左に何か重要なものがありそうな予感がする。私の予感は当たらないことで定評があるが、こんなときくらいは自分を信じたかった。
私は黙ったままT字路を左に曲がった。レイラもそのままついてきた。

 

 

――その先には、ドアがふたつあった。突き当たりと右側だ。
正面のドアは閉じられているが、右側のドアは開いたままだ。明かりはついていない。
私はまたレイラと視線で会話し、その右の部屋に入ってみることにした。中が暗いなら、誰もいないはずだ。

中に入って照明をつけると、そこはファイルが大量に置かれた部屋だった。
ファイル……このログハウスそのものが人目に触れない存在なので、ここにある物はみんなかなりのトップシークレットのはずだ。これだけあると、どれから手をつけていいやら。
私が戸惑っている間に、レイラは机の上にあったひとつのファイルを早々と開いて見ていた。私も横からのぞき込もうと思ったが――。
「……ちょっと! これって……」

――そのファイルの内容は、凄まじいとしか言いようのないものだった――。

このログハウスは、東屋隆二先生の秘密の研究室だそうだ。入口と窓を釘付けして地下通路を造り、部外者が出入りできなくしたのも彼だ。
謎の奇病を発見したのも彼だった。……発見も何も、彼自身が一番最初に感染して気付いたという。
原因はなんと、とある種類の「馬の餌」を食べたことだった。東屋先生は研究の時間を作るため、食事に手間暇をかけることを嫌い、手近な馬の餌を口に入れるようなことがよくあったらしい。
ところが、その餌は馬には何の問題もないが、人間が食べると例の病気にかかってしまうそうだ。人間が口にしないものは人体への影響の実験も行われないので、今まで気付かれなかったのだろう。

東屋先生は発病した。彼は当然、未知の病気に研究意欲を見せ、人知れず研究を始めた。
そして、ここがすごい――というかとんでもない話だ。
患者にある薬品を投与することで、この病気の症状のひとつ「体温の極端な下降・上昇」を、患者の指先の一点に集中・強化できる。その結果、体温が下降する男性ならば凍てつく冷気を、体温が上昇する女性ならば殺傷力のある熱線を、それぞれ指先から放つことができるというのだ!
まるで魔法だ――。

その次のページから、筆跡が違う。香先生の字に間違いない。
まともに考えれば、ここまでを調べ上げるだけで少なくとも1週間は経っているはずだ。
とすると――東屋先生は病気で死んだのだろう。
そして、研究を香先生が引き継いだ――。

――ファイルには、東屋先生の行方についての記述はなかったが、香先生が研究を引き継いだことは明記されていた。
香先生は、父親の東屋先生が謎の病気にかかったことやそれを研究していたこと、さらにはこの研究室の存在にもずっと気付かずにいたらしい。おそらくは東屋先生の方が娘に悟らせないようにしていたのだろう。「変わり者だが根はいい人」とは彼に対する私の父の評価だ。こんなダーティーな研究には触れさせたくないと考えても不思議はない。
しかし、香先生は父親の研究を知り、そして引き継いだ。父親が生きていれば反対するだろうから、やはり彼は死んだと考えるしかない。

……香先生の研究は、マッドサイエンティストの域に達していた。
薬を投与した状態の患者の頭にヘッドギア状の装置をつけ、リモコンで自由に操作する方法も開発していた。
もちろん、そんな実験をするには「実験台」が必要だ。彼女はそれも自分で調達してきていた。感染させる方法は、私の推理通り、食べ物に病原体を混入して食べさせることだった。
その必然性から、彼女はターゲットを「自分に自信のない人間」「自分の存在に疑問を持つ人間」などに絞り、親しげに近づいていった。そういう人間は、一度「味方」ができると簡単に信頼するからだ。
泰明くんは「自分の使命は何か」と考え込んでしまうことがあるような人だ。弥生さんも騎手としての自分にはあまり自信を持っていない。さらに運の悪いことに、泰明くんは昨日が、弥生さんは先週の木曜日が誕生日だった。信頼した人からバースデイケーキをもらったら、感謝の気持ちを表して確実に食べる。現に甘い物が苦手な泰明くんでさえ無理に食べようとしたのだから。
そうして感染させた「実験台」の大半は、発病を知ると、自ら香先生を相談相手に選ぶのだという。彼女なら優しく相談に乗ってくれるだろうという期待を胸に、しかし実際はその正反対のことをされるために――。

