レイラを疑うのは間違っている、私はそう確信した。
そもそも、レイラは泰明くんが甘い物を苦手にしていることを当然知っている。もし彼女が犯人だとしたら、プレゼントにケーキなど選びはしない。これは彼の好みを知らない人間の犯行ということになる。
しかし、彼の好みを知らないのに彼に慕われている人間など、本当にいるのだろうか――。
とにかく、ゆっくりはしていられない。
泰明くんがいなくなったということは、彼はすでに病院送りになったか、あるいは――人為的に病気を流行らせている誰かに捕まって実験台、という可能性もなくはないのだ――。
そのとき、長瀬先生がようやく長い電話を終えて大仲部屋から馬房に戻っていらした。
「あ、先生……あの、大変申し訳ないんですが、もう帰ってもよろしいでしょうか」
どう言っても失礼になるが、私はそれでも早く僚のもとへ行きたかった。
第一、こんな状態で仕事をしても手につかない。私としては信じられない心情だったが、それは認めざるを得なかった。
「ああ、そういえばお前、連絡したときも何か手が放せない感じだったな。無理に呼びつけて悪かった。もう帰っていいぞ。ご苦労だったな」
「ありがとうございます! すみません、失礼いたします!」
先生の返事を聞くやいなや、私は厩舎を飛び出した。
「僚!」
僚の部屋の前まで戻ってきた私は、乱れた心でドアをたたいた。
しかし――返事はなかった。
慌ててノブをまわすと、鍵が開いている。ドアを開けて中に飛び込む。
……誰もいない。
あれほど、どこにも行かないでと言っておいたのに……。
ただひとつ、僚が電話で言っていた「ケーキの箱」らしい物が、放り投げたように無造作に床に転がっていた。
これがここに落ちているということは、一応彼は泰明くんの部屋からここへ戻ってはきていたわけだ。
そして何かがあり、これを放り出して出ていってしまった……。
私は隣の泰明くんの部屋にも行ってみた。
同じように鍵が開いていて、中は無人だ。
そうだわ、携帯!
私はようやくそこに考えが及び、自分の携帯から僚の携帯を鳴らしてみた。
……コールが続くだけで、僚は出ない……。
長瀬厩舎で受けた、僚からの連絡を思い出した。
確か、五十嵐先生も泰明くんの携帯を鳴らし、コールが続くだけで本人が出なかったということだった。
ということは……今、僚は泰明くんとまったく同じ状態にあるはずだわ!
「病院送り」「拉致監禁」「人体実験」……様々な単語が、私の脳裏をかすめる。
……でも、仮にそうだとしても、私以外のいったい誰が僚の病気を知っているというのだろう。
泰明くんには気の毒な話だが、犯人の本来のターゲットは彼で、僚の感染は「不慮の事故」だ。そして、僚はその事実を有馬まで隠し通すつもりで、私以外の誰にも知らせる意思はない。つまり、犯人には僚が感染したことを知るすべはないはずなのだ。
それなのに、僚はどこかへ行ってしまった――。
これを、どう解釈するべきなのだろうか。
3つの可能性が考えられた。
ひとつ――僚自身に何らかの考えがあって自ら出ていき、私の追跡を防ぐために携帯に出ないケース。
ひとつ――僚が何かミスをしてこの建物の中の誰かに病気を悟られ、病院に送られてしまったケース。
そしてもうひとつは――犯人がどういうわけか僚の病気を察知して、彼を連れていってしまったケースだ。
数字的には最後の可能性は一番低いはずなのに、なぜかその確率が何よりも高い気がしてしまう――。
……どうしよう。
私はいったい、どうすればいい……!?
