第4章 遅れてきた客
春子さんのことやあのサングラス男のことなどがあり、不穏な空気を感じていたぼくだったが、談話室のソファーに真理と並んで座り、OL3人組とたわいのない話をしているうちに、そんな空気も気にならなくなった。
香山さんとスタッフの4人が、2階から下りてきた。
香山さんはソファーに座り、スタッフたちは夕食の片付けのためにキッチンへと消える。
「香山さん、奥さんは大丈夫ですか?」
さっきの騒ぎを談話室で聞いていたのだろう、可奈子ちゃんがそうたずねた。
「ああ、大したことはないようや」
そう答えながらも、やはり香山さんは小林さんの衛生管理を疑っているように見えた。
ぼくは、何かそんな彼の不機嫌さをカバーできる話題はないだろうかと考え出したが、どうもいいものが浮かばない。
そうして何分か経った頃、窓の外から車のエンジン音が聞こえてくるのに気付いた。
「あれ? 車の音……」
ぼくは窓から外を見ようとしたが、外の暗さと中の明るさ、それに吹雪のせいで全然見えない。
「さっきみどりさんが言ってた、もうひとりのお客さんじゃないかしら」
真理がぽつりと言う。
ああそうか、とぼくは納得し、無事に着けてよかったな、と思った。吹雪になれと思っていたことの穴埋めかもしれないけど。
エンジン音はペンションの裏手の駐車場で消えた。
しばらくすると、そこからペンションの横を通って玄関ポーチまで足音が連続し、やがてチャイムの電子音が響いた。
「はーい」
ハスキーな返事が聞こえ、キッチンからみどりさんが出てきた。そして玄関に行って、出迎えのポーズを取る。
ぼくたちは、自然と全員が、二重になった玄関のドアを見ていた。
そのドアを開けてぼくたちの前に姿を現したのは、もじゃもじゃの髪とあごひげが特徴的な、山男風の大柄な男性だった。
山登り用と思われる巨大なリュックを背負い、手には何やらジュラルミンケースを持っている。
「ペンション『シュプール』にようこそ! 美樹本洋介様ですね?」
「そうですそうです! ああ、助かったあ!」
美樹本さんと呼ばれたその山男は、叫ぶような大声で言ってうなずき、髪や肩に積もった雪をバタバタとはたき落としてから上がってきた。
それとほとんど同時に、キッチンから小林さんがやってくる。
「ようこそ。私がオーナーの小林です。吹雪の中、大変だったでしょう」
「ええ……もう、遭難するかと思いました」
「それはそれは……。さあ、まずはフロントで記帳をお願いします」
小林さんに促された美樹本さんは、リュックを下ろし、白いボアのついたブラウンのジャンパーを脱いでから記帳を始めた。下に着ていた同じ色のベストと、さらにその下の赤いチェックのネルシャツが、余計に山男の印象を強いものにしている。
「お食事の時間は過ぎてしまったんですが、おにぎりのような物でしたらお作りできます。いかがでしょう?」
「おにぎり? いただけるんですか? そりゃありがたい! くださいください!」
記帳する手を止め、美樹本さんはフロントの中の小林さんに向かって大声を張り上げた。顔には、これ以上ないんじゃないかと思うくらいの満面の笑み。自分の幸運に感謝してなのか、それとも単に陽気なだけなのか。
「それから、何かお飲み物はいかがですか? コーヒーか紅茶かココアか、あるいはビールやウィスキーもありますよ」
「それじゃ……コーヒーをください」
「わかりました」
おにぎりにコーヒーとは大した取り合わせだが、そんなのは人の好き好きだ。それに関してああだこうだと文句を言うようなことはしない。
「ん、そうだ。……篠崎くん!」
小林さんはその場から、いったんキッチンに戻ったみどりさんを再び呼んだ。それを聞いて、すぐに彼女がやってくる。
「何でしょう?」
「そっちのお客さんたちも何か飲むかどうか、聞いてみてくれ」
「はーい」
みどりさんはぼくたちの方にやってきた。小林さん自身がフロントからたずねると、美樹本さんをはさんで大声で会話することになってしまい、彼に失礼だからだろう。
「あたしもコーヒーください」
何かお飲みになりますか? とみどりさんがたずねるより早く、可奈子ちゃんが言った。続いて啓子ちゃんと亜希ちゃんが「あたしも」「あたしも」と名乗りを上げる。
「あたしたちもコーヒーもらおうよ。ね、透?」
「……うん」
ぼく自身はコーヒーより紅茶の方がよかったのだが、ひとり分だけ作らせるのも悪いので、結局そう言ってうなずいた。
「香山さんは?」
みどりさんがたずねると、香山さんはちょっと考えてから答えた。
「わしもコーヒーでええよ」
