理不尽、とはこういう気持ちを言うのだと、私はため息をついた。
なぜ私がこんな目に遭わなければならないのだろう。
一晩中考えても、納得のいく理由は見つからなかった。

今日は西暦2028年12月18日、月曜日。今週一杯で、この競馬界は今年1年の予定を終了する。
その締めくくりのG1レース『有馬記念 -Nakayama Grand Prix-』が、次の日曜日――24日に迫っていた。
有馬記念――日本国内のみならず海外からも強豪馬が挑戦してくる、1年の最後にして最大のG1レース。競走馬に携わる人間ならば誰もが手中にしたいと願うビッグタイトルだ。
五十嵐敏生厩舎所属のゴールドロマネスクという4歳牝馬も、その有馬の舞台に名乗りを上げた1頭だった。
ロマネスクは、デビューからずっと私が手綱を握ってきた馬だ。今年になってから本格化し、夏の新潟では私に初の重賞勝利をプレゼントしてくれた。それからもふたつの重賞を勝ち、その実力と私の名前を日本中に広めた。私と一緒に挑戦したG1レース2戦はそれぞれ3着と5着だったが、それでも牝馬のトップクラスの一角を担っていることは、誰が見ても間違いない。
当然、今週の有馬でも注目されていた。
そして、当然今回も私が手綱を握る――はずだった。

昨日の夜のことだ。
私は五十嵐先生から、とんでもない話を聞かされた。
なんと、今回の有馬ではロマネスクの鞍上を、私ではなく篠崎真理子にするというのだ。
もちろん私は、聞いた直後から反発した。G1制覇は騎手の大きな目標。自分のお手馬でそれが果たせそうなのに、わざわざその馬を他の人間に譲る騎手などいるはずがない。私も騎手である以上、それは例外ではない。さらに、主観を混ぜてもいいのなら「篠崎真理子にだけは死んでも譲りたくない」が私の本音だ。
しかし五十嵐先生は聞く耳を持ってはくださらず、「引退前に真理子にG1を獲らせたい」とおっしゃるばかりだった。
私には何の非もない。確かにG1の2戦は勝てなかったが、それは「展開次第だからしょうがない」と先生も言ってくださった。
それなのに――。

篠崎真理子は、来年の4月で50歳を迎えるという、凄まじいほどのベテラン女性ジョッキーだ。
ついでに言えば――この「ついで」が問題なのだが――私の実の母親だ。
若かった頃から「50歳まで騎手を続ける」と宣言し、本当にその通りに生きてきた。同期の騎手・篠崎剛士と結婚しても、私が生まれても、夫が35歳で騎手を引退して調教師に転身しても、そして――どんなに成績が冴えなくても引退しなかった。
昨日データベースからひっぱり出して確かな数字を調べたところ、30年前の3月にデビューしてから昨日までの通算勝利数は312勝。うち重賞11勝、G1勝ちはない。普通の勝利は1年に10勝、重賞は3年に1勝のペースだ。いかにも少ない。デビュー3年めの私だって今年だけで27勝、重賞を3勝しているのに。
要するに母は、妻らしいことも母親らしいことも何ひとつせずに騎手一筋に生きてきたわりには、実力が伴っていないのだ。
普通なら実力がなければ淘汰されるのが当たり前なのに、それがこの世界の困ったところだった。
ここで成功するために必要なのは、実力よりも要領。いかに厩舎関係者に媚を売り、いい馬をまかせてもらうかだ。母はいろいろな人にいい顔をしてご機嫌を取り、生き延びてきたわけだ……。

そんなだから、私は母が嫌いだ。
私に取材を申し込んでくるマスコミは、必ずといっていいほど母のことを引き合いに出す。「やはりご両親ともに騎手だから、あなたも騎手になられたのですか」とか「女性騎手の可能性を切り開いたお母様を、さぞ尊敬してらっしゃることでしょう」などと聞いてくる。
もちろん私は「はい」とは答えない。向こうが私にそう言わせたがっているのはわかるが、絶対にそんなことは言わない。騎手になったのは自分の意思、尊敬する人は私が所属する厩舎の調教師・長瀬健一先生、といつも答えは決まっている。
父のことは好きといえば好きな方だが、ことあるごとに母の味方ばかりするので、やはり尊敬には値しない。あのふたりを見ていると、「仲よきことは美しきかな」なんて言葉は、海の底へでも沈めてしまいたくなる。
尊敬できない両親を持った私は、中学卒業後に全寮制の競馬学校に入学してからは、一度も実家へは帰っていない。騎手になってからはここ――美浦トレセンの関係者用の独身寮『若駒寮』の4階にある私の部屋――で暮らしている。
私があの家に帰ることは、二度とないだろう。

