第10章 黒猫


ぼくたち4人は、上着と手袋を乾燥室に置いてから内側のドアを開けて中に入り、上がった。

「犯人が逃げた形跡は、まったくありませんでした……」
小林さんは、中の人たちに聞かれるより早く答えた。
その意味はみんなにもすぐわかったのだろう、全員が全員を見まわした。
そう、明らかに互いを疑い合っているのだ……。

「……オーナー。ジェニーを知りませんか?」
醜い沈黙を破ったのは、30秒ほど後のみどりさんの一言だった。
「ジェニー? いや、私は見ていない。どこかに行ってしまったのか?」
「そうみたいなの。夕食の後くらいから見かけなくて」
今日子さんが答える。
ジェニーというのは、ここで飼っている雌の黒猫だ。昨日の夜に見せてもらったのだが、ぼくとはどうも相性が悪いようで、手をひっかかれてしまった。
「そういえば、さっきペンションの中を探索したときも見かけなかったな。どこに行ったんだ?」
俊夫さんも不思議そうに首をひねる。
「ジェニーって何ですか?」
ジェニーを知らない美樹本さんが、ペンション側の人たちに向かってたずねた。
「ここで飼っている黒猫なんです」
簡潔に、小林さんが答える。
「黒猫……じゃあ、餌でも置いておけば、そのうち戻ってくるんじゃないかな」
美樹本さんは無責任そうな意見を出す。
……しかし、ジェニーがいなくなったというのはどういうことだろう。どこに行ってしまったというのだろう。黒猫だけに、ふたりもの人間が殺されている現状では、不吉な思いがして仕方がなかった。

「もしかして……」
ふと真理がつぶやいた。
「もしかして、何だ?」
小林さんがたずね返したが、真理はその後をためらっているようだった。きっと、ぼくと同じようなことを考えているのだろう。
しかし彼女は、思いきって口を開いた。
「もしかして、香山さんか田中さんの部屋に入り込んでるんじゃないか、なんて思ったんだけど」
死体に導かれていく黒猫……黒魔術の儀式か何かみたいなシチュエーションに、ぼくはぞっとする気持ちを抑えられなかった。それはみんなも同じみたいで、誰もが震えているのがわかった。
が、少しすると香山さんがそれを否定した。
「いや、そらないやろ。さっき2階の客室は、わしの部屋やあの田中っちゅう男の部屋も含めてみんな調べたさかい。猫が自分でドア開けて入るんは無理やろ?」
妥当な意見だった。
「それに、わしの部屋と田中っちゅうやつの部屋は、調べた後で小林くんが暖房を切ったんや。そない寒いとこに猫がいつまでもおるわけないで」
暖房を切った……。
死体の状態を保つためには仕方のないことだが、つい恐ろしいものを想像してしまった。ドアの下のすきまから寒い風と一緒に幽霊のようなものまで出てきそうに思えたのだ。
「鳴かれたら困るっちゅうことで犯人が殺したとか、そのへんやろな」
香山さんがそう言って話を切ると、みどりさんがいきなり叫んだ。
「やめて!」
その声に反応して、みんなが彼女の方を見た。おそらくジェニーを一番かわいがっているのは彼女なのだろう。
「そんな……そんなかわいそうなこと言わないでよ!」
敬語を使うことも忘れ、みどりさんはまた叫ぶ。隣の俊夫さんが慰めるように彼女の背中をたたいたが、彼女は身をかわしてそれを拒んだ。
「せやけど、その可能性が一番高いんと違うかいな」
香山さんの言うことが正しいのは、ぼくにもよくわかる。しかし、もうちょっとみどりさんの気持ちを考えてあげてもいいんじゃないかと思い、ぼくは彼をほんの少し軽蔑の眼差しで見た。
彼だって、たったさっき春子さんを殺されたばかりなのだ。大事な存在を失うことの悲しみは知っているはずなのに……。
いや、そんな状態だからこそ、他人に気づかいする余裕なんかないのか?
そんな香山さんとは逆に、俊夫さんは本当に心配そうな顔でみどりさんを見下ろしていた。
彼は、ショックでうつむくみどりさんを見守るのと、彼女をそうさせた香山さんをにらみつけるのとを交互に繰り返していたが、やがて視線をみどりさんに固定し、そっと言った。
「……心配するな。きっと奥の部屋かどこかにいるんだ。ちょっと俺が見てくる」
そして彼は、誰の返事も聞かずにぼくたちに背中を向けると、フロントの横の廊下を通って奥へと駆けていった。どうやら彼は、思ったことはすぐに実行するタイプの人間らしい。