「……真奈!!」
そのとき、部屋の外から私を呼ぶ大きな声が飛んだ。
ドアを開けたまま泰明くんの部屋の中にいた私を、廊下を通ったレイラが呼んだのだった。
「あんた、なんで泰明の部屋なんかに……ううん、そんなことより、大丈夫なの!?」
「大丈夫……って?」
レイラの慌てぶりに、戸惑っていた私もつい冷静になる。
――ところが。
「あんた、ケガしたんじゃなかったの!? さっき、僚がそんなこと叫びながら香先生にひっぱられて飛び出してったけど……」
「香先生!?」
さっきまで、長瀬厩舎でサンシャインを診てくれていた先生だ――。
「私はケガなんかしてないわ! その話、詳しく教えて!」
「詳しくって……あたしもよくわかってないんだよ。たったさっき、僚が『真奈の傷は深いのか!』とか叫びながら香先生に連れられて飛び出してったのを見ただけ。だからあたし、てっきりあんたが落馬でもしたのかと思って、でも今日は月曜だし、なんて考えてたんだ」
じゃあ……香先生は、僚にそうウソをついて彼を呼び出したんだわ!
何のために……。
結論はひとつ。
犯人は香先生で、僚の病気のことをなぜか知って、彼を連れていった……。
――そして私は、その責任が自分にあることに気付いた。
あのときだ……。
私は長瀬厩舎のサンシャインの馬房前で、僚からの電話を取った。彼の話の内容に夢中でつい周囲に気を配るのを忘れていたが……あのとき、香先生もサンシャインの治療のためにすぐそばにいたのだ。犯人ならば、私の返答を聞いていれば、僚の方の声が聞こえなくても、私たちが病気について話をしていたことくらいはわかる。
今からでは詳しくは思い出せないが、私は電話の相手が僚であることにすっかり安心して、「彼が感染している」とはっきりわかる言い方をしてしまっていたのではないだろうか。
近くで耳をすましている人物がいるとも気付かずに……。
……私のせいだわ。
僚……!!
「……真奈! 真奈ってば!」
レイラが私の頬を軽くたたき、悲しみを飛ばして現実に引き戻してくれる。
こうなったら、もうゆっくりとはしていられない。彼女も仲間に加えて、すぐに香先生のいる東屋診療所へ行かなければ!
――そして私たちは、事情を説明し合った。
レイラの方は、泰明くんが消えたという連絡を五十嵐先生から受け、今朝から探しまわっていたそうだ。今は、この部屋のドアが開いていたのを見て、彼が戻ってきたのかと思ってのぞいて私を見つけたらしい。
私は、僚の病気のことやケーキについて推理したことを彼女に話した。病気については誰にも言いたくなかったが、この際仕方がない。
「間違いないよ! 香先生は絶対何か知ってる! 診療所へ行こう! あたしも一緒に行くよ!」
「ありがとう!」
私たちは部屋を飛び出し、寮も飛び出すと、東屋診療所へ向かって懸命に走った――。
診療所は無人だった。が、鍵はかかっていない。今日は完全に閉めてしまった、というわけではなさそうだ。
私とレイラは、人間用の診療室に入った。落馬した場合は馬と同時に人間も加療が必要になるため、馬の診療所にも人間用が併設されている。
とにかく手がかりを探さなければならない。
私は棚のカルテやファイルを片っ端から当たった。レイラは机の近辺を探っている。
……カルテやファイルには、それらしきことは書かれていない。研究しているなら必ずその手の資料はあるはずだが、さすがにこんな不特定多数の人が来る場所には置いていないらしい。
と、思ったときだった。
「ねえ、真奈!」
レイラが普段よりいくらか高い声を上げる。
「どうしたの?」
「ちょっと、こっち来てよ!」
手招きしている。私は言われた通り彼女のそばへ行った。
レイラは机の下にしゃがみ込み、床を見下ろしていた。
「この床板……見てよ」
私も同じようにしゃがんで見ると、彼女が体で作った影の中で、床板のすきまから微かな光がもれているのに気付いた。
「光ってるわ……」
私のつぶやきに従ってかそれとも自分の意思か、彼女はその床板を持ち上げた。
――下に隠れていた階段を、光が駆け上がってきた。
「レイラ……」
「入ろうよ! 絶対何かあるよ! 入っていくっきゃないよ!」
レイラは完全に床板を取り去り、私を真剣な顔で見たが――。
「ちょっと待ってよ! 下に部屋があるのはわかったけど、明かりがついてるってことは、中に誰かいるっていうことよ!」
「誰かって……香先生に決まってんじゃん! だからこそとっとと入って現場を押さえてやろうっての!」
「私たちふたりだけで何ができるっていうの? ここは警察に連絡して、中を調べてもらうべきよ!」
「バカ!」
――まさかそんな言葉を浴びせられるとは思ってもみなかった。
一瞬の屈辱を感じる暇もなく、彼女は優しい口調になって続けた。
「あんた……よっぽど僚が心配なんだね。判断力鈍ってるよ。……警察なんか、はっきりした証拠がなきゃ来てくれないじゃん。連絡するなら、あたしたちが調べて証拠を見つけてからだよ。そうでしょ?」
「……そうだわ」
彼女の言う通りだ。今の私は明らかに判断力が鈍っている。そしてその理由も――やはり、彼女の言った通りなのだろう。
「それに……あたしは、例え中に香先生がいて自分が捕まることになったとしても行くよ。泰明のこと、放っておけないもん。あんただって、もうひとりの親友、放っておくことなんかできないでしょ?」
「ええ」
その答えにためらいはなかった。
「よかった。……まったく、あたしもあんたも、いざとなると結構無鉄砲だよね」
「仲間が助かるなら、そのときの状況次第で無鉄砲にも臆病にもなるわ」
私たちは苦笑いを交わした。
「じゃ、行こう!」
「行きましょう!」
私は力強くうなずいた。
中に入り、床板を閉める。
――そこは部屋ではなく、地下通路のようだった。どこへ続いているのか、遥か向こうに別の階段が小さく見える。
「何ここ……」
思わずつぶやいたレイラは、慌てて口を押さえた。思った以上に声がよく響くことに気付いたのだろう。ここではしゃべらない方が得策のようだ。
私たちは、その長い通路を無言のままに進んだ。方角から考えると、診療所の裏に広がる林の方へ歩いていることになる。
あの林は散歩コースで、少し奥の方では人目を忍ぶカップルなどがデートをしていたりすることもある。
そういえば……。
あの林の中にはひとつ、古いログハウスがある。入口も窓も板張りになっていて誰も入れず、所有者もわからず、トレセンのミステリーゾーンと呼ばれているのだ。
そして、今私たちが遠くに見ている向こう側の階段――あそこは、方角も距離もちょうどそのログハウスにぴったりの位置だ。
もしかして、あれを上るとログハウスの中に出るのだろうか……?
階段の構造が見える位置まで来た。階段の上はハッチになっている。あれを押し上げるとどこか(ログハウスの中?)に出るのだろう。
さらに、ちょうどその地点の右側に、鉄製の物々しいドアがひとつあった。
レイラが近づき、ノブをまわしてみたが、特殊な鍵がかかっていて開かないようだ。
気にはなったが、ドアはひとまず保留しておき、私たちは通路を先に進んだ。
そして階段を上り、ハッチを押し上げる。
もう、行くしかない――。
――そこは、やはりログハウスの中だった。レイラはそれが頭になかったらしく驚いているが、私にとっては思った通りだ。明かりと暖房がきちんとついており、この建物内に生きた人間がいることを再認識する。おそらくは香先生と、僚と泰明くん――。
さて、ここからが問題だ。
香先生はこのログハウスのどこかに必ずいる。しかもここは外から密閉されていて、出入口はこの地下通路しかないはずだ。この部屋の位置を忘れないようにしないと、いざ追い詰められたときに大変なことになる。
……胸は、痛いくらいに高鳴っていた。いつ見つかるか――まるで自分の方が悪いことをしているような気分だ。横にレイラがいなければ、正直なところ耐えられたかどうかわからない。
だが、それでもなお、行かなければならないのだ。
私はレイラを見た。彼女は厳しい表情で、決意を新たにしているようだった。
そして私たちはうなずき合い、忍び足でその「地下通路の部屋」を出た……。
ほこりの積もったフローリングの廊下に出た。「地下通路の部屋」は、本来は玄関だったらしい。
そして、その廊下は数メートル先でT字に分かれていた。
どっちに行こうかしら……。
意見を聞くようにレイラを見ると、彼女も私を見ていた。彼女も迷っていたらしい。何の手がかりもないので当たり前だが……。
私は……。