第6章 かまいたちのように


少しして、香山さんが突然立ち上がった。
「どちらへ?」
小林さんがたずねる。
「春子の様子見てくるわ」
「あ、それでしたら私も……」
「いや、構へんよ。わしひとりで行くさかい」
ついていこうとする小林さんを断って、香山さんはひとりで階段を上っていった。事情が事情だけに、楽しい雰囲気が少し冷めてしまいそうになる。
「……春子さん、いったいどうしたのかしら」
真理が小声でたずねてくる。みんなの前で小林さんの料理のことに触れてはいけないだろうと思ったので、ぼくは答えた。
「わからないよ。疲れていただけかもしれないし」

――しかし、そう言い終わるか終わらないかのうちのことだった。

「ひ、ひゃああっ! 誰か……誰か!!」
2階から、恐怖におののいた絶叫が聞こえてきたのだ!
「香山さん!」
真っ先に動いたのは、フロントの前に立っていた小林さんだった。階段に座っていた俊夫さんとみどりさんの間をすり抜け、2階に駆け上がっていく。
彼以外の人たちは、みんな2階を見上げ、何があったんだといった表情をしていたが、そうして動かずにいられたのも、小林さんの悲鳴が飛んでくるまでのことだった。
「う、うわああああっ! なんて……なんてこった……!!」
「どうしたんですか!?」
ただならないものを感じたのだろう、俊夫さんが立ち上がり、叫びながら階段を駆け上がり始めた。
続いてみどりさんも無言のまま立ち、同じく無言のままの今日子さんと一緒に2階へと向かう。
「透……」
真理が、不安げな瞳でぼくを見つめてきた。
もしかして、小林さんの料理が原因で春子さんに何か大変なことが? ……ぼくはこの騒ぎでそんな最悪の想像をしてしまっていたが、彼女もそうなのだろうか。
「ぼくも見てくる」
その真理の向こうの美樹本さんも立ち上がり、そう残して2階へと向かった。野次馬根性からか、それとも気になってたまらないからか。

――後者であると気付くのには、それほど時間はかからなかった。結局、ここにいる全員が、気になって2階へ向かったからだ。

 

 

先行した俊夫さん、みどりさん、今日子さん、美樹本さんの4人は、香山夫妻の部屋と思われる場所の前に固まっていた。香山さんと小林さんは部屋の中にいるのだろう。
ぼくと真理、OL3人組も部屋の前に行って、開けっぱなしの入口から中をのぞく。

「……ひいっ!」
ぼくだけでなく、他の何人かも同じ声を発していた。

――部屋の中でぼくたちを待っていたのは、「最悪の想像」よりももっと悪い、「最悪の現実」だった。
春子さんが寝ているベッドは、赤黒く変色していた。枕もシーツも毛布も……ベッドの周辺の床までもが、むせ返るような赤い液体に染められていたのだ。
そして、それよりもさらにひどいのが、春子さん自身だった。夕食前に談話室で見せた美しい顔は、鋭利な刃物のような物でずたずたに切り裂かれ、見る影もなくなっていたのだ。あの静かな微笑みも完全にかき消されて――。
そう。それはまさしく巨大な「かまいたち」にやられたかのような凄惨さだった。
空気中に部分的な真空ができ、そこに皮膚が触れるとすっぱり切れてしまうという、あの「かまいたち」だ……。

「いやあっ!」
真理が叫び、ぼくの左肘のあたりをぎゅっとつかんできた。ぼくもできることなら誰かにつかまりたいような気持ちだったが、頼りにされている今、そんな情けないことはできない。
「は……春子……春子!」
腰を抜かして倒れていた香山さんが起き上がり、大量の血に脅えることもなくベッドに飛びついた。そして、毛布の上から春子さんを揺すり続ける。
――しかし、やはり彼女は起き上がらなかった。
「し……死んでるんですか?」
入口の一番前に立っている俊夫さんが、恐る恐るたずねる。
まだそれは確認していなかったのだろう、小林さんは下唇をぎゅっとかんで春子さんに近寄り、その脈を慎重に探った。
……やがて彼は瞳に絶望を浮かべ、黙ったままうなずいた。
「きゃー!!」
「いやーっ!!」
OL3人組が、黄色い悲鳴を上げながら3人で固まる。
「殺されたのか……?」
誰に向けてというわけでもなく、美樹本さんがつぶやいた。彼からは見えない位置にいたぼくも、それについうなずいていた。
当たり前だ。こんなひどい死に方が、事故や自殺や自然死であるわけがない。