「……許せない」
憎しみを込めた瞳で、レイラはファイルをにらみつけた。
私もまったく同じ気持ちだった。父が信頼する人の娘だけにショックもあったが、それでも許せない思いの方が圧倒的に大きかった。
「泰明……なんで病気になったとき、あたしのこと頼ってくれなかったんだろう。相談されたってあたしには何もできないけど、なんでよりによってこんな最低な女なんかに……」
が、レイラの怒りの主な理由はそっちだったらしい。僚に相談された私には、慰めの言葉も見つからなかった。
慰める代わりに、毅然とした口調で言う。
「レイラ、香先生を探しましょう。この建物の中にいるのは間違いないわ。ファイルを見たと言えば向こうも動揺するはずよ。勝算はあまりないけど、何かせずにはいられないって気持ち、今、初めてわかった気がするから」
「ラジャー!」
レイラが味方についてくれている。人数は2倍だが、勇気は100倍だ。

 

 

私たちは「ファイルの部屋」を出た。
その右側――廊下の突き当たりの閉じられた部屋が目に入る。
私は何を言うこともなく、そのノブを取って一気に引き開けた。

またしても、中は真っ暗だった。
だが――何か、懐かしいような匂いがする。

これは……まさか!

そう思ったときだった。
突然入ってきたドアが閉じ、廊下の明かりが遮断された。室内は完全な闇に包まれる――。
「ちょっとレイラ、スイッチ探してるんだから閉めないで」
「あたしじゃないよ! ……って、え?」

――その現実は、闇の中からやってきた。

「ようこそ」

背後で冷たい女の声がして、同時に部屋にまぶしさが戻る――。

 

 

「……僚!!」
――私は、真っ先にそう叫んでいた。

僚がいる。
私たちの前3メートルほどのところで、よくできた等身大の人形のように、僚が棒立ちになっている。
彼は、自分の足で立っているにも関わらず意識がなく、微動だにしない。
そして、私の手で染めたあの頭には、無骨なヘッドギアが――。

「あ……あんた……!」
レイラが叫ぶと、声の主――香先生は、私たちと僚の間まで出てきて不敵な笑みを浮かべた。それはあたかも、私が彼に飛びつくのを防ぐためであるかのように。
「思っていたより遅かったみたいね。私の研究所は魅力的だから、つい長居したくなるのかしら?」
「お、思ってたよりって……まさか、あたしたちが」
「ここに不法侵入していたこと? とっくに知っていたわよ。秘密の研究所なのに、防犯カメラのひとつもついてないはずないでしょ」

――完敗だ。
私たちが入ってきたことも、隣の部屋でファイルを見つけたことも……おそらく彼女はすべてリアルタイムで見ていたのだ。これで、ファイルの内容を見たことを武器にする作戦は無効になってしまった。
しかも、私たちがすべてを知ったことに慌てている様子もない。
彼女は、私たちを生きてここからは出さないつもりだ――。

「あなたは、なぜこんなことをするの?」
私はたずねた。恐怖に支配されてすくみ上がっていると思わせることだけは避けたかった。
「あなた、字が読めないの? さっき見たファイルに書いてあったでしょ」
憎らしい口調で、香先生は私たちを挑発する。が、私も負けてはいない。
「あれだけじゃ説明不足よ。東屋先生は……あなたのお父さんはどうなったの? あなたが研究を引き継いだ本当の理由は何?」
「……父は病気にやられて死んだわ。父親らしくはなかったけど、優しくて大好きだった……そんな父がしていた研究を継いで完成させたいと思うことの、どこがおかしいの? ……ああ、あなたには親を慕う気持ちはわからないんだったわね」
いちいち気にさわることを言うが、確かに私にはそんな気持ちはわからない。私は、こんな女よりも感情が乏しかったというのだろうか……。

「あんただって、親を慕う気持ちなんかわかっちゃいないよ!」
そのとき、レイラが横から加勢してくれた。
「僚は父さんのためにG1勝つのが夢なんだよ! それがやっと今週叶うかもしれないって喜んでたのに、こんな病気にかかって……。あんたに親子の気持ちがわかんなら、僚までここに連れてきて実験台になんかするわけないじゃん!」
さすがレイラだ。私では感性の不足で言葉にできないことを、的確にぶつけてくれた。
ところが。