残された10人は、みんな彼の行動を見ていた。うつむいていたみどりさんも、顔を上げて見ていた。責められていた香山さんも、もちろんぼくも。
「私も行ってくるわ」
今日子さんがそっと言い、俊夫さんの後を追った。
「……待て、今日子!」
突然小林さんが叫び、同じく奥へと飛んでいく。
――ぼくは、そんな彼の態度を見ていやな想像をしてしまった。
もしかして小林さんは、俊夫さんを犯人だと疑っているんじゃないだろうか? だから、彼と今日子さんをふたりだけにするわけにはいかないと判断した……。
しかし、俊夫さんにはアリバイがあるはずだ。いや、彼だけでなく、ここにいる全員に――。

「……あたしも行くわ」
みどりさんは、しっかりした表情に戻ってフロントの横を見た。
「あ、みどりさん……」
が、ぼくはその瞬間、思わず彼女を呼び止めていた。
彼女に何の用事があるわけでもなかったが、なぜそんなことをしたのか、彼女がぼくを振り返ってから気付いた。
ぼくは、ペンション側の人間を4人だけで一緒にさせない方がいいと判断したのだった。もし彼ら4人が全員共犯だったら……ぼくはいつしかそう考え始めていたのだ。
4人の共犯だったとすると、ふたりの人間を殺すのも難しくないだろうし、アリバイ工作だって何とかなりそうだ。
――もちろん信じられない、また信じたくない推理ではあるのだが。
「何?」
みどりさんが返事をする。
「ジェニーには、普段から外を出歩くような習慣があったんですか?」
ぼくは、その場の思いつきで適当な質問をした。
すると、みどりさんはそれについて話し出した。彼女を足止めするという目的は達成できたようだ。
「ううん、ないわよ。今のシーズンはもちろんのこと、夏場でもペンションの中に閉じこもりっきりだもの。たまに地下室に入り込んだりすることがあるくらいかしら」
「地下室……? どこにそんなものがあるんですか?」
ぼくの頭に、ひとつの推理が浮かんだ。スタッフ4人全員共犯説を信じるよりは気が楽な推理だ。
「乾燥室の中だけど……それがどうかしたの?」
「ひとつ思いついたんです。これは、もし犯人が外部の人間だったらの話ですが、例えば地下道を掘ってその地下室に侵入したとか……」
「いや、それはないんじゃないかな」
が、美樹本さんがすぐさまそれを否定した。
「あの地下室への階段の入口のドアには、確かこっち側から鍵がかかってたような気がするから」
そういえば彼らは、探索のとき乾燥室にも調べに入っていた。
「そうよ。がっしりした錠前がついてるわ。地下室の側からじゃもちろん絶対開かないし、こっちからでも鍵がなきゃ無理よ」
「じゃあ、どうしてジェニーが入り込めるんですか?」
「あそこはワイン蔵だから、風を通すためにドアを少し開けっぱなしにしとくことがあるの。ジェニーが入り込んじゃうのはそのときよ」
みどりさんはそこでぼくを見て、続けた。
「それに透くん、あなたの推理は根本的に間違ってると思うな、あたし。この積雪の中で地下道を掘るなんて、絶対無理な話じゃないの」
……言われてみれば、確かにその通りだ。
が、ぼくはこのみどりさんのはっきりした言い方に、少々腹を立てた。

彼女に反論するべく別の推理を考えていると、ふと亜希ちゃんが呼んだ。
「あの……みどりさん」
「何かしら?」
「このペンションには、共同トイレはないんですか?」
「ええ。トイレは部屋にしかないわ」
「そうなんですか。……じゃあ、しょうがないわ。あたし、ちょっと部屋に戻ってトイレに行ってきます」
「あ、あたしも行く」
「あたしも」
亜希ちゃんがソファーを立つと、可奈子ちゃんと啓子ちゃんも続いた。
どうして女の子はこう集団でトイレに行きたがるのだろう、とぼくは思ったが、こんな事態なのだから、ひとりより3人の方が安心に決まってる。気にするのはやめた。

OL3人組が2階に行ってしまうと、談話室に残っているのはぼくと真理、みどりさん、香山さん、そして美樹本さんの5人だけになった。


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