こういうとき真っ先に声を上げそうな香山さんなのに、今は妙にしんみりとしている。きっと2階の春子さんが気になっているのだろう。
「オーナー! みんなコーヒーでいいって!」
そんな香山さんとは対照的に、みどりさんはいきなりフロントの方を向いて大声で叫んだ。雇い主の小林さんに敬語を使うことも忘れている。
「あ、ああ。わかった」
答えた後、小林さんは美樹本さんと顔を見合わせて笑っていた。
それを見たみどりさんは、何がおかしいのよ、とでも言いたそうな顔でキッチンへと戻っていく。
美樹本さんは記帳を終えて鍵を受け取ると、巨大な荷物を軽々と抱えて2階へと上がっていった。見た目の通り、腕力には自信があるらしい。
2分ほどで美樹本さんは再び下りてきた。荷物と上着を置いてきただけのようだ。
「やあ、こんばんは。どうぞよろしく」
彼はみんなに軽く頭を下げると、たまたまひとり分空いていた真理の隣に座った。
それを確認してから、みんな口々に「よろしく」を言う。
「あなたはスキーセットを持ってなかったみたいですけど、スキーに来たんじゃないんですか?」
美樹本さんに最初に話しかけたのは、彼とぼくにはさまれて窮屈そうに座っている真理だった。
「ああ。ぼくはカメラマンで、このあたりの雪景色を撮りに来たんだよ。だけど、ちょっと困っちゃうんだよなあ、こんな吹雪じゃ」
彼は真理の顔をのぞき込み、妙に親しげにあははと笑った。
……ぼくの真理に何をするんだ。
ぼくだけでなく、真理本人も迷惑そうな顔をしてくれたが、美樹本さんの方はそんなぼくたちの態度にまるっきり気付いてないように見えた。
「あ、カメラマンなのね。そういえば何か大きなケース持ってたけど……」
ぼくたちを助けようとしたわけではないだろうが、可奈子ちゃんがそう言って真理から彼の注意をそらしてくれた。
「おっ、あれがカメラだって気付いてくれたか。いやー、嬉しいなあ」
美樹本さんは、今度はナンパの矛先を可奈子ちゃんに変えたようだった。
彼女の方はいやではなかったらしく、「ね、自己紹介してよ!」などと促す。
「そうだね。こんなにたくさんの人たちがいるんだから」
そう言ってみんなを見まわした後、美樹本さんは話し出した。
「ぼくは美樹本洋介。年は30プラスアルファ、ただし四捨五入すると40。仕事はさっきも言ったようにフリーのカメラマンさ。風景写真が主なんだけど、要望があれば人間も撮るよ。どうだい、誰かモデルになりたいって子はいないかい?」
過去に何度も同じ自己紹介をしたのだろう、美樹本さんはすらすらとそんなことを言ってのけた。
……「モデルになりたいって子」という言い方で、もうぼくと香山さんは話から除外されてしまっている。やれやれ。
「あ、あたし立候補する。撮って撮って」
可奈子ちゃんが即座に話に乗った。それにつられるように、メガネの亜希ちゃんもワンピースの啓子ちゃんもうなずく。
「ごめん。今ここでってわけにはいかないんだ。今回は人物用のレンズを持ってきてないんでね」
ぼくはいつも使い捨てカメラですませてしまうので、レンズにそんな差があるなんて知らなかった。
「なんだ。あ、そうだ。じゃあ名刺あげるから、また連絡してね」
言って可奈子ちゃんは、また例のピンクの名刺を胸元から取り出して美樹本さんに渡した。
いったいあの中に何枚入ってるんだろう。まさか、あのふくらみの中身は全部……っと、いけないいけない。
ぼくはよこしまな想像を慌てて頭から追い払った。こんなことを考えていたのが真理にバレたら、ビンタ一発じゃすまない。
「おお、これはかわいい名刺だね。ありがとう。遠慮なくもらっとくよ」
美樹本さんはそれを温かい目で眺めた後、自分の作業ズボンのポケットにしまった。
それとほとんど時を同じくして、鳩時計が8時を告げた。
するとそのとき、啓子ちゃんがいきなり手をたたいて口を開いた。
「あ、あたし見たいテレビがあるんだった。悪いけど、部屋に戻るね」
「……ちょっと啓子、コーヒーはどうすんのよ」
「誰か飲んじゃって。今日はどうしても見逃せないの。鍵返して、鍵」
啓子ちゃんは立ち上がると、いぶかしげな亜希ちゃんから半ばむりやりに鍵を奪い取り、階段を駆け上がっていった。
談話室の全員が、彼女の後ろ姿を目で追う。
「……あーあ、まったく啓子ってこれだからね」
可奈子ちゃんがぶつぶつと文句を言う。
ぼくも、せっかくここまで来たんだからテレビなんかどうだっていいのに、と思ったが、そこでぼくの部屋にはテレビがなかったことを思い出した。
彼女たちの部屋には、どうしてあるんだろう……。
別に特に見たい番組があるわけじゃないから問題はなかったが、なぜか気になってしまった。