「競馬界人の夢なんか、大嫌いよ!」

香先生は僚の前まで歩いていき、そこのテーブルに置いてあった何かの装置を手に取った。
「優しさも思いやりもない。あるのはプライドばっかり、求めるのは刹那的な快楽ばっかり。私はそんな競馬界人が嫌いだし、あいつらが見る夢なんか消えてなくなればいいと思ってるわ! 父の研究を利用してこの競馬界をたたきつぶす、それが私の夢なのよ!」
彼女は感情的に叫びながら、装置のボタンをひとつだけ押す。

「そんな夢、実現させはしないわ!」
芯に強いものを持っているつもりで、私は叫び返した。
「私たちはあなたの陰謀を世間に公表する! 僚は私たちが連れて帰るわ! 例え治らなくても、モルモットにされてるよりましよ!」
私はそう思っていた。きっと僚も、そう思っているだろう――。

「残念だけどね、返すわけにはいかないわ。ちょっと調べた結果、片山くんは今まで連れてきた誰よりも強い力を持っているんだもの。信じられないなら、見せてあげるわよ」
ところが、香先生は声を落ち着けてそう言い、装置を操作した。
すると――僚の両腕が機械的に持ち上がり、そして――。

「……きゃあ!」

――凄まじい音と冷気が、私とレイラの間の空気を切り裂いた。
私たちに当たることはなかったが、狙いがそれた冷気は壁に当たり、そこを一瞬にして氷結させた――。
研究は、本物だわ――。

「いかが? ……さて、自力でこんなところまで来たあなたたちの努力は認めてあげたいけど、ここの秘密は守られなきゃいけないの。悪いけど、彼の冷気攻撃を受けてもらうわ」
「何ですって……!?」
やはり、生きたまま返すつもりはないらしい……。
「ふざけんじゃないよ! あたしたちを甘く見ると、ただじゃすまないよ!」
――子供の強がりのように叫ぶレイラのすぐ横を、2発めの冷気が駆け抜けた。

香先生に操られ、僚の冷気攻撃が連発する。武器も盾も持たない私たちには、逃げまわるしか手段がない。
だが、私にはひとつの考えがあった。人間は、基本的に背後の相手を攻撃することはできないはずだ。だから、何とか僚の後ろにまわり込み、背後から両腕をつかんでしまえば――。
しかし、よけるのに精一杯で、とてもそんな余裕はなかった。

そのとき。
「……僚! 目を覚ましな!」
なんと、一瞬のスキを突いて、レイラが僚に飛びかかったのだ!
そして、次の冷気が吹き出される前に、彼の頬に平手打ちを食らわせる……。

「あんた……真奈が大事なんでしょ!? 大切な人にそんなことするなんて、悲しすぎるよ! 操られてたって、それくらい気付きなよ!!」

レイラ……!
そうだ。操られていても、支配の奥にある僚の心は彼のままかもしれないのだ。
なぜ、その可能性を考えつかなかったんだろう。
「無駄よ。彼にはあなたの言葉なんて届いてないんだから」
香先生は無情に言い放ったが、私は信じた。
僚には心がある。
私たちがここにいることを、理解してくれている。
きっと彼も、私たちに冷気を当てないように、懸命に自分の体と闘ってくれているに違いない――。

僚が私の方を向かされる。彼の両腕が持ち上げられる。冷気のすべてがその指先にたまっていく。
そして、放たれる――。
私はそれを避けながら、思わず目をつぶってしまっていた。
すると。

「……いやあっ!」
聞こえたのは、香先生の悲鳴だった。それを理解するやいなや、目を開ける。
――彼女は、右手で左腕を押さえていた。持っていた装置は、私のすぐそばの床に落ちている。
僚の冷気が、彼女の腕に当たったんだわ!
コントロールが狂ったのか、それとも本当に彼には意識があって、彼女に当ててくれたのか。
それを考えるのは後でいい。すかさず私は装置を拾い、手近な壁に向けて力一杯投げつけた――。

……!!