「人殺しや! 人殺しがこのへんにおるんや! 出てこんかい!」
香山さんはベッドの横から立ち上がると、大声でわめき続けた。
人殺しがこのへんにいる……その言葉は、ぼくの背筋を寒くさせた。
春子さんを殺した犯人が、まだこの周辺に……。
「俊夫くん……警察に……警察に連絡してくれ。人が殺されていると……」
小林さんの顔もひどいものだった。彼は、春子さんが殺されたこと自体よりも、自分のペンションで殺人事件が起きたことでうろたえているのだろう。
「しかし……この吹雪で警察に来てもらえるんですかね?」
「そんなことは二の次だ。とにかく連絡するしかないだろう」
そう言われては文句などつけられるはずもない。俊夫さんは固まって入口をふさいでいたOL3人組をどかせ、1階に下りていった。
「出てこい! 出てこんかい! 人殺し……!!」
香山さんは、怒りをあらわにして叫び続けている。
「……香山さん。今の私たちにできることは何もありません。警察を待ちましょう」
その後に何かを続けようとして、小林さんは口を押さえた。おそらく、この天気では来てもらえるかどうかわかりませんが……といった類のことだろう。そんなのは言わないに越したことはない。
小林さんの言葉を聞いて、香山さんは叫ぶことだけはやめたが、やはり怒りに震えるのは抑えられないようだった。
当然だろうな、とぼくは思った。自分の奥さんがこんなことになってしまったら……。

「……ええ、そうです。ペンション『シュプール』……オーナーは小林二郎です」
俊夫さんの声が階段の下から聞こえる。
何とか警察に連絡はついたようだが、来てくれるのはいったいいつになるだろう。この吹雪じゃ今夜は無理かもしれない……それが的中する充分な可能性を感じてしまい、ぼくは思わずその場で首を横に振った。

 

 

小林さんが、香山さんをひっぱって部屋から出てきた。
そして、ノブの内側についたボタンを押してからドアを閉める。『シュプール』のドアは、みんなこうやって鍵をかけるタイプだ。
「みなさん。……犯人はまだこのあたりにいるかもしれません。身を守るために、全員で談話室にいた方がいいでしょう」
みんなは脅えつつも納得したが、そこで真理が声を上げた。
「叔父さん。もうひとりお客さんがいたような気がするんだけど……」
「そういえば……」
小林さんは、香山夫妻の部屋のちょうど向かいにあるドアに目を留めた。……おそらくは、あのサングラス男の部屋なのだろう。
彼はそのままそのドアに近づくと、強くノックして呼んだ。
「田中さん! 田中さん! 非常事態なんです! 開けてください! ……田中さん!」
しかし、返事はなかった。小林さんはノブをまわしてみたが、やはり鍵がかかっている。
田中さんというらしいあのサングラス男は、何をしているのだろう。
……まさか、あの男が春子さんを殺して、それで逃げたとでも……?

「オーナー!」
そこに、電話を終えたらしい俊夫さんが駆け上がってきた。……何やら、焦っている様子だ。どうしたというのだろう?
「お、おお……どうかしたのか?」
小林さんは俊夫さんを振り返ったが、やはり彼の態度が気になるのだろう、不安そうなままたずねる。
「警察に連絡はついて、一応事件のことは話したんですが……途中で電話が通じなくなってしまったんです! どうやら、雪で電話線が切れるかどうかしたみたいで……」
「なんと……」
小林さんだけでなくぼくも――きっと全員がそうなのだろう――深い絶望感を覚えた。
普段は気にも留めていなかったが、こういうときに電話が通じないというのは、予想以上に恐ろしいものがあった。
この吹雪のペンションに、ぼくたちだけが孤立してしまった――。
「警察は、この天気ではすぐというわけにはいきませんが、吹雪がおさまったら急行すると言ってくれました。現場には手を触れないでくださいとのことです……」
せめてもの救いにしようと思ったのか、それとも事実を述べただけなのか、俊夫さんはそう言った。
……しかし、小林さんには彼の言葉が耳に入っていないように見えた。
「大丈夫ですか?」
それに俊夫さんも感づいたのだろう、ゆっくりとたずねる。
「あ、ああ、大丈夫だ。ただ……実は、田中さんの部屋から返事がないんだよ」
「返事がない?」
「……開けてみたらどうかしら」
横の今日子さんが、遠い目をして提案する。
小林さんはそれを聞くやいなや、ポケットに入っていたマスターキーらしき物を取り出し、鍵穴に差し込んでロックを外した。
「失礼します……」
とりあえずそう中に声をかけ、小林さんはドアをゆっくりと開けた。

――そして。

「きゃああああ……っ!!」
現れたものを見て、今日子さんがその場に卒倒した。
なんと、あの田中さんという男も、春子さんとまったく同じ状態になっていたのだ。顔を切り裂かれ、赤黒い液体にまみれて……。
「今日子!」
小林さんは今日子さんを抱き留めると、彼女をみどりさんにまかせて、勇ましくも田中さんの部屋に踏み込んだ。
そして、さっきと同じように血まみれになったベッドの横に行き、田中さんの脈を探る。
……その結果まで、春子さんと同じだった。

「大変だ! これは大変なことだ……!!」
小林さんはもう何もかもが見えなくなったかのように叫び、部屋を飛び出してきた。そして慌ててドアをロックする。
「談話室へ……」
喉の奥から絞り出すような声で彼がようやく言えたのは、それだけだった。


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