筋書きでは、母は次の誕生日に「50歳まで現役を続ける」という目標を達成し、そして来年の末に引退する。そうなれば比較されることもなくなり、一安心……と思っていたのだが、その前にこんな事態が待っていようとは思ってもみなかった。
もともと五十嵐先生の父親の厩舎に所属していた母は、彼ら父子とは深いつながりがある。先生は、50歳まで現役を続けたのにG1を勝てなかったなんてかわいそうだからチャンスをあげたい、とおっしゃって、今回の有馬で私をゴールドロマネスクから降ろし、母を乗せることを決めたのだ。
まったく、とんでもない話だ。
G1を勝ちたい気持ちは私も同じかそれ以上なのに、なぜ私だけが可能性を奪われなければならないのだろう。しかも、ロマネスクは私がずっと乗っていた馬なのに――。

不意に窓の外を見ると、爽やかに晴れた12月の朝が広がっていた。空気の冷たさを映した空の青さが清々しい。
それに比べて、この部屋の中だけはあたかも梅雨時のようだ――。
無駄な物が何ひとつない機能的なこの部屋は、普段はひとりでいると実に落ち着くが、今回だけはその効果も期待できそうにない。
そういえば……。
私と正反対の気持ちの人が、少なくともひとりは、今この寮の中にいるのよね。
力は弱いながらも優しげな真冬の太陽が、それを思い出させた。

その「ひとり」の名前は、片山僚。私と同時にデビューした、同期の騎手だ。
物心つく前からその存在も顔も性格も知っているので、同期というより幼なじみといった方が正しいのかもしれない。
私の両親、私のお師匠様の長瀬先生、そして僚の父親の伸おじさんの4人は、もともと一緒にデビューした騎手同士だった。4人とも仲がよく、それぞれの家庭との交流も頻繁にあった。その影響で、私と僚は子供の頃からよく遊んでいたのだ。
僚には母親がいない。彼が生まれるときに亡くなったから、彼や私にとってはいないのが当たり前で、特別な気持ちは湧かない。
だが、当然ながら伸おじさんはそうではなかったらしい。僚が生まれて奥さんが亡くなると、悲しみの中で、彼を育てるために騎手を引退することを即座に決めたそうだ。
今は僚が所属する寺西宏樹厩舎で調教助手をしているおじさんだが、僚や私が10歳になるあたりまでだったか、ずいぶん長いこと育児だけをこなしていた。しかも、近所の子供を何人も預かり、その全員に分け隔てのない愛情を注いでくれた。
――そう。その「近所の子供」の中には、親に構ってもらえない哀れな娘も含まれていたのだ。
そういうわけで、私は自分の両親よりも伸おじさんの方になついてしまった。
僚も成長していくうちにおじさんの気持ちがわかったのか、今ではおじさんを心から尊敬し、「親父みたいな男になりたい」と断言している。

私とほぼ同時期に騎手を志した僚。彼には、その頃からずっと言っていたことがある。
それは、若くして引退し、自分を育ててくれた伸おじさんのために、どうしても騎手になってG1レースを勝ちたいということだ。
その願いを叶えるチャンスが、これまた昨日の夜にやってきた。
寺西厩舎からは、今年のオークス馬・ウィローズブランチ(牝3歳)が有馬に出走予定だ。主戦騎手は本来別の人なのだが、彼が土曜日のレースで落馬負傷したため、急遽、僚がその代役に指名されたというわけだ。
負傷した騎手に申し訳ないと言いながらも、僚は喜びをあらわにし、私を含む仲間全員に電話で教えまくった。その喜びように、私は自分が有馬に乗れなくなった話さえできなかった。

……本当のところを言うと、私には、家族のためにそこまで喜ぶ気持ちは理解できない。
私が変わっているのか、それとも僚が変わっているのか、それは私にはわからない。
が、自分が間違っているわけではないと思う。
僚は無鉄砲で短気で、そのくせお人好しで情にもろく、ちょっとしたことですぐ泣く。頭もあまりいいとは言えないし、実に頼りない。今までの競馬界の歴史から推理すると、まず騎手として成功はしないタイプだ。
が、それは私には関係のないこと。お互いに騎手になった今、幼なじみも何もない。
例え私が何とか五十嵐先生の説得に成功して有馬に乗れることになり、僚との直接対決を迎えたとしても、彼に同情したりは絶対にしない。
どんな手段を使ってでも自分が1着になる、そう考えるだけだ。
それが「騎手」という生き物なのだから……。

……さて。
私は一度伸びをすると、予定を考え始めた。
今日は月曜日。トレセンでは全休日と決められている曜日だ。

何をしようかしら。

 

 

A  行きたいところがある。外出しよう。

B  出かける気分にはなれない。この寮の中で過ごそう。


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