第1章  記念日に……


9月18日……。
ついに、この日がやってきた。

 

 

……私はまた、大切な想い出を手に乗せて眺めていた。
馬の絵が描かれたマグカップ。贈り主は、平賀幸広くんという幼なじみの男の子だ。
このカップは、近所の牧場でお土産用に売っている物で、自分で好きな絵を描くことができるタイプ。馬をこよなく愛する彼が私のために描いてくれた、嬉しい一品だった。
そしてもうひとつ、彼の控えめな性格を表すかのような小さな文字で書かれた、1枚の手紙。元はマグカップの箱に入っていたものだ。
私は、その文面を読み返した。

理絵ちゃんへ

ぼくのことを忘れないでください。
ぼくが無事に騎手になれたら、応援してください。
しばらく帰れないと思います。
でも、5年後の記念日は月曜日なので、その日には何があっても帰るつもりでいます。
5年後の9月18日、午後2時頃……いつもの河原で待っています。
どうか、その日のその時間だけは、予定を入れないでおいてください。
この約束を支えに、つらい試練に耐えていきます。
それでは、その日まで……。

幸広   

……今から5年半前の3月。
私たちが中学を卒業したその月、幸広くんは競馬学校の騎手課程に入学し、この町を出ていった。
競馬学校は全寮制だし、卒業して騎手となったあとは、競走馬のトレーニングセンターで多忙な日々を過ごすことになる。つまり、幸広くんが当分この町に帰ってこないことは、5年半前の時点ですでに決まっていたのだ……。
彼がこのマグカップと手紙をくれたのも、たぶんそれをわかっていたからなんだろう。

……今でも鮮明に覚えている。
丁寧にラッピングされた箱を手渡されたときの、嬉しいとも寂しいともわからない気持ち。同じような感情を映した、幸広くんの綺麗な瞳。ひとりになって箱を開け、マグカップと手紙を見たとき、なぜか涙が出たこと……。

2年半前、幸広くんは騎手として関東所属でデビューした。
同じ頃、私は地元の高校を卒業し、家業のサラブレッド生産牧場の仕事を手伝い始めた。
仕事柄、競馬中継は毎週必ず見ている。彼がうちの生産馬で勝ってくれないかな……とよく思うが、うちが家族経営の小規模牧場ということもあって、残念ながらそれはまだ叶っていない。
このまま、私たちはすれ違いばかりを重ねていくのか……。
そんな思いを感じたとき、私はこのマグカップと手紙を見て、この日が来れば必ず会える……と自分に言い聞かせてきたのだ。

そして、今日がその約束の日。

……9月18日。それが、私たちの「記念日」だった。
といっても、何か劇的なことが起こった日というわけではない。私の誕生日まで9日だけど、それはただの偶然だ。
幼い頃、なぜか「記念日」というものに憧れていた私たちは、自分たちも記念日を作ろうと思い立った。そして、その思い立った日……9月18日を、自分たちだけの「記念日」に決めたわけだ。
私と幸広くんと、あともうひとり。
その3人だけの、小さな、でも大切な「記念日」……。

……時計を見ると、1時半。
そろそろ行った方がいいわね。
私はマグカップと手紙を大事にしまい、家を出た。
普通なら「本当に来てくれるのかな……」とでも心配になるシチュエーションだ。でも、私はそんなことはまったく思わなかった。あの幸広くんに限って、約束を破ることなんかあるわけない。あの河原に行けば、必ずあの頃のままの彼に会える……。

 

 

ここは、北海道桜川郡桜川町。競走馬の生産・育成が盛んな日高地区にある、太平洋に面した町だ。
山が海岸線のすぐそばまでせり出していて、平地部分は少ない。その起伏が馬たちにはいい運動になり、競走能力に好影響を与える……と言われてはいるが、その話の信憑性がどれほどのものかは、この町で21年近く生きた私でもわからない。
町の中心部には桜川という川が流れ、太平洋に注いでいる。名前の通り、川岸には何百本という桜並木が続き、北海道が遅い春を迎える5月中旬には、それは鮮やかな光景が広がる。
私はこの町が大好きだった。でも、その理由の大半は海や川や桜ではなく、生まれてからずっと積み重ねてきた想い出にあるのだろう。
いつも、そう思っていた。

 

 

……想い出の、桜川の河原。
そこでその姿を目にしたとき、それまで思っていたいろんなことは、すべて吹き飛んだ。
ただ、長かった日々がはじけるように、懐かしい名前が口を突いて出た。

