第2章 ペンション『シュプール』


小林さんから借りた4WDでペンションに帰り着く頃、ちょうどぼくたちを歓迎するかのように雪がちらつき始めた。
このペンションは『シュプール』という名前で、経営者は小林さんと奥さんの今日子さんのふたりだ。外側はログキャビン風にすべて木で仕上げられ(自然の景観を損ねないように、とのことらしい)、内装は清潔感が漂う白というおしゃれな建物だ。
ペンションには大抵何か独特の看板があるものだが、それはここも例外ではなかった。小林さんの作る食事はとにかくおいしくて、量も充分満足がいく。この料理が目的でここにやってくる人も多いそうだ。
さらに、小林夫妻だけでなく他のスタッフもみんな気さくでいい人たちで、ぼくはすっかりこのペンションが気に入ってしまった。
ここでずっと豊かな自然に囲まれて暮らしていたい、他人の表情をうかがいながら生きていかなきゃいけない都会にはもう戻りたくない、という気にさえさせる。
だから、吹雪で閉じ込められてしまえば……というのはまんざら大げさでもなかったのだ。

 

 

「お帰りなさい」
玄関を入ると、小林さんが温かい声で迎えてくれた。彼は少し小柄ではあるが、あふれるばかりの優しさと、それを支えられるだけの強さを持っているナイスミドルだ。
「ただいま」
真理に続いて、ぼくもあいさつをして上がる。
「透くん、スキーはどうだったかな?」
「全然だめよ。こんな才能ない人って初めて」
ぼくより先に、疲れたような表情で真理が答えてしまった。きっとぼくも同じような顔をしていたのだろう。
が、ぼくは玄関の横に掛かっていた鏡をのぞき込み、あえて表情を悔しそうなものに変えた。
――絶対、帰る日までにまともに滑れるようになってやる。
ぼくは、鏡の向こうの自分にそんな決意を投げかけた。
「そうかそうか。でも、がっかりすることはないよ、透くん。最初は誰でもそんなものなんだから」
「……ええ、また明日もがんばります」
真理はとんでもないが、小林さんは何も悪くない。ぼくは彼の方に向き直り、笑顔を返した。作り笑顔になってしまうのは避けられなかったけど。
「明日、滑れればいいんだが……」
「え?」
白いスキーウェアの上着を脱ぎつつ、真理が不思議そうな声で返す。
「予報では、これからひどい吹雪になるそうなんだ。しかも今夜一杯続くらしい」
「そんなあ……」
やった、とぼくは心の中だけで小躍りした。
「……まあ、天気は人間の力じゃどうにもならないよ。それより、早く着替えてまたここに下りておいで。じきに夕食になるから」
「はーい。透、行こうよ」
心から不満そうな声を出して、真理がぼくを促す。ぼくは笑みを押し込めつつ、彼女の後を追って2階へと上がった。

 

 

ぼくと真理の部屋は残念ながら別々なので、それぞれの部屋に戻って着替えた後、1階の玄関脇にある談話室(といってもひとつの部屋ではなく、実際には玄関ホールのようなもの)で落ち合うことになった。

ぼくが着替えを終えて下りてくると、そこには真理だけでなくたくさんの人が集まってきていた。
女の子の3人組、小太りでハゲの中年男性、30代半ばほどの細身の女性。

「あ、あなたが透さんね? どうも、あたし渡瀬可奈子っていいまーす。よろしくね」
真理の隣に座るやいなや、女の子3人組のひとり、ボディコンを着て長い髪をソバージュにしたかなり派手めの子が、ぼくにそう話しかけてきた。どうやら、すでに真理がぼくの紹介までしておいてくれたらしい。
「あ……どうも。矢嶋透です。よろしく」
どうもぼくは、いろんな面で受け身にまわることが多い。時折、そんな自分がたまらなくいやになるのだが、今はそんなことを考える場面じゃない。ぼくは情けない自分を押し込め、楽しい雰囲気に同化しようと彼女に笑顔を向けた。

「わしは香山誠一や。こっちは女房の春子。よろしゅう頼んまっせ」
外見からある程度予想していたような関西弁で次に声をかけてきたのは、中年男性。彼の紹介を受けて、隣の細身の女性が恭しく頭を下げる。
……正直、とても夫婦には見えない。実際、香山さんのセリフを聞くまで、彼とこの春子さんが連れだということさえ感じられなかった。どう見ても春子さんは香山さんより10歳以上は年下だし、そうでなくても彼とはまるっきりタイプが違う。
しかし、それを言うなら、この女の子3人組だってみんなタイプが違っている。
ボディコンの可奈子ちゃんを除くふたりは、メガネをかけたまじめそうなショートソバージュの子と、少女趣味なピンクのワンピースを着たおかっぱ頭の子。
価値観の違いでケンカになることとかないのかな……ぼくはつい、そう思ってしまった。

