「悪謀の四天王」と呼ばれ、同年9月逮捕され、江戸に檻送された。翌6年、獄中で病死。享年45歳。 ページトップへ

橋本左内(天保5年〜安政6):越前藩士で蘭学者。嘉永2年、大阪適塾(緒方洪庵主宰)に入門して蘭方医学を学んだ。このころ、梅田雲浜、横井小南(肥後藩)と交流した。安政元年、江戸詰となり、水戸藩藤田東湖、薩摩藩西郷吉兵衛(隆盛)らと交流した。その後、藩校・明道館の学監同様心得に取り立てられ、また洋書習学所も設立した。将軍継嗣問題では、安政4年8月、藩主松平慶永(のち春嶽)に命ぜられて一橋慶喜擁立運動を展開した。彼は積極開国と富国強兵の必要性を訴え、そのための国内体制改革には英明な将軍(=慶喜)を中心とする挙国一致体制(御三家・親藩・外様大名、小名・幕臣・志士の政治参加による)が必要であると説いた。安政5年7月、大老井伊直弼による松平慶永の隠居謹慎処分後は、左内も政治活動を中止した。しかし、安政の大獄が始まると、幕府に取り調べを受け、江戸に檻送され、将軍継嗣問題で一橋慶喜擁立運動に関わったことを罪とされて、翌6年10月27日に死罪に処せられた。西郷隆盛は左内を「わたしの及ぶところではない」と評し、武田耕雲斎は「藤田東湖の死後に東湖あり」と評したほどの人物だった。享年26歳。 ページトップへ

頼三樹三郎(文政8〜安政6):儒学者。『日本外史』を著わした頼山陽の子。京都において父の旧友である梅田雲浜らと尊皇攘夷運動を展開した。安政5年の将軍継嗣問題では、一橋慶喜擁立を公卿に入説し、水戸藩への勅書(戊午の密勅)降下に関係したため、幕府から「悪謀の四天王」と呼ばれた。同年、安政の大獄が始まると、捕縛されて、江戸に檻送されて、翌6年8月27日に死罪に処せられた。享年35歳。 ページトップへ

吉田松陰(天保元〜安政6):じゅんびちゅう。

<参考文献>『維新志士勤皇詩歌評伝』、『勤皇文庫 第五編 詩歌編』
『徳川慶喜』(中公新書)、『幕末維新人名辞典』(新人物往来社)、『明治維新人名辞典』(吉川弘文館)
『幕末維新 新撰組・勤皇志士・佐幕戦士たちのプロフィール』(新紀元社)


2001/01/27

ページトップへ 

志士詩歌トップ HPトップ