「幸広くん……!」

「……理絵ちゃん!」

「うわあ、懐かしいー! お帰りなさーい!」

私は彼に手を伸ばした。
その先に、彼の手が触れた。
そして、昔のように、両手で両手を握ってぶんぶんと振った。
昔から、喜びを示すときに私がやっていた仕草だった。

幸広くんは、最後に見たときよりだいぶ大人っぽくなっていた。男の子は20歳を過ぎると途端に顔つきが変わるというけど、それは彼にも当てはまる説のようだった。
この町では手に入らないようなブランド物の茶色いジャケット。肩に触れるほどの栗色っぽい髪。昔の彼なら服や髪型だけがひとり歩きして違和感だらけだったと思うのに、今はそれらはごく自然に彼の身を包んでいる。私の知らないところでも彼の時間は流れていたのだ……それを思うと、ちょっとだけせつなくなったりした。
でも、見た目がどんなに変わっても、中身は昔の幸広くん。会っただけで、それはわかった。

……5年半ぶりに再会した私と幸広くんは、河原に並んで座り、いろいろと話をした。
しゃべるときは、私が話し役、彼が聞き役。その役割は、どんなに時をはさんでも変わることはなかった。彼の方には積もった話題がないのかな、とも思うけど、私たちはこれでバランスが取れているのだ。
そうして、ふたりだけの時間が流れていく。
普通ならば、これを「幸せ」と感じるのだろう。
だが……今の私たちは、決してそうではなかった。
なぜならば……。

「……彩子ちゃん、来ないな。彼女にも、君に残したのと同じメッセージを渡してあったのに」
「……幸広くん」
「まさか……。実は、ここへ来る途中で知り合いに会って聞かされたんだけど、あれって……本当に本当なのか……?」

「……本当なの」
私は、小さくつぶやいた。

……森下彩子。
私たちの共通の幼なじみで、いつも3人一緒にいた。今日という「記念日」も、3人で決めたものだった。
とてもおとなしい子で、よくいじめられていた。私は彼女を守るために日々いじめグループと対立していたけど、それでも、友達らしい友達は私と幸広くんのふたりだけだった。その背景には、彼女の家もうちと同じ生産牧場で、その生産馬の成績があまりよくなかったという、この地方ならではの醜い事情があったりした。
しかし……幸広くんがこの町を出て半年後になる、今からちょうど5年前の記念日に、彼女は突然姿を消してしまったのだ。
それも、ある物的証拠により、単なる家出による行方不明などではなく、何らかの事件に巻き込まれた可能性が高いとされている……。

……そのとき、私たちの前を、この地域のこの季節にしては珍しく、1匹の蝶が横切った。

「……そういえば、彩子ちゃんって蝶が苦手だったよね」
と幸広くん。
「そうね……。確か、3人で捕まえて逃がすの忘れて、虫かごの中で全部死んじゃったの見てから、だっけ」
「そう。平和だったよな、あの頃は……」

……その言葉から私は、彼が今、何かに疲れているんじゃないかなと思った。
それについてたずねようとした、そのとき……不意に私の携帯が鳴った。
「誰かしら……」
私はすぐに出た。
「はい」

「あ、理絵!?」

母の声だった。何やら慌てている。
「どこ行ったの! すぐ帰ってらっしゃい!」
「ちょっと……何かあったの?」
「うちの当歳が……サンクチュアリの仔がいなくなっちゃったのよ!」

「そんな!」
突然聞かされたその話に、私はただ驚くしかなかった……。

 

 

当歳馬、つまり今年生まれたばかりの仔馬が突然いなくなる……。
それは、数ヶ月前からこの桜川町で問題になっている事件だった。
警察は「盗難事件」として扱っているらしいが、詳しいことはまだわかっていない。

最初にこの事件が起きたのは、奇しくも、彩子の家である森下牧場だった。
続いてこの近辺で最大規模のマーメイドファームが狙われ、次に桜川中央農場。さらにその後3件、この近くの牧場だけが被害に遭っている。
うちのサンクチュアリの仔がいなくなったのもその一連の事件だとすると、うちは7件めの被害者になってしまったわけだ。

……私は今、海岸沿いの国道235号線を歩いてうちに帰るところだった。
幸広くんも一緒だ。
私のことを考えてついてきてくれたのだが、それでも気分は晴れない。

「……私、何だか悔しい。あの仔を守ってあげられなかったこと……」
「こんなこと言ったら失礼かな……」
私がいつになくしょげていると、幸広くんはそっと言った。
「あ、ううん、何でも言ってよ。私とあなたの仲じゃない。遠慮なんていらないのよ」
すぐにいつもの私に戻す。久々にこの町に帰ってきてくれた彼に、元気のないところなんて見せたくない。例え、こんなときでも……。

「あ……もういいんだ。ただ、落ち込まないで笑ってる方が君らしい、って言いたかっただけだから」

幸広くんは真っ赤になって言った。
彼はシャイだけど、照れ隠しはしない。心にあるままのことを、思いっきり照れながら言ってしまう……それが彼だ。
それを知っているだけに、彼の一言の優しさは、何倍にも感じられた。

「……ありがとう……!」


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