第1章 ゲレンデにて


麓のレストハウスの中、ぼくはひとり闘っていた。
……相手が相手だけに、世界中で最も情けない闘いかもしれない。
ぼくは、ソフトクリームの正式な食べ方というやつを知らない。普通は上から順に攻めていくのだろうが、そうすると下のコーンが残ってしまう。後でそれだけをパリパリと食べるのは何か虚しい。かといってコーンから食べれば上のクリームが落ちる。ゆえにぼくは、いったいどこから攻め入ったものかと悩むのだ。
時間をつぶすためだけの目的で注文したソフトクリームだったけど、なんでこんなの選んじゃったんだろう、としか今は思えない。
黄色い声をキャーキャー上げる女子高生たちは、どこから手(というか口というか)をつけていただろうか、とぼくは思い出そうとした。が、ぼくには彼女たちを観察するような趣味はないので、思い出せなかった。
とか何とか考えてるうちにも、クリームは強力な暖房にさらされて溶け始めていた。それが何だか「お前になんか食われてやるもんか」という自己主張のように感じられて、ぼくはやけになって、どこからというわけでもなくかじりついた。
クリームは流れて身をかわし、ぼくの手を汚すことに簡単に成功した。
……どうやらこの闘いは、ぼくの負けに終わったようだ。
やれやれ。

ぼくはカウンターにあった紙ナプキンを取ってそいつを始末すると、ガラス越しにゲレンデを遠く見つめた。
ああ、真理は今頃上級コースをすいすいと滑ってるんだろうな――こんな気分のときにそんなことを考えると、この世に存在するすべてのことに関して自信を失ってしまいそうになる。
真理はスキーの上級者、一方のぼくは超がつくほどの初心者。ぼくを自分と同じくらいにまで上達させようとしてくれたのはいいのだが、ぼくの飲み込みが遅いせいか自分が短気なせいか、彼女は午後になったあたりでぼくにさっさと見切りをつけ、ここで待ってて、と残してひとりで上級コースに行ってしまったのだった。
でも、虚しいながらもぼくはいやな気持ちではなかった。スキーに誘ってくれたことだけでも嬉しいし、あの冷たさもまた彼女の魅力なのだ。
……あばたもえくぼ、という言葉はひとまず置いといて、だが。

ぼくはゲレンデから少し視線を上にずらし、グレイに曇った空を見た。
何だか雲行きが怪しい。早くペンションに戻った方がいいんじゃないかとぼくは思った。戻りたいという気持ちとはまた別に――いや、戻りたいのは事実だった。ゲレンデではぼくの活躍は望めそうもない。それが実は一番悔しかった。

 

 

真理が戻ってきたのは、それから30分ほどしてだった。
「お待たせ。どう? 見てるうちにもっともっと滑りたくなったでしょ」
「全然」
ぼくは素っ気なく答えた。
「何よ、その言い方。かわいくないわね」
「かわいくないわねったって……だって……」
どう文句を言おうかと考え始めたところで、ぼくは雲行きのことを思い出した。
「そうそう、天気が悪くなりそうじゃないか。吹雪にでもなったら大変だよ。もうそろそろ帰った方がいいんじゃないか?」
もっともらしく空を指差しながら言ってみる。吹雪になるかどうかなんてのは、東京生まれのぼくにはわからない。ただ、帰る理由のこじつけにさえなればどうでもよかった。
が、真理は意外なほど素早くそのセリフに反応し、同じようにグレイの空を見上げた。
「そうね……。残念だけど、今日はもう帰りましょ。練習はまた明日ね」
「うん」
今夜吹雪になって、明日になっても止まなかったら、暖かいペンションの中で真理と1日過ごせるのだ……ぼくは、そんな自分にばかり都合のいい想像をしていた。
でも、それを責めるやつがいたら怒る。絶対に怒ってやるのだ。

 

 

小林真理。
大学で知り合った、ぼくのガールフレンドだ。
通常、ガールフレンドという言い方は多少「恋人」のようなニュアンスを含むものだが、ぼくたちはまだとてもそんな間柄ではない。
でも、彼女は実際ぼくの「女友達」であるわけだし、いつか恋人になりたいという希望も込めて、そう呼ぶことにしよう。
整った美しい顔に長い黒髪、抜群のスタイル、明るさ、そして意外なところに隠れている優しさが魅力の、恋人にするには文句のない女の子だ。
ただひとつ――ちょっと協調性に欠ける一面がある以外は。
一方、ぼく「矢嶋透」は、童顔で背もあまり高くなく、当然足もそれに比例して長くなく、さっきから醜態をさらしているようにスポーツマンでもなく、さらに人からは「プライドばかり高くて意地っ張りなくせに、いざとなると勇気ないのな」などとよく言われる、どうにも救いようのないやつだ。
このぼくがあの真理と一緒にスキーに来ることができたのは、ぼくのアタックのしつこさの賜物だろう。
でも、その影には、それをしつこさと解釈しないで優しく接してくれた真理がいるのだ。

ぼくは真理のことが好きだが、彼女の気持ちはまだよくわからない。
が、こうして誘ってもらえた以上、少しは期待してもいいのかもしれない。

真理の叔父さんの小林二郎さんという人が長野県の白馬でペンションを経営しているのだが、少々ゲレンデから遠いために、シーズン中でもあまり客がないという(もっともこれは、ぼくたちに気をつかわせまいと小林さんがそう言っただけで、実際は閑古鳥が鳴いてるような状態ではなかったのだが)。それで、格安の値段で泊めてもらえるから行かないか、と彼女に誘われたのだ。
ぼくにはスキーの経験がまったくなく、それだけが少し不安だったが、真理との仲を進展させるいいチャンスになることは間違いない。そう思って、喜び勇んで承諾した。

そしてぼくたちは昨日――12月21日から、4日間のスキー旅行に来たのだった。


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