嘉永6(1853)〜文久2(1862) |
<要約>
幕府の日米通商条約無断調印に激怒した孝明天皇は水戸藩へ密勅(戊午の密勅)を下した。これを水戸藩の幕府転覆の陰謀とする大老井伊直弼は密勅降下関係者、及び政敵である一橋派の徹底弾圧にのりだした(安政の大獄)。 |
将軍:家茂 | 大老:井伊直弼 | 老中:間部詮勝、太田資始 松平乗全 |
天皇:孝明 | 関白:九条尚忠⇒近衛忠熙⇒九条尚忠 |
◆水戸藩へ密勅降下安政5年8月、幕府の無断調印に激怒した孝明天皇は幕府と水戸藩に対して、勅書を下賜した(幕府への勅書は水戸藩の2日後)。水戸藩への勅書は正式の手続き(関白の裁可)を踏まない、前例のない藩への直接降下であるので密勅となったた(戊午の密勅という)。勅書は幕府に斉昭らの処罰の理由を問い、さらに御三家や諸大名は幕府に協力して公武合体を強化せよとの趣旨のものだった。水戸藩への密勅へは、勅書の内容を水戸藩から御三家や諸藩に伝えるようにとの副書がついていた。 ◆安政の大獄勅書が幕府を飛び越して直接水戸藩に下されたこと、しかもその内容を水戸藩から諸藩に伝達せよという命であったことを幕府は重大な問題ととらえた。水戸藩(斉昭)が外様大名や浪士と結託し、朝廷を利用して幕府を転覆させようとしていると考えたのである。幕府は水戸藩に対して勅書を幕府に返納するよう命じる一方で、勅書降下や一橋慶喜の将軍擁立運動の関係者の処罰を始めた。これを安政の大獄という。水戸藩では勅書を受け取った家老の安島帯刀や茅根伊予之介、勅書降下に直接関わった京都留守居役の鵜飼吉左衛門父子が死罪に処せられ(安島は表向きは切腹)、そのほか、京都の尊攘激派の中心的存在で朝廷への影響力のあった梅田雲浜(獄死)・頼三樹三郎(死罪)、長州藩の吉田松陰(死罪)、越前藩の橋本左内(死罪)をはじめ、70名を越える志士・幕臣・諸侯・公家などが拘禁され、やがて遠島・蟄居・隠居などに処せられた。 ◆密勅の意義:公武合体思想の表明戊午の密勅には「公武合体をいよいよ長久にし、徳川家を助け、内を整え、外夷の侮りをうけぬようにせよ」との文言が含まれていた。「公武合体」が朝廷の公式文書に登場するのは、戊午の密勅が最初だということで、以後、この思想が幕府・雄藩に受け継がれていった。<もっと詳しく><安政の大獄関係者の志士詩歌> |
密勅降下工作:将軍後継問題と条約調印問題で敗れた水戸藩を中心とする尊攘派/一橋派は、井伊直弼政権打倒のため、孝明天皇に「条約調印と将軍後継指名は違勅であり、徳川斉昭らの謹慎を解いて、慶喜を将軍継嗣・斉昭を副将軍にせよ」との勅書を下すよう朝廷工作を始めた。実際の勅書は表現を緩めたものとなった。 |
<参考文献>
<参考文献> 『逸事史補・守護職小史』・『徳川慶喜公伝』・『昔夢会筆記』・『京都守護職始末』・『会津松平家譜』・『幕末水戸藩の苦悩』・『茨城県の歴史』・『茨城県幕末年表』・『徳川慶喜』・『開国と幕末政治』・『90分でわかる幕末維新の読み方』 |
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