俺は、自分の部屋で月曜日の朝を迎えた。
この競馬界では、月曜日が1週間の始まり。それは、遠い昔から決められている「常識」だという。
競馬開催を基準に考えると、今週が今年最後の「1週間」ということになるだろうか。
2028年12月18日、月曜日。ここは、美浦トレセンの独身寮『若駒寮』の一室。
目覚めはあまりいいとは言えなかったが、昨日の夜に所属厩舎の寺西宏樹先生に聞いた朗報が、見たばかりの夢のようにこの身にまとわりついているせいだと思えば、それも気にはならない。
次の日曜日に開催される、今年最後のG1レース『有馬記念 -Nakayama
Grand Prix-』。
いつの頃からか国際招待競走になり、いつの頃からか距離が2000メートル(以前は2500だった)に短縮になり……いろいろ変わった点はあるものの、1年の最後に行われるG1、そして優勝者にはそれに相応しい名誉が与えられることは、これまた遠い昔から変わっていない。
そんな素晴らしいレースに騎乗できることが、昨日決まったのだ。
今年のオークスを制覇したウィローズブランチという3歳牝馬が寺西厩舎にいるのだが、主戦の先輩ジョッキーが一昨日のレースで落馬負傷し、有馬への騎乗が不可能となった。そこで、寺西厩舎所属の俺にその代役がまわってきたってわけだ。
事情が事情だけに、大手を振って喜んじゃいけないのかもしれない。
だが、嬉しさは隠せなかったし、隠すつもりもなかった。
俺の親父・片山伸は、昔は俺と同じくジョッキーをやっていた。
1年に15勝できるかできないかの成績ではあったが、それでも決してめげることなく、いつか重賞を、そしていつかはG1のタイトルを獲ろうと懸命に努力する姿は、当時のトレセン関係者の誰からも一目置かれていたという。
ところが……俺が生まれたとき、親父のジョッキー生命は唐突に終わった。
妻(要するに俺のお袋だ)を亡くし、育児を他人まかせにはできないからと、自ら引退を決意したのだ。
……だから俺は、親父には頭が上がらないし、親父が大好きだ。いい年した男がファザコンかよと笑う奴もいるだろうが、構うもんか。親父が俺のために自分の夢をあきらめたんだから、俺は親父のために一流ジョッキーになり、親父に勝利を捧げ続ける。それこそが俺の存在理由。「親孝行」なんてご大層な言葉は必要ない。俺はそのために生まれてきたんだから。
そういえば……。
横になったまま天井を見上げ、そして何の前触れもなく気付いた。
有馬に乗るってことは、真奈との直接対決にもなるわけか。
ライバルとはいえ、あいつと戦うなんてちょっと心苦しい気もするな……。
だが、どんな気持ちになろうと、手加減は抜きだ。親父のために……そして、真奈のためにも誠実でありたい。
篠崎真奈。
俺の幼なじみの女で、同期のジョッキーでもある。
悔しいことに、重賞制覇では先を越されてしまった。パートナーは、五十嵐敏生厩舎の4歳牝馬・ゴールドロマネスク。夏に新潟記念を制したのを皮切りに、G3やG2を連勝。秋の一連のG1シリーズでは惜しくも3着が最高だったが、有馬でもかなりの人気を集めると予想されている。つまり今度の有馬は、俺の重賞初制覇だけでなく、真奈のG1初制覇もかかってるってわけだ。
物の見方が歪んでいる連中は、真奈のことを「いい馬に乗せてもらってるから、活躍できて当たり前」などと評する。
だが、俺はそうは思わない。あいつにはジョッキーとしての天性の素質があるのだ。これを言うと本人は嫌がるが、何しろ競馬界では初の「両親ともにジョッキー」のジョッキーなんだから。
真奈の親父さんは、今は調教師をやっている篠崎剛士先生。お袋さんは、なんと50歳を前にして今なお現役ジョッキーの真理子おばさん。ふたりとも古くは俺の親父と一緒にジョッキーデビューした仲間だから、昔から俺のことをよくかわいがってくれた。これだけのお膳立てがそろえば、俺と真奈が幼なじみとして仲よくなるのもごく自然なことってもんだ。
……真奈は、顔ははっきり言ってかわいい。だが、性格はあんまりかわいいとは言えない。
とにかく何を言っても暖簾に腕押し、糠に釘。物事に対するリアクションが乏しすぎるのだ。怒ることは滅多にないが、笑うことも滅多にないんじゃどうしようもない。「何々は好きか」と聞くと答えは大抵「嫌い」だし、理性的っていうのか「思い入れ」が大嫌いだ。俺みたいな感性で生きてる人間と友達関係が続いていること自体、奇跡に近いと思う。
それはやっぱり、俺があいつを好きなせいなのか?
あいつには、放っておけない何かがある。あの表情のなさが暗に何かを訴えているようで、1日たりとも目が離せないのだ……。
……さて、いいかげん起きようか。
俺は真奈のことを頭から追い払い、ベッドから起き上がった。
月曜日は、トレセンの全休日。
何をして過ごそうか?
B 目覚めが悪かったせいか、どうもすっきりしない。寮の中で過ごそう。