装置が砕け散った。
そして――僚はその場に倒れ込んだ。
操りの糸が切れたんだわ!

「僚……!」
私は僚に駆け寄り、彼の前にひざまずいて、その体を強く抱きしめた。
悲しいほどに冷たい体。
でも、その奥の熱い心は、冷めることなく鼓動し続けていたのかもしれない――。

「観念しな! あんたはもうおしまいだよ!」
香先生を前にして、レイラは大声で叫んだが――。
「あなたたちも私と一緒に終わるのよ! これをごらんなさい!」
香先生は、なんと近くのテーブルの影から、同じ装置をもうひとつ出して手に取った!
「出てきなさい、谷田部弥生!」
……弥生さん!?
驚いたときには、すでに部屋の左側にあるドアが開いて、そこから名前の通りの女性が出てきていた。
色が抜けきり、すでにプラチナブロンドになった髪の弥生さんが――。

彼女もまた、さっきまでの僚と同様、リモコン操作によって腕を持ち上げた。
そして――。

「うわあっ!!」
僚が叫び、しがみついたままの私ごと飛び退いて、その炎攻撃をかわした。
だが――炎は冷気とは違って、かわせばそれで終わりというわけにはいかなかった。
なぜなら、誰にも当たらなかった炎が行き着いた先は、木造のログハウスの壁だったからだ……。
「うふふふ……あなたたちもみんな道連れよ。先に地獄で待ってるわ……!」
香先生は弥生さんを操っていた装置を床に落として壊し、そのままそこに寝転がって目を閉じた。

――彼女は、このまま死ぬ覚悟なのだ。
そして同時に、私たち4人全員、さらにはファイルや証拠のすべてを炎に包んで、この世から永遠に消してしまおうとしている――。

「……ごめんなさい! 私……私、こんなことして……どうしたら……」
我に返った弥生さんは、口を両手で押さえながら震えて座り込んでしまった。彼女の目は、今や壁全体に燃え広がろうとしている「自分の放った炎」を虚ろに眺めているばかりだ……。
「後悔している暇なんかありません! 立ってください!」
私は彼女の肘のあたりをつかんでひっぱり、立ち上がらせた。
「早く逃げようぜ!」
すっかり自分の体を取り戻した僚が、こんな場所に長居は無用とばかりに、廊下に通じるドアに飛びつく――。
「待って!」
だが、私は彼を呼び止めた。
「何だよ!」
「まずいのよ! さっき見つけたんだけど、この建物内にはこれまでの研究の成果が全部残ってるの! このままここが焼け落ちたら、証拠が全部消えちゃうし、病気の治療法があったとしても闇の中になっちゃうわ!」
慌てて理由を説明すると、僚はもちろん、一緒に逃げの体勢に入っていたレイラと弥生さんの足も止まった。
「香を一緒に連れて逃げたところで自白するとは思えないし……何とかしてこの炎を消さなきゃいけないってわけか!」
その通りだ。
だが、ここには消火の助けになるようなものは何ひとつない。おまけに炎の勢いはますます激しくなり、煙も濃くなり始めている――。
どうしよう……!

「俺にまかせろ!」
突然、僚がそう叫んで、自分の両腕を高く掲げた。
私にはわかった。
彼は、操られてなくても手から冷気を出してあの炎を消せるかもと考えて、それを試そうとしているのだ。

だが――それがわかると、今度は一転して不安になってしまった。
本当にそんなことができるのだろうか?
私は、装置が壊れてコントロールから逃れたとき僚が倒れ込んだことを思い出した。
あの冷気放出は、相当に体力や気力を使うのではないか。
さっきは別の力に支えられていたから何発冷気を放っても立っていられたが、何の支えもなしに放ったら、今度こそ体力や気力を使い果たして一歩も動けなくなってしまう……そういう可能性だって、ないわけではない。
そんなことになるくらいなら、証拠物件が焼けてしまうのを覚悟で、香先生も含む全員で(治療法があった場合に吐かせるためだ)一斉に逃げた方がいいのではないだろうか?

私は……。

 

 

A  僚を信じて、そのまま彼を見守っていた。

B  僚を止め、全員で逃げるべきだと自分の意見を言った。

C  隣の部屋から、ファイルを持てるだけ持ち出して逃げるべきだと思った。


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