「透、こっちは河村亜希ちゃんと北野啓子ちゃんよ。そっちの可奈子ちゃんと3人で同じ会社のOLなんだって」
最初の可奈子ちゃんと違って彼女たちふたりは多少控えめなのだろう、自分から話をしなかったので、真理が紹介をしてくれた。
それを聞いて、彼女たちはようやく口を開く。
「どうも、河村亜希です」
「あたしは北野啓子。よろしくね」
メガネの子が亜希ちゃん、ワンピースの子が啓子ちゃんだった。ぼくはもう一度「矢嶋透です、よろしく」と頭を下げた。

「ねえ、透さん。スキー上手なんでしょ?」
一方、積極性の塊みたいな可奈子ちゃんは、どんどんぼくに話しかけてくる。
「いいえ、まったくだめです。今日始めたばっかりなんですけど、どうも向いてないみたいで……」
真理に言われるより早く、ぼくは真実を答えていた。他人の前では、やはり真理に才能のなさをぼやかれる場面なんか見せたくない。男の意地だ。
「なあんだ。……でも、正直な人ね。ちょっと気に入っちゃった」
「えっ?」
「名刺あげるわ。よかったら連絡してね」
可奈子ちゃんは誘惑するように胸のあたりからピンク色の名刺を1枚取り出し、ぼくに差し出した。
断れずに受け取ると、それは最近街でよく見かける名刺の自動販売機で印刷した物だった。彼女らしく、あちこちにハートマークなんかがくっついている。書いてあるのは彼女の名前と住所、電話番号だけで、会社の名前などはない。色と柄から簡単に想像はついたが、営業用ではなくプライベート用らしい。
彼女はぼくと真理を恋人同士だとは思わなかったのだろうか。いや、きっと作った名刺が気に入ってて、誰彼構わず渡したいのだろう。
「まあ、積極的なのね」
そんな可奈子ちゃんを見て、香山さんの奥さん、春子さんが控えめに微笑んだ。彼女を見ていると、自分から声を出すことなど決してないように思えるのだが、さすがにそうではなかった。
「若いさかいな。……若いって、ええもんやなあ」
その隣の香山さんが、遠い昔を思い出すようにつぶやく。
「若い頃は何日徹夜しても平気やったし、会社に忍び込んだ泥棒ひっ捕まえたことかてあるわ。あの頃はガードマンなんかおらんでも大丈夫やて、誰からも尊敬されとったわ。がっはっは」
……と思ったら、今度は豪快に大笑いを始めた。が、ぼくは他人の昔の武勇伝を聞いて喜べるほど心が広いわけじゃない。
「そうそう。透、香山さんは楽しい人だけどね、これでも社長さんなのよ」
「あ……それはまた、どうも……」
何がどうもだかわからないが、そんな言葉が口を突いて出た。
「せや、真理ちゃんの言うた通りや。わしの会社は大阪のK商事ゆうて、中小企業やけど実力主義や。実力さえあれば、学歴も年齢も関係あらへん。透くんも、明日までに何やわしの目に留まる実力見せてくれよったら、歓迎したるで」
「そ、そうですか。それは……」
お優しいことで。残念だけどぼくはまだ学生だ。大阪で働く決意なんてそうやすやすと固められないよ。……と言いたいが、言わないでおこう。

そのとき、談話室の壁に掛かった木製の鳩時計が1回鳴いた。
思わずみんなが、時間を確認しようとそっちを向く。6時半だった。
それとほとんど同時に、食堂の横にあるキッチンのドアが開き、中に掛けられた暖簾を押し分けて大柄な若い男が出てきた。
泊まり込みでバイトをしている、学生の久保田俊夫さんだ。ジーンズとトレーナーの上にビールの広告が入った紺のエプロンを着け、長い髪を後ろでひとつに結わえているので、そのスポーツマン体型とは逆に、妙に家庭的な印象を受ける。
「夕食の準備が整いましたので、食堂の方へどうぞ」
俊夫さんは二枚めの顔に少しキザっぽい笑みを浮かべ、左手を後ろに差し伸べて食堂のドアを示した。そんな様子は、今度はホストのようだった。
「はーい」
OL3人組のひとり、ワンピースの啓子ちゃんが真っ先に返事をした。なるほど、確かにスキーより食い気といった感じの体型をしている。……というのは少々失礼か。
ぼくたちも彼女に続いて返事をすると、7人でそろって食堂へと足を運